我が家のバスタブは標準的な深さだ。幅を少し広いものに変えようか、と最近はもろもろの事情と利便性もあって思っていたのだが、今はどうでもいい。簀巻きのままではもがくこともできず、俺は揺れて遠ざかるティエリアの美貌に別れを告げようとした。全身を浸したお湯が染みて感覚が取り戻されていくが、対価として呼吸を奪われ、その延長には俺の生命がある。
 ―――さよならティエリア、愛してる。プリンはいっぺんに全部食べるんじゃないぞ。でも賞味期限短いから早めに食べろよ。
 別れの挨拶もままならないまま遠のく俺の意識を、華奢だが力強い腕が引き揚げる。
「っ、ぶはぁ」
「ロックオンっ!!」
 ティエリアの身体がバスタブに滑り落ちてきた。波打ったお湯でまた息が詰まるが、それが収まってしまえばしがみついてくるティエリアの腕が身体を支えてくれるので、溺れ死ぬ心配はなくなった。
 濡れて緩んだ猿轡は自然と顎の下にずれていて、思う存分呼吸ができる喜びを噛みしめられる。大きく口を開け、横隔膜をフル活用し、息を吸いこもうとした瞬間、唇が再び今度は柔らかいティエリアのそれで塞がれた。
「んんーっ、んぅぅ!!」
 やばいやばい、息がシャレにならないくらいにやばい。全身でもがいたが、ティエリアがその見た目に反した腕力で抱きしめてくれているので意味はない。意識が白くフェードアウトしかけながらも、温かい舌が口蓋や歯列をなぞって温もりを移してくれるのを心地良く感じた。たぶん、このまま死ねたらすごく気持ち良い。
 やがて唾液も伝ったままの唇が離れ、俺は明滅する意識の中で久しぶりの酸素を脳に送りこみ、そして三時間前から溜めていた魂の叫びを放った。
「って、殺す気かっ!」
「死んじゃやだ!」
 俺の胸に顔を埋めていたティエリアががばっと顔を上げる。飛び散ったお湯と、駄々漏れの涙にその美貌はぐっしょり濡れていた。泣きたいのは俺の方だと思ったし、実際酸欠で涙が眼尻からほろほろ零れていたのだが、それ以上なにも言えなくなってしまう。
「ロックオン……死なないで……」
 簀巻きにされているビロードが肌蹴て露出した胸に、ティエリアは泣き顔を擦りつけてえぐえぐ泣き続ける。こうなっては俺がティエリアを怒ったり叱ったりできるはずがなかった。
「死なないよ、ティエリア。大丈夫。愛してる」
「……本当に?」
「本当に。愛してるよ。死なない。だからさ、とりあえずこれ、解いてくれないか? このままじゃキスもできない」
 濡れたビロードは固く締まって、繊細なくせにただでさえ不器用なティエリアの指先は動揺で震えて解くのに手間取った。苦労の末に開かれた下が、まさか何も身に着けていないとは思わなかったらしく随分と可愛らしい呆け顔をしたが、おそらく間違っているであろう何らかの推測を立てる前に、抱きしめてキスをしてごまかす。
「助かったよ。死ぬかと思った」
「死んじゃいやだ、」
「だーいじょうぶ、死なない死なない」
 数時間ぶりに解放された手はまだ強張っていたが、お湯の温度で徐々に筋肉が解れていく。ぎこちなくティエリアの涙でぐしゃぐしゃになった顔を挟み、親指で赤くなった頬を擦った。ちゅっと音を立てて吸った唇は、少ししょっぱい。
 涙で濡れた睫毛。濡れそぼった服が密着して露わになった肢体の曲線。不安げに見上げてくる大きな瞳。つい数分前まで生命の危機に晒されていたというのに、あるいはそれゆえに、俺はティエリアへの愛しさで恨みつらみ怒りを忘れてしまった。
「ビリーが、あなたが死んでしまうと」
「正直危なかったけど大丈夫。ティエリアが助けてくれただろ。まだちょっと寒いけどな。手がかじかんでら」
 手をぎこちなく動かして見せると、ティエリアは慌ててお湯をばちゃばちゃと波立てて俺の手や肩にかけ始める。動揺すると途端に幼くなるのはいつまで経っても変わらない、と微笑ましい気持ちになるのは親心だろうか。
「もう大丈夫だ。ティエリアもあったかいし」
 抱きしめると、二人を隔てるお湯が流れ出て互いの体温を直に感じる。濡れきったセーターがぐしゅ、と水を染みだす感触は少し不快だったが、心臓が直接温められるような感覚は捨てられずに抱きしめたままにした。
「でも、まだ冷たい」
「そりゃ、三時間も寒空の下で裸同然でいりゃあなあ」
 ティエリアは顎を俺の肩に乗せ、まだ赤い頬を俺の首筋に擦りつける。両足でその身体を挟むと、芯まで冷え切っていた身体がその体温によく馴染んだ。ティエリアは俺の身体を温めようとしているのか、背中や手を懸命に擦り続けている。
「あったかいなあ、でもこのままじゃティエリアが風邪ひいちまう」
「平気だ。それよりあなたが」
「濡れた服を着たままじゃダメだって」
 まだ指先にはボタンを外せるほどの感覚は戻っていない。シャツの袷だけをなぞると、ティエリアは心得て自分でボタンを外し始める。だがバスタブの中でボトムを脱ぐのは難しい。まして、俺の身体を跨いでいる状態ではなおさらだった。裾を抜こうと片足を持ち上げ、案の定バランスを崩して沈もうとするティエリアの身体を抱きとめる。ついでに下着の裾を引っ張って脱がし、それを他の服や俺の包装紙と一緒にタイルの上に放り投げた。
「手がまだ、こんなに冷たい」
 バスタブの外に伸びた俺の手を取って、ティエリアはそれを形の良い頬に押し当てて首を振る。感覚の戻ってきた指先がなめらかな肌を感じ、手首を返して手のひらを当ててそれに答えた。
「でも、もう出ないとのぼせちまうよ。肩も冷えるし」
「まだだめだ。冷たい」
「じゃあ、あっためてくれる?」
 頬から手を滑らせて、脇の下を通って背中へ回す。腰の下の方で手を繋いで下肢をひっつけると、湯の中で俺にも曖昧だった輪郭がはっきりとわかった。膝立ちのティエリアを甘えるように見上げれば、少し首を傾けて覗き込む視線とぶつかる。さっきまで子どものように泣いて動揺していたくせに、濡れた髪を耳にかけてこちらを覗く表情はひどく大人びて見えて、心臓が大きく跳ねた。
 







「いつもよりとろとろしている。…口の中が妙な感じだ」
「そっか。寒かったから凍ってるかと思ったけどな」
「笑えない。本当に凍ったらどうするつもりだったんだ」
「シャーベットになるんじゃないか。あ、ほら零すなって。ちゃんと飲みこんで、」
 しっかりとくわえているはずなのに口の端から滴が垂れる。シーツを汚す前に指先で掬うと、とろりと指の腹の上で丸くなったそれを再び唇の隙間に押し込んだ。
「ん、」
 ティエリアの舌がそれを吸ってから指を引き抜く。濡れた指先からはミルクとキャラメルの甘い匂いがした。
「今日だけだからな。ベッドでもの食べるの禁止」
 返事がないのは不満だからだろう。何かと無精したがるティエリアにとって、ベッドに寝たままプリンが運ばれて、すぐに頬張れる今の状況は天国に違いない。暖房が効きにくい玄関に放置されていたそれは程良く冷えていて、ティエリアは同梱されていた時計には一瞥もくれずにココットを手にとったのだ。
「今日は特別な。俺を頑張ってあっためてくれたから」
 スプーンをくわえて離さないティエリアの、まだ汗ばんでいる髪をかきあげてやる。ティエリアが冷えた俺の身体を温めようと必死にしがみついて身体を揺さぶったせいで、それは少しもつれて指に引っかかった。
「…今日、あなたが僕に何かを与えるであろうことは予測していた」
「ん?」
 スプーンを引き抜いた口がぽつりと呟く。疲れたからか、眠いのか、はたまたプリンの滑らかな食感ゆえか、いつもよりおぼつかない声に耳を寄せる。
「だからこの状況だけなら納得できるが、あの男の奇っ怪な言動とあなたの異様な風体はいまだに不明だ。あれは何だったんだ? なぜあなたは裸で…」
 耳を寄せて屈んでいた俺は、脱力してそのままティエリアの膝に突っ伏した。
「ロックオン?」
「あー、いや、その、なあ」
 もぞもぞと膝の上で頭を捻る俺をティエリアは訝って、頭の上にココットの底を当てた。あるいはちょうど良い高さだったのかもしれない。多分後者だろうと、ティエリアの白く平らな腹に、生クリームを窪ませたようにあるへそを見ながら考えたが、それは現実逃避の入り口になりえなかった。
「脱いだのか? それとも脱がされたのか?」
 まさか数人がかりで破かれました、とは言えない。端切れと成り果てた制服は、動揺したジョシュアが綺麗にちりとりに集めてダストボックスに入れてくれたはずだ。動揺のあまり掃除に走るとは、案外奴とは気が合うかもしれないとちょっと思ったりもしたが、それはこの際というか未来永劫どうでもいい。
「負傷していないことは先ほど確認した。ではあの恰好は一体何だったんだ?」
「ええと、ううんと……プレ、ゼント?」
「誰に向けての」
「ティエ、リアに」
 ちなみに贈り主は隊長…という言葉を、俺は続けることができなかった。ティエリアの腹を向いて伏した俺の頭の上にはプリンのココットが置かれている。そこに上から強い圧力が加わって、ティエリアの肉づきの薄い割に柔らかな膝に頬がめり込んだ。
 ―――ちょっと気持ちいいかも。痛いけど。
 そんな俺のお手軽な幸せを、小さな絞り出すような声が戒める。
「しん、ぱい、したっ」
「ティエ、」
「ビリーは、あなたが死んでしまうって、あなたは、どこも冷たくて、」
「ティエリア」
「いつもは、あたたかいのにっ……!」
 頭上を探り、頭を押さえつけている手に触れる。ティエリアのおかげですっかりいつもの体温を取り戻したそれに、ティエリアの手は少し冷たく感じた。解けるみたいに力が抜けていく手を握ったまま、ゆっくりと身体を起こして顔を覗き込むと、ティエリアの大きな瞳からはおもちゃみたいに涙がぽろぽろ零れている。
 かちゃん、とココットとスプーンが床に落ちる音がしたが、それに構うほどバカではないつもりだ。枕を背に当てて座っていたティエリアの身体を抱きしめ、そのまま反動をつけて身体を入れ替える。胸の上に伏せる形になったティエリアは俺の背中に手を回してぎゅうぎゅうと抱きついてくるので、俺もそれ以上の力で応えた。
「ありがとな、ごめんな、助けてもらっちまったな」
 もつれた髪を手で梳くと、ティエリアは俺よりも低い体温の指を俺の胸に食い込ませる。その指先を温めるように手のひらで包んでさすれば、ティエリアは顔を上げて首を伸ばしてくるのでキスをした。
「あなたにそう言われるのは悪い気はしない。でも窮地にいるあなたを見るのは二度とごめんだ」
 唇が触れあいそうなくらいの距離でそう囁き、上掛けの下ではティエリアのなめらかな太腿が俺の脚を挟みこむ。そこにはまだ先刻の名残がへばりついていて、そこからまた熱が灯った。
「オーケイ、了解、二度としない」
 唇が触れあうのを意識して答えながら踵に力を入れて膝を立てると、ティエリアの腰がしなったが、それでも俺の脚を挟みこんだまま下肢を離しはしない。膝を揺すれば唇に甘い吐息が吹きつけられた。
 緩みながらも熱を高めていく腕に抱きしめられながら、俺はこんな日も悪くないと思う。もしかしたら、俺をプレゼントにしてくれた聖人に、感謝しても良いのかもしれなくも、ないのかもしれない。






「……と、いうような展開になっているので、明日のロックオンは上機嫌で私に礼を言ってくるに違いないのだよ、カタギリ」
「人間の尊厳と叡智にかけて、ものすごく否定したいけれど、それはきっと希望的観測と個人的な感情にすぎないんだろうね、グラハム」
 やるせない気持ちでチョコレートを一つ摘んで口に入れる。グランマニエの程よく効いた苦味が、濃厚なチョコレートの甘さを引き立ててたまらない気持になった。グラスを持ち上げてシャンパンを一口すすると、それは至福の瞬間だ。
 だが、なぜバレンタインデイの夜、僕がグラハムと差し向かいでその時間を共有しているのかどうかは、エイフマン教授も大統領も、かのイオリア・シュヘンベルグもわからないに違いない。グラハム・エーカーという男はそうした存在であり、哀しいことに僕は彼の友人だった。
 せめてあの不幸な友人が、グラハムの言うように幸せであるなら……やっぱり世の中は不条理だと思う。