彼のそんな姿を見るのは初めてと言っても良い。いや、僕自身は何度か見たこともあるのだが、それが基地の食堂という、人目の多い公衆の場であることが極めて珍しい。それこそ初めてと言っていいかもしれない。グラハム・エーカーが、悩み打ち沈んでいる姿を衆目に晒すなど。
 彼の信奉者とも言うべき忠実な部下たちは顔が触れんばかりに覗き込んで事情を尋ね、僕より少し先に食堂に入っていたジョシュアなど、せっかく端正に配置された目を口、おまけに鼻の穴まで大きく開けて呆けている。
 千載一遇の好機だよと囁いてやっても良かったと、後になってジョシュアには少し済まないことをしたと思う。
「実は……今、とても気になる人がいるんだ。だが、私はどうにも上手く話すことができなくて」
 食堂全体がどよめいた。グラハム・エーカーの武勇伝はフラッグだけではない。この基地では事務方の女性から整備士、屈強な女性士官までほぼ全員との関係を成立させ―――そして破局している。それら全てが電光石火の荒業だったが、不思議と血生臭い事件には至っていない。
 そのせいもあって、彼のお相手は面白おかしく、我々の間で賭けの対象にまでなっている。出張先でも出征先でもプライベートのひょんな出会いでも、彼のフットワークの軽さは有名だ。それが、「気になる」程度で留まり、かつ悩み、それを周囲に吐露するような殊勝な神経が彼にあるなんて、エイフマン教授も大統領も予想できしやしない。
「バレンタインに是非とも気の利いたプレゼントを捧げたいのだが……無力な私一人で何ができるというのだろう」
 大昔、兵士の士気を慮った皇帝が婚礼を禁止し、それを破って秘密の結婚を執り行った聖人が処刑された日。父方の祖父の故郷ではなぜか製菓会社の陰謀が跋扈しているらしいが……とりあえず、そういったいわれに基づいて、恋や愛を語り合う機会になる日は明日だった。
 彼がこれまで女性に贈ったものは、女性と縁のない僕にも趣味が良いと思う。なぜ僕が知っているかといえば、僕が知りたかったわけでは断じてなく、彼が僕に知らせたがった結果なのだが、それは置いておいて、やはりプレゼント一つに悩むとは彼らしくない。
 彼の信奉者の筆頭であるダリルとハワードは、主君に尽くす家臣のごとく命令を乞うている。ジョシュアは面白半分に聞いている。
「力を貸してくれるか、フラッグファイター!」
 そこで歓声が上がってしまう軍隊とは一体何なのだろう。これでは私兵ではないのかと思わないでもないが、哀しいことにグラハムという男に私心があるのかどうか実は非常に疑わしい。あるとしても、それが軍の在り方と違ったことはない。だから私的なルートを通じて上伸するのは躊躇われるのだ。一応、友人であることだし。
 どうすればいいのかなぁ、やっぱ辞表かなぁ。ドーナツを齧りながら意識を遠く遠くへやっていた僕を現実に引き戻したのは、この部隊内で僕と志を同じくしてくれる数少ない友人だった。
「……なんなんですか、この騒ぎ」
 当たり前の顔をしてテーブルの上に立ち上がったグラハムの、高く振りかざした拳が、ゆっくりと彼に向けられる。それが悲劇の始まりだった。


 この通り、僕の関知するところではない。大事なことなのでもう一度繰り返そう。この一件は僕の関知するところではない。だがその後展開された地獄絵図に、僕は自分の無力さを嘆かずにはいられなかった。

 




「ビリー? 端末の調子が悪いのか? よく聞き取れない」
「うん、ごめんね、うまく言えなくて……」
 友人からの通信は音声のみで、それは酷くくぐもっていた。加えて話がどうにも要領を得ない。つっかえながら謝罪を繰り返すたどたどしさは、聡明な彼らしくない。
「本当に君には、申し訳ない……僕は、本当にっ、無力で……ロックオンにも、」
「僕は今のところあなたに迷惑を被ったことはない。あなたは力になってくれたこともあるから無力ではない。あと……ロックオンに何か?」
 動揺している友人の言葉に一つ一つ答えたせいで理解が遅れた。ビリーがこんなにも動揺することなど、クリスマスの自殺未遂以来―――と考えるとそう珍しいことではないのかもしれないが、珍しいと思う。その原因が、今夜は帰れないとメールを送ってきた彼に起因するのだとしたら。
「ビリー! 一体、彼に」
「頼む、お願いだティエリア。彼を……助けて……っ!」
 端末を持っていることすらできなかった。複数のことを同時にこなすには、僕の容量は限界だった。目に入るもの、情報の全てを破棄し、身を委ねていたソファから飛び起きる。ルームシューズのまま玄関に向かって走り、ロックをもどかしく解除する。全ての電子ロックのあと、最後にEカーボン製の原始的なチェーンを外してドアを開け―――
「ハッピーバレンタインだなぁ! ティエリア・ストラトス!!」
 雪と共に飛んできたのは、巨大なものだった。瞬時に理解できたのはそれだけだ。次に、咄嗟に受けとめた重さと毛布のような感触、そして冷え切ってはいるものの、人の体温らしきぬくもり。それは、
「………ロックオン?」
「私からのプレゼントだ! 心置きなく受けとり、好きなだけ弄び、そして仲良く幸せに暮らしたまえ!」
 受け止めきれずに尻もちをついた僕の上から、畳みかけるような声を上げたのはロックオンの上官でビリーの友人で、僕にとっては塵芥以下の存在でしかない男だった。見上げると、その背後には友人の姿がある。視線が合うと顔を背けられた。横顔で彼が呟いた言葉は、先程の不明瞭な通信と同じだ。
「すまない、僕には、止められなかった……」
 涙を流し続ける友人と、膝の上のロックオンを見比べる。ロックオンは薄い毛布のような包みの上から高級そうな―――時折彼が買ってくる菓子にかかっているような素材のリボンを何重にも巻かれ、奇妙な包みになっていた。そして真っ白になった顔と同じくらい、目が白く剥けている。
「彼を助けてくれ……このままでは死んでしまう……!」
「……ロックオンっっ!!」
 死んでしまう? 彼が? そんなことを認められるはずがない。許すことなどできはしない。
 彼を、死なせはしない。死なせてなるものか。






 二月十四日。その日をパートナーがどう認識しているか、俺は既に学習していた。大昔の聖人が当時の法律を無視してうんたらかんたらなんてのは、俺にとってはどうでもいい。どうにも物欲がないわけではないが、そのベクトルとエネルギーと金額が俺と一致しない彼のために、俺は毎年毎年頭を捻る。
 今年は極めて妥当で一般的なセレクトにした。高級ブランドの腕時計に、ティエリアの大好きなプリンを添えて。時計は華奢な女性物を選びかけ、思い留まって少しごつい男物を選び直した。ティエリアが俺からのプレゼントをあまり喜ばないのは、そういう扱いが原因ではないと思っていても、結局俺は俺の考えられる範囲でしか気は遣えない。それに、ティエリアの細い手首に少し太めの腕時計というのも中々かわいいのではないかと思いもした。
 ビロードの箱に絹のリボンが掛けられた。ティエリアはむしろ、そのつやつやした感触に喜ぶかもしれない。そんなことを考えながら、昼食のために食堂へ入った。まさか、その感触を自分の肌で感じることになろうとは、このときの歓声から想像できるはずもない。技術主任にもプレジデントにもできやしないだろう。
 視界が反転して天井が見え、血走った男たちの顔が俺を覗き込む。ちらりと青ざめたカタギリさんと目が合い、どうかティエリアには言わないでくれと念じたが、通じただろうか。MSWADの誇る屈強な男たちの腕が服にかかったとき、俺は愛しいティエリアとの別れを覚悟した。


「ちなみにこれは彼から君へのプレゼントらしい。ロックオンは君への愛と理解力が比例していないな。実にわかっていない。だが不足分は私の志で埋められるだろう。では、良い夜を、ティエリア・ストラトス。愛をこめて」
 三日ばかりかけて悩みに悩んだ末に選んだ俺のプレゼントは、まるで宇宙を漂うデブリのような手軽さで放り投げられた。寒空の下、我が家のドアが開けられずに三時間ばかり薄い毛布を巻いただけの姿で放置された身体からは、すっかり感覚がなくなっている。腹の上にぽてんと落ちた包みは、陶製のココットや時計を入れた箱やらが入っているのだが、少しも痛みを感じなかった。ご丁寧に噛まされた猿轡は、唾液の染みた場所が凍りつきそうなほど冷たい。
 雪が吹きこむドアが、高らかな笑い声と共に閉められようとしたとき、俺はようやく救われるのだと思った。
「わかるかいティエリア、お湯だ! ロックオンにお湯をかけてあげればいいんだよ!」
 救われるのだと思った、のだ。しかしその思いは、カタギリさんの必死の叫びがかき消した。
 ティエリアは身体が細い。華奢で、かといって痩せぎすではない。それは俺が三食管理して育てた成果だと自負している。だが、細い。しかし腕力がないかというと、決してそうではなかった。
 力仕事の大半は俺が率先してやっているために気づきにくいが、俺好みに固くしてある車のギヤを、ティエリアは簡単に操作してみせる。俺の知らない内に買い求めた馬鹿でかい電子レンジが、ちゃっかりキッチンに設置されていたりもする。業者の人間であろうと家には入れるなときつく言ってあるし、業者の人間であろうと家に入れることを良しとするティエリアではない。ティエリアは、案外力持ちなのだ。
 その腕力に物凄い勢いで引きずられ、俺は簀巻き姿のまま廊下を滑った。高級そうなリボンは頑丈で切れる心配はないのだが、そこに全体重がかかると身体に食い込んでかなり痛い。まだ痛覚はあったんだな、と遠くで思った。この状況を何とかしてもらいたくてティエリアに何か伝えたくとも、猿轡をされたままではどうしようもない。
 とりあえず冷え切った身体はシャレにならないくらいにやばい。手が凍傷にでもなったら仕事に―――支障が出て退役してもいいかもしれないと、ちらっと思ったが、それは嫌だ。指先の感覚が重要なのはティエリアとの生活にあっても変わらない。
 お湯を、というカタギリさんの助言とティエリアの行動は間違っていないので身を委ねるしかない。落ち着いたら、リボンも猿轡も取ってくれるだろう。その下に何も身に着けていないのがあれではあるが、ティエリアはきっとわかってくれる。
 いくつかの段差にしたたかに腰や背中、肘をぶつけながらもようやくバスルームに辿り着く。ドアが開くと、既に自分用に準備していたのだろう、湯に浸かるのが好きなティエリアはバスタブにお湯を溜めていた。頬に当たる湯気の温かさに、じわりじわりと感覚が甦る。
 そしてティエリアは、緩み始めた俺の身体を抱え上げ―――バスタブに沈めた。





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