「なーあ、ティエリア、いい加減出てきてくれよ」
 我ながら情けないと思いつつ、猫なで声しか出てこなかった。
「ティエリアー、淋しいんだよ。出てきて一緒に寝よう? な?」
 時計の針が揃って真上を過ぎたのは一時間ほど前のこと。それは同時にティエリアがバスルームにこもって一時間が過ぎたことを意味している。




 良い雰囲気だったのだ。文句なしだった。毛足の長いラグに直に並んで座り、ティエリアの形の良い頭はごく自然に俺の肩に寄り添う。ラグに半分埋もれた手は重なって高い体温で汗ばみ、しっとりと密着していた。垂れ流しにしていたテレビの音が穏やかなものに変わった一瞬にティエリアの頭が動き、俺も顔を傾ける。呼吸をするよりも自然に重なった唇は最初こそ触れ合うだけだったが、やがて激しく互いを求めて強く吸い、絡み合った。
「あ、」
 ゆったりとしたセーターの裾に手を入れると、ティエリアは身を捩る。制止するように重ねられた手は熱く、俺はむしろそんな態度にこそ煽られた。
 少し性急かもしれないと思いつつ、入り込んだ手はなめらかな脇腹から背中へ、そして座っている姿勢のせいでできたボトムと背中の隙間へと進む。
「やぁ、だめだ、」
 谷間に指を埋め込むとそこがきゅう、と締まるのが可愛らしい。なおも手を剥がそうと身を捩るティエリアの目尻には涙が滲んでいた。
「そんなこと言わないで」
 耳に熱い吐息と共に囁いてやれば抱いた身体が震える。いつもならそれで大人しく、そして淫らもとい協力的になるのが休前日の夜のティエリアの常だった。
「だめだ、あなたは明日も仕事が、」
「大丈夫、明日は休みだ。一日遅れの誕生日休暇だってさ」
 瞼に浮かぶ休暇をくれた上官の顔を振り払いながら、甘さを意識した声を出す。それを聞いた途端、駄々をこねるように頭を振っていたティエリアも止まった。
 きょとんと見上げる無垢な瞳に、下を探っていた俺の右手も動きを止める。この切り替えの早さに、俺は時々パートナーがいつもは感じているふりをしているのではないかという疑念に悩まされるほどだった。
「なんだって?」
「隊長だよ。シフトの都合でどうしても今日は休めなかったから、明日ってこと。本人いわく、誕生日の君は独り占めならぬ部隊占めさせていただくっ! ってこと、らし、いんだけ、ど……」
 抗いながらも感じていたティエリアが、ドン引いていくのがわかる。せっかく温まった右手もみるみる冷えていき、するりとボトムから抜けてしまった。部屋着のゆったりとしたウェストが俺の手で引っ張られ、ゴムの反動でそのまま元の位置に戻ったのが合図だ。ティエリアは瞬時に立ち上がり、身体を反転させる。
 ティエリアと暮らしてきた時間は伊達じゃない。原因とそれから来るティエリアの心の動きは後でじっくりゆっくり確認すればいい。なんなら身体込みで。
 まず俺がすべきなのは、ティエリアが自分の城に閉じこもることを阻止することだ。密着していた身体を突きとばしかねない勢いで俺も立ち上がり、ティエリアの進行方向―――ティエリアのホビールームとティエリアの間に立ちはだかった。
 だん、と床をティエリアの踏みとどまった足が叩く。急制動で前につんのめりそそうになる身体が、差し伸べた俺の手に届くより先に、ティエリアは体勢を立て直して方向転換した。
 この家にホビールームの他に鍵がついている部屋は寝室くらいなものだが、それは居間から見てホビールームと同じ方向にある。俺が立ちはだかったせいで、ティエリアがこもる場所は一つきりしかなくなってしまった。すなわち、バスルームに。



 それが一時間ほど前のこと。幸いバスルームの中も外も暖房が効いていたので旧世紀のように凍えることはないが、たとえば二人で仲良くしているベッドの中のような温もりはない。
 何度が化粧ガラスの扉を、エサをねだる猫のようにかりかりと引っ掻いて猫なで声を出してみたが、ティエリアはうんともすんとも言ってはくれなかった。
 怒っているのではない。それくらいはわかる。悔しいのだろう。その原因も想像がつく。それだけの時間を俺とティエリアは共有してきたはずだ。なのに、それを未然に防げなかっただけの時間が、俺とティエリアには不足していた。
 俺はそんな行き違いを、時間と言葉と時には身体とで擦り合わせていくことも楽しんでいる。だが完璧主義の傾向があるティエリアは、その度に自分や俺や、世界の常識を責めていた。
「いいんだよ、ティエリア。俺だってもう誕生日が嬉しいって年でもないんだ。365日に一回しかない誕生日よりも、ティエリアと過ごせる何でもない364日の方が、俺には大事だよ」
 ガラスに額を当てて、声を振動させるように言うと、ガラスを通して鼻をすするような音が聞こえる。やはり泣いていたのだろう。
「あなたの誕生日も祝えないなんて……僕は、わたし、はっ……」
「万死には値しないからな」
 何かに失敗したときの口癖はもう覚えてしまったので先に否定しておく。
「あなたの誕生日すら、私は知らなかった……」
「それは教えなかった俺が悪いんだよ。100%俺が悪い」
「あなたが悪いことなんて、ひとつもない」
「俺が悪いの。本当に祝って欲しかったら、俺はちゃんと自分でティエリアに言うよ」
 どんどん、とくぐもった衝撃音がする。ティエリアがバスルームのタイルを叩いているのだろう。そこで俺は自分が言葉を選び損ねたのだと気づいた。
 まったく、時間と言葉による擦り合わせを厭うわけではないが、もう少し穏やかなものにはならないだろうか。―――ならないんだろうな。俺がそんな不器用なティエリアを可愛いと思う限りは。
「違う、ティエリア。ティエリアに祝ってほしくなかったんじゃない。知られたくなかったんでもない。ティエリアと一緒にいられれば、誕生日なんて関係ないんだ、本当にそういうことなんだよ、なぁ」
 叩く音が止んだ代わりに、啜り泣きが聞こえ始めた。俺が聞いているから必死に堪えているのだろう、上手く咀嚼できずにしゃくりあげる呼吸が痛々しい。
「クリスマスは、特別だった、」
「だからそれは……ああ、もう」
 以前、丹精込めて練ったクリスマスのプランを台無しにされて怒ったことがある。結果としてその年のクリスマスはかつてない幸せでエキサイトした夜を過ごせたわけだが、一年のうちに何度かあるイベントに対して、ティエリアは学習してしまったわけだ。特別な日は、特別に過ごさねばらなない、と。そうでなければ失格なのだと。何にかは知らない。たぶんティエリアの中にはティエリアのティエリア基準によるティエリア検定でもあるのだろう。
 ティエリアは俺の誕生日を知らなかったことを悔いている。俺の誕生日を祝えなかった自分を許せないでいる。それはティエリアの意地であり、矜持でもあった。そんなことできなくていいんだよ、と言うのは簡単だが、ティエリアはもうそんな安価な言葉ではこのドアを開けてはくれない。
「わかった。でもさ、当日にこだわる必要はないんだよ。てか無理だろ。俺たちもう大人なんだし」
 我ながら何を言っているのか意味がわからない。だが大事なのは、ティエリアのプライドを守ることで、それは決して間違ったものではない。きっと俺が優しさに見せたエゴでティエリアの芯を懐柔させることの方が間違っている。
「大人だから、仕事の都合で当日祝えないなんてのは当たり前だよな。クリスマスに俺が休暇を取れたのだって、ほとんど奇跡だったんだ。だから、ちょっとずらしてちゃんと祝えばいいんだよな。そのために明日は休みなんだし」
 啜り泣きが小さくなって、やがてずず、と鼻をすする音がした。ひとまず泣きやんだと見て、俺は言葉を続ける。一度感情の波が静まれば、ティエリアの吸収力は子どものそれを凌駕した。
「ティエリアは俺を祝ってくれようって思ってたんだろうけれど、いま俺をこうして締め出してるのはなんなんだろうなぁ」
「……会わせる、顔がない」
 そうきたか。
 あまり責めるような言葉を選びたくはないが、語弊があるのを承知で言うならティエリアは俺に責められたがっている。甘やかして矜持を骨抜きにすることが間違っているのはわかるが、ティエリアの持つ一般常識諸々を自分が教えたと知った上で、こう仕向けるのは躊躇われた。だが、もう仕方がない。
「そうかー、たった一時間ずれただけでティエリアは俺を見捨てるのかー」
 ドアの向こうで身体が竦むのがまるわかりだった。良心がじくじくと痛んだが、まずはドアを開けてもらうことから始めねばならない。俺は言葉を続けるしかない。
「俺のことが好きなら出てきてくれよ、ティエリア。誕生日、祝ってくれないの?」
 困惑している顔が目に浮かぶ。泣かせたくないし困らせたくもない。なのにこうなってしまった以上は、あとでこの三倍は笑ってやろうと心を決めた。
「何の準備もできていないのに、」
「あるだろ。とびっきりのプレゼントがさ」
 ティエリアは完璧主義者だ。誕生日の風習を知っていれば、ロウソクを立てたケーキにプレゼント、さらには紙の輪で作った飾りまで持ち出さねば気が済まないに違いない。さすがにそこまでお膳立てするわけにはいかないので、大人の事情で片づける。
「さっきも言ったろ。俺はティエリアといられればそれでいいんだよ。な、出てきてくれないか?」
 ドアの向こうで動く気配がした。座り込んでいた身体が立ち上がったのだろう、化粧ガラスに人影が映る。だが、薄っぺらなドアを開けるにはまだ足りないらしい。逡巡しているティエリアの形に向かって、俺は多分卑怯で、最低な最後の殺し文句を囁いた。
「さっきの続き、しよう?」
 ドアのガラスにティエリアの手のひらがぺたりと密着する。ガラス越しに、ティエリアもこちらを見ているのだろう、その手をなぞるように俺も手を添えた。かちりと軽い鍵の音がして、小さな小さな隙間が開く。
「……先に、部屋に行っていてほしい。顔を何とかしてから、いく」
 泣いて掠れた呟きと、ガラス越しの額にキスをしてから、俺はその言葉に従った。




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