本来ならば肌を晒すような場所ではないし、こちらとしても出来ることなら招き入れたくはなかった。公私の区別をきっちりとつけてこそ、公も私も楽しめるのだから。
 しかし、行くところがないというのなら仕方あるまい。まさかフラッグファイターが集まる更衣室に、部外者を放り込むわけにもいかなかった。その容姿は望まなくとも目を惹くに決まっていた。結局、事に及ぶには自分の執務室に招くのが一番安全だという結論に到達する。最近宛われたばかりのそれは、手狭ではあるが外に動きが漏れることはない。
 そのことは以前のパートナーと、セックスをしたときに実証済みだった。セックスのときの彼女の声は魅力的だったから、場所に躊躇って声を抑えようとするのを咎めた。業務時間から大分外れていたから、ろくに人も残っていまいと思ったのだ。実際、漏れていた様子もない。
 鏡があればいいのにね。と、彼女が行為の後に漏らした場違いな嘆きを思い出していた。そのときは馬鹿なことを、と思ったものだが、その後にこの部屋から彼女が首から提げていた身分証が出てきたときには困惑した。忘れものを防ぐために、全身写る鏡を置こうかとカタギリに相談したら、そもそもこの場で行為に及ぶなと、尤もな注意を受けて終わった。
 しかしその嘆きの方が、今は適切であるように思う。鏡がないせいで、着衣に苦労している客人がいた。きめの細かい白い肌を惜しげもなく晒しながら、ラベンダー色の下着のホックが留められずに悪戦苦闘している。
 見かねて後ろから下着をつまみ、留めてやる。途端、予期せぬ助け船に驚いたのか、華奢な身体が大きく跳ねた。その拍子に、ブルネットの隙間から覗く赤い鬱血の痕を見つけた。口の端をつり上げる。
「可愛いなぁ」
 舌の先だけを使って囁くように言うと、意志の強い瞳に睨めつけられた。その抵抗さえ愛らしく、満ち足りた気分でその姿を眺める。場違いな姿はまるで大それた秘密のようで、私を楽しくさせた。
 やがて全ての身支度を終えて、相手はこの部屋を出ようとしていた。その背中に迷いは微塵も見えず、フラッグファイターが征くときの姿に似ていた。可愛らしい外見とはあまりにかけ離れていたが、何故だか思い出していた。
「待ちたまえ」
 去ろうとする背中に呼びかけ、振り向きざまにオードトワレを吹きかける。手のひらにすっぽり収まるほどの小瓶は、以前この部屋に来た女の忘れ物だった。この場にはあまりにも場違いだったが、他人の私物を自宅に持ち帰りたくもなかったので持てあましていた。
 しかし眼前の相手には良く似合いそうな香りだった。ここで抱いた女よりもよっぽど。
 顔をしかめて匂いを嗅ぐ様子は、理知的な外見に似合わず動物的だった。餞別だ、と微笑みかけてから、右手を出してエスコートをする。耳元で目的の場所を囁いた、その後に。
「どうぞ」
 無言で身を翻して部屋を出る後ろ姿に、もう鬱血の痕は見えない。一瞬だけ触れた背中の温かさを、ぼんやりと思い出していた。









 先日イリノイ基地で行われた演習には、毎年、帰ってきて暫くは疲労のあまり自慰の仕方すら忘れるだとか、数日間真っ赤な小便が止まらなかっただとか、そういう恐ろしい噂が立っていた。一向にそれらが消える様子はないから、恐らく事実なのだろう。
 それでも、今年も誰一人として欠けることなく無事に帰還してくれた。大変喜ばしいことだ。母親の股から生まれ落ちたばかりの新兵たちも、この演習を乗り越えるとようやく隊員らしくなってくる。
 しかし、げっそりとやつれた若者達を見て、微笑ましい気分になっていられるのは帰還当日くらいだった。僕らのような後方支援組はいつも、彼らよりも少し遅れて地獄を見るのだ。
 模擬戦で虐め抜かれたフラッグたちの整備を一刻も早く済まさねばならないし、同時並行で演習のデータをまとめて上へ送るのも僕らの仕事だった。加えて僕は、演習データを参照して微調整するという物好きなこともしているから、余計に時間が必要になる。
 結局、僕の修羅場も落ち着いたのは彼らが帰還して一週間経った今日だった。徹夜した日数を三日目までは数えていたけれど、そこからは数え上げたら眠気がきそうで諦めた。目の下に刻まれた隈は日々濃さを増すばかりだ。間違いなく流血沙汰になると思い、手をつけるのを諦めたせいで、無精ひげもみっともなく伸ばしっぱなしになっている。カフェインの効かない身体に嫌気がさし、おおっぴらに言えないルートで手に入れた薬を服用しかけて、部下に止めてもらったばかりだ。彼も殆ど眠ってはいないだろうに、身体を張ってくれて本当に感謝している。彼がいなければ人として終わっていた。
 しかし戦争のような嵐のような仕事の山も、既に過去のこととなった。これでグラハムに、男前に磨きがかかっただとか無精ひげも良く似合うだとか言われずに済む。演習から帰ってから日々健やかさを取り戻していく彼が心底憎らしかった。何度言っても報告書を提出する気配は見えず、音声データでも意味不明なことを口走っている。グラハム語が分かるのは技術顧問だけなんです、と仕事を押し付けられるのはもうまっぴらだった。頼むから母語を喋って欲しい。
しかし戦争のような嵐のような仕事の山も、既に過去のこととなった。これでゆっくり眠れると、そう思っていた。今頃僕は、仮眠室のベッドと蜜月を過ごすはずだった。
 ――それなのに。

「えーと、まずは年上か年下か。ブロンドかブルネットか。その辺りから始めましょうか」
 アナログなホワイトボードの前で、ロックオンが通りのいい声で仕切り始めている。前時代の遺物であるボードを使用しているのは、証拠が最も残りにくいから、という僕のアドバイスで、ロックオンが仕切っているのは彼が新人であるためだろう。とかく、軍隊という組織は下の者に面倒を押し付けたがるから。
 一番小さな講義室を貸し切って、比較的階級の高くない隊員を中心に思い思いの姿勢でロックオンの言葉を聞いている。机に足を乗せているものもいるが、表情は真剣そのものだ。僕が行った座学のときよりも遙かに真面目に聞いている。
 といっても、僕の授業は退屈な座学の中でも、脱落者が九割を越える評判の悪さを誇っているのだが。辛うじて意識を保っていた一割に含まれるロックオン曰く、僕の言っている言葉はグラハムとは別の意味で『理解不能』らしい。一応、最新の研究論文を何本か参照してそれなりに聞ける内容に仕上げたのに、上からは仕事を増やした当てつけかと叱られてしまった。
 それならばそれで、いい加減座学の担当から外した方がお互いのためだろうが、外れる気配は一向にない。ここの人手不足も相当深刻のようだった。
 しかし深刻といえども、今の僕がこの場に付き合う理由は何もないはずだ。狭い講義室の一番最後の列の席を宛われ、言葉と共に書かれる右上がり気味のロックオンの直筆を眺める。その間にも視界はかすみ、油断をするとロックオンが三人か四人に増えていく。僕の講義で落ちるひとたちは、こんな気持ちだったのかと今更になって実感した。
「前回はヨーロッパ系30代だったよな。何ヶ月くらいだっけ」
「え? インド系20代じゃなかったか?」
「バッカ、それは前々回だろ。ジョシュアの一人勝ちだったやつ」
「じゃあ、イリノイ基地の事務員っていつんときだ?」
「あー、もう! いっぺんに喋らないでください! 過去のデータは配布した資料のなかにありますから!」
 口々に喋り出す隊員達を、慌ててロックオンが諫める。そこでようやく資料に気づいたのか、一斉に紙をめくるぱらぱらという音がした。その音に従うように、僕もまた机の上に目を落とす。
 眠りを知らない両眼には眩しい白さの、今時珍しいアナログな紙資料。これもまた、処分し易いという僕のアドバイスをもとに隊員達が作り上げたものだった。電子ペーパーは思わぬところでバックアップ機能が働いてしまうため、結局は回収して焼却出来る紙媒体の方が確実な処分が出来るのだ。
 そこに、黒いインクで無愛想に書かれた一行。
『グラハム・エーカー中尉の次の恋人は誰だ!?』
 その簡素さとゴシップ紙のような文面とのギャップに笑い出したくなるが、彼らは至って真剣だった。ファーストフード店の食玩よりも頻繁に変わるグラハムの恋人たちを、大量に列挙している。ヨーロッパ系30代、インド系20代という控えめな表現のお相手から、整備課二年目のJ・M(退職済)という穏やかではない気配のするものまであった。よくぞここまで調べ上げた、と感心したくなるが、別に彼らはゴシップ紙の記者でもなければ、グラハム・エーカー中尉のストーカーでもない。彼らがここまでグラハムの女遊びに興味を示す理由は、資料の末尾に書かれた一文のせいだ。
『一口10ドルから。現金のみ。後払い不可。』
 ――そう。つまり、これはギャンブルなのだった。若手の隊員にのみ参加を許された、おおよそ真っ当とは言い難いゲームだ。自分の所属する隊の隊長の女遊びをネタにして、賭博行為を行うなど、露呈すれば間違いなく営倉では済まされまい。
「今回の本命はやっぱり総務課のあの子じゃないスか? 何度か一緒に食事してましたし…」
「馬鹿かお前? 食事程度で確定なら技術顧問なんてとっくに妊娠してるだろ! やっぱインド系20代とヨリを戻すのがガチで、」
「……ジョシュア。君さぁ、君の乗るフラッグも僕が整備してるって知ってるよね?」
 眼鏡を中指で押し上げてそう呟くと、興奮気味だったジョシュアの顔がさっと青ざめる。すごすごと身を小さくして席に着く彼に、どっと笑い声が起こった。隊長の気質か、風通しのいい隊内の雰囲気は悪くないと思っているが、たまに遠慮がなさすぎて如何なものかと思う。特に今の僕は、キャパシティに極端に余裕がなかった。一刻も早く仮眠室に行きたいのに、周りの空気が許してくれない。
 何故隊員の褒められない遊びに僕が付き合わされているかというと、それは全くもって好ましくない理由からだった。なぜなら、僕はこの紙に書かれている遍歴のミスと漏れを全て指摘することが出来る。全くもって、嬉しくないのだけれど。
 七年も付き合っていれば相手の女性の好みなんて予測がついてしまうし、そうでなくてもあの男は、とかく僕に恋人の話をしたがった。理由はよくわからないが、ハイスクールの男子学生のように頬を染めて打ち明けられるから、こちらとしては困ってしまう。聞きたくなんてないのに。
 誰が呼び始めたのかは知らないが、今ではスーパーバイザーなんて肩書きまでくっついてしまっている。そのくせ一人勝ちが確定してしまうからといって、賭けへの参加は許されない。理不尽な立場だ。配当金の一割くらいは請求しても罰は当たらないだろう。
「技術顧問はどう思いますか?」
 タイミングよくロックオンがこちらに振ってくる。隊員達が一斉に口にした予想を、ほぼ漏らさずボードに記しながらも、話を進めている。彼が仕切るようになってから、この会議も大分まともになってきたように思う。喜ばしいことだ。ジョシュアが担当していた頃は、それはもう酷いものだった。
「んー……今回は年下だと思うよ? それ以上はノーコメント」
 僕の言葉に隊員が沸く。座学のときもこれくらい盛り上がってくれれば言うことがないのだけれど。やはり、人というものはこれくらい俗っぽい話題でなければ食いつきが悪いらしい。
「年下って言えば……この前、隊長が十歳くらい年下の子とお茶してるの、見ました」
 挙手をして、隊員のひとりが発言した途端、場が更に盛り上がった。ロックオンが素早くボードに、十歳年下、ロリコン疑惑!?と書き加えていく。ここまで若い相手も珍しいし、正直僕にとっても意外な報告だった。しかし、それだけにとどまらず、ぱらぱらと挙手が続く。
「俺も見ました。すっげー美少女。遠目だったからよくわかんねえけど、あれ…アジア系かな?」
 ボードに更に加えられていく。美少女。アジア系。相変わらず手の動きが流れるような早さだ。
「そうそう。どっちかっていうときつめの美人って感じ。結構長身だったから、十歳も離れてないんじゃないか?」
 美少女、の文字に矢印が引かれ、きつめ?と書き加えられる。長身。十歳年下、の横にクエスチョンマークが追加。もう殆ど書くスペースがなくなってきている。
「他に特徴は?」
「あ、眼鏡。眼鏡掛けてました! それと…、」
 隊員が、思い出したようにそれを口にした、瞬間だった。
 今まで、滞りなく進行してきたロックオンがぴたりと静止したのだ。まるで、突如として電源の落とされた機械のように。つられて、場の空気がしんと静まる。唯、発言した隊員が居心地悪そうに続ける。語尾は殆ど消え入りそうだった。
「それと、ピンクのカーディガン、羽織って…た、かな……?」
 途端。
 バキィッッ!!!
 目も醒めるようなすさまじい音がして、ロックオンの持っていた赤いマーカーが折られる。彼の手に赤いインクが飛び散り、まるで血のようだと思った。周囲の人間はロックオンの突然の変貌に気圧され、言葉を失っている。その場にいた人間の中で、僕だけが彼の変貌の理由を理解していた。あまり嬉しくなかった。
 たっぷりの沈黙の後、うつむいたままのロックオンがボードにインクまみれの手をあてる。眼鏡、の辺りに重なる真っ赤な手形はちょっとしたホラーだ。
「…………すみません。煙草、吸ってきます」
 彼が半年ほど前に禁煙を始めたのは、隊内では周知の事実だった。しかしその場でそれを指摘する者は誰も居らず、静かに去っていく彼を黙って見送った。講義室の小さなドアが乱暴に開閉され、廊下を疾走する足音がこだまする。それすら耳につくほどの静寂のなか、手形からたらりと赤いインクがこぼれおちていた。




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