「幾ら金を積まれようと、私は愛を選んだのだよ」
「……はぁ」
 誇らしげな隊長には悪いが、俺にはさっぱり理解できない。ティエリアと隊長と三億の間に一体何があったのか、屋外で一時間ほど耳を傾けても全く推測が出来なかった。しかしそんな反応にも構わず、隊長は堂々と言葉を続ける。この人の音声データを解析しなければならないカタギリさんを心底哀れに思う。
「しかし、そこでティエリアを捨て置くのも哀れだ。そこで私は、彼に対案を提示した。というのは……、」
「あ、すみません。着信が」
 俺にはカタギリさんのような翻訳機は備わっていないようだった。解読を諦めて端末の着信に応答する。普段、基地内では出ないように心がけているのだが、今は何でも良いから隊長の言葉を受け流す理由が欲しかったのだ。
 噂をすれば何とやら、と言うべきか。カタギリさんからの呼び出しだった。向こうの要求通り映像をオンにする。
「はい。こちらロックオン・ストラトス少尉です」
 ティエリアによるカスタマイズ済みのホロモニターには、暗がりの中でも鮮明にカタギリさんの濃い隈まで拾うことが出来た。いつもの穏やかな雰囲気すら消し去った無表情が、胸をざわめかせる。彼は画面上で、指先でちょいちょい、と何かを引き寄せた。促されるまま、そこに映った人影は、
「ティエリア!?」
 俺の端末の待ち受けに収まっている可愛い顔が、何故かそのままモニター越しに存在していた。それだけでも信じられないのに、どうやら背景から察するに二人はベッドの上にいるらしい。しかも、あろうことかカタギリさんは、器用にモニターに映したまま、ティエリアの着ている服のボタンを外し始めたのだ。
 頭が真っ白になる。相手は隊長だとばかり思っていたが、伏兵がこんなところにいたなんて。どうして気づかなかったのだろう。最近急に親密になり、名前で呼ぶようになり、一緒に旅行まで――。
「ねえ、ロックオン」
 そうして果ての無くなりそうだった俺の想像力を、更に強烈な現実が上書きする。服だと思っていたのはカタギリさんの白衣で、その下からは――ナースの衣装が覗いたのだ。小さい画面なので分かりづらいが、何故かミニスカートまではいている徹底ぶりだった。全く以て意味が分からない。
「君達のアブノーマルなプレイに僕を巻き込まないでくれる? ホンッット引くんだけど」
「…………誤解です。俺たちはノーマルです」
 限りなく感情のない声で落とされた抗議に、真っ白な頭のまま反射的に答える。反射だったが、偽りはなかった。正直に答えすぎて、余計なものまでくっつけてしまった。俺には隊長のように、性生活を露出する趣味はないのに。
 そのとき、隣にいた隊長が、ひょい、と俺のホロモニターを覗いて、口許をほころばせた。とてもとても満足そうな、笑顔で。
「見立て通りだ。似合っているぞ、ティエリア・アーデ! フラッグを贈るよりも何倍も素晴らしいプレゼントだろう?」
 彼の、空気を読まない発言が、混乱した状況を全て説明していた。更に彼は、最も端的な答えをくれる。その言葉が空気を読んでいるのか、読んでいないのか俺には分からなかった。
「誕生日おめでとう、我が親友よ!」
 唯、それを言われたときのカタギリさんの、凍り付いた微笑だけはきっと、忘れられない。






 僕は確かに癒されたいと徹夜三日目くらいにグラハムにこぼした記憶はある。それにしても、小国の一年の国家予算の半分にも及ぶフラッグか、女装美少年の添い寝サービスの二択だなんてあんまりだろう。前者は魅力的だがあまりにも大がかりだし、後者など論外だ。くどいようだが、僕にそういう趣味はない。彼がその恰好のままでいるのは、単純に彼の着替えがないだけで僕の趣味ではないのだ。断じて違う。この状況を作った張本人に、着替えを持ってこさせるまでの辛抱だった。
 仮眠室のベッドから動けず、その上でちょこんと座っているティエリアは本当にいたたまれない。しかしこの恰好をした彼を他人の目に晒すわけにもいかなかった。連日の徹夜で深く寝入っている周囲に感謝した。出来ることなら一刻も早く、僕もそこに混じりたい。苦いため息を吐いて、切り替える。
「そもそも、どうやってここに入ってきたんだい? 来客用のキーは持っている?」
「あんなオモチャ、造作もない。ユニオンのセキュリティもたかが知れているな」
 そういって彼は鼻で笑ってみせた。ここのセキュリティは一応この国の最新、最高の技術を用いたものなのだが、彼によっていともあっさりと破られてしまったらしい。それだけ頭が回るならば、グラハムの言っていることを何故真に受けるのだろう。彼はグラハムが苦手なようだったが、案外波長は合ってしまうのかもしれない。あまり信じたくはないけれど。
「グラハム・エーカーに前金と共にフラッグを購入できないか持ちかけたのだが、私のフラッグへの愛は金ごときで揺らぐものではないのだ、と断られた。他の候補が思いつかないので食い下がっていたら、あの男から対案を提示された。必要なものは全てあちらが用意してくれるというので乗ったまでだ」
 本人による事情説明に、本気で頭痛がした。
 そもそもグラハムにフラッグの購入を決める権限などない。彼はあれがどんなに面倒くさい手続きのもとに売買されているのかも知らないだろう。あの男に権限があったとしても、ライセンスを持たない民間人にフラッグを売りつけること自体立派な犯罪だ。然るところに耳に入ってしまえば、ここの会話だけで彼とグラハムを逮捕することだって出来る。頼むから、これ以上危ない橋を渡ろうとしないで欲しい。その原因が僕への誕生日プレゼントだなんて、まさにありがた迷惑だった。
「その対案というのが、これ?」
「癒しに必要なものは37度前後――人間の体温と同程度の温度。この服は癒しのプロフェッショナルの制服だと言われた。俺は徹底的にやらせてもらう」
「……あ、そう」
 事情を説明するときの自信満々な有様に、どうしていいのか分からなくなる。これもどうせグラハム辺りの刷り込みだろう。それを全て真に受けるというのは如何ともしがたい。全身がどっと疲れて意識を保つのもやっとだった。それでも辛うじて意識を現実に繋いでいられたのが、彼らの行動の動機が、僕のためであるという事実ゆえだ。
 せめて欠片でもからかいや悪ふざけの感情が含まれていればまだ救われたのだが、この冗談としか思えない状況は、どうやら彼らが本当に僕に良かれと思ってやっていたようだった。今年は二人なので、単純に気疲れも二倍になる。癒しのプレゼントと主張する相手を前にどうしようもなく疲れるなんて、矛盾している。
 同居人のスポイルその他の理由により、グラハム以上に世間ズレしているこの少年に、年長者として何を言うべきなのか、しばらく言葉を探した。しかし回らない頭では充分に選び取ることも出来ず、結局口から出たのは、ひどくありふれた言葉だった。ナースキャップの下にある、柔らかい髪に手を差し込んで固定する。赤い双眸を覗き込んで。
「君は愚かだよ、ティエリア」
 ティエリアが目を見開く。油断をすると三人に増えてしまいそうな視界を、固定する両手と、瞬きで抑えるが上手くいかない。左手を髪から抜いて、目頭を揉んでから言葉を重ねた。
「人の言葉を丸飲みするだけでなく、自分の頭で考えるんだ。その賢い頭は飾りじゃないだろう。それは本当に、君の望んだことかい?」
「……俺の望みなど関係ない。これは貴方の望みだから、」
「だったら、なおさらだよ。自分の中にない答えなら、余計に考えなきゃいけない。考えることを放棄しては駄目だ。与えられた答えで満足しないで、君が、」
 言葉が途中で途切れる。眩暈がどんどんひどくなっていく。そろそろ限界が近いらしかった。仮眠室の、寝息とやわらかい空気がそれを助長させているのかも知れない。まだ話は途中なのに、頭も舌も上手く動いてくれない。強制的に落ちてくる目蓋と首が、ふっと意識を黒く染める。意識を失う瞬間に捉えたのは、こちらを見下ろしてくるティエリアの、透明な赤い双眸だった。






「ティエリア!!!!」
 声と共に駆け込んでから、指定された場所が仮眠室だということに気づく。眠気の溜まったまるく重い空気に戸惑いながら、それでも早鐘を打つ鼓動は収まることを知らない。ずらりと並んだベッドからティエリアの姿を探す。あんな目立つ恰好でうろつかれても困るが、寝入っているとはいえ歴戦の猛者に囲まれたベッドの上に座るなんて、ネギをしょったカモのようなシチュエーションでいられても、それはそれで困るのだ。過保護だと隊長に笑われようとも仕方ない。
「……ロックオン?」
 聞き覚えのある声がして、慌てて薄いカーテンを開ける。レールの金具の擦れる澄んだ音すら耳につく室内で、俺を出迎えたのは、
「うるさい。静かにしろ」
 ベッドの上でちょこんと座っている、ナース姿のティエリアと。その膝を枕にして、ぐっすりと眠っているカタギリさんの姿だった。
 きちんと留められた白衣にタイトなミニスカート。ホロモニターで予め見てはいたもののの、こうして生で見るととんでもない服装だと、改めて思い知った。どう反応して良いのかわからず、たっぷり数秒それを眺めていた。怪訝に思ったのか、ティエリアに名前を呼ばれる。カラカラに乾いていた喉が、ようやく声を絞り出す。思った以上にボリュームが出なかったのは、ここが仮眠室であるせいだけではなく。
「着替え、ないと……、」
「必要ない。このままでいい」
 あっさりと断られ、どうしていいのか分からなくなる。脇に抱えた着替えをきゅっと握りしめ、でも、と言うとティエリアがゆっくりと首を振った。そうして、穏やかな声音で吐き出す。
「いいんだ。僕が、そうしたいから」
 はっきりと意思を伴った声音と、膝の上に乗った頭を撫でる優しい手つきに、答える言葉を無くした。ティエリアがはっきりと望みを口にしたことはひどく少なかったから、俺はいつも何も言えなくなるのだ。



 今日だけですから、ね。
 ティエリアの膝に顔を埋めて熟睡している上司に一礼してから、ゆっくりとカーテンを引いた。彼を起こさないように。