「何も言わずに、これにサインを」
 前置きも説明も一切なしでそう言われて署名する人間が、現代社会にいるだろうか。あまつさえ差し出された紙は二枚、少しずらして重ねられていた。ずれた分だけ露出された下の紙には、『NAME______』とプリントされている。サインをしろと言うのはここのことだろう。
「グラハム、これは意図的に隠しているのかい? そうでなかったら書面を確認させて欲しいな」
「私は何も言わずに、と言ったぞカタギリ。だがあえて答えさせてもらえば、意図的だ。だから確認する必要を認めない」
 いくら公私ともに親しい友人以上の間柄でも、ここで大人しくサインなどするはずがない。ところがこの時の僕は、するはずがないことをしてしまった。
 不気味な確信がある。彼が僕から何かを搾取するなら、こんな姑息な手は使わない。強盗のような強攻を、王侯貴族のように堂々として遂げるに違いないのだ。そんな屈折した信頼を込めて署名した。
 書き終えると、目隠しになっている紙を厳重に押さえつけていた手がすかさずひったくる。
「婚姻届じゃないだろうね?」
「安心してくれて構わない。一生には遠く及ばんよ」
 冗談を無表情に切り返された。重なっていた紙が外される。現れたのはなんということもない休暇届で、僕は拍子抜けした。そして安心してグラハムの顔に微笑みかけようとして、溢れた違和感に戸惑う。彼は種明かしを楽しむように笑うに違いないと思ったのだが、変わらずに無表情だったのだ。
 そして数時間後には、自分の甘さを悔やむことになる。



 手錠やロープといったものは、明らかな腕力差があれば必要ないらしい。ベッドに勢いよく放り投げられれば、すかさず完璧なマウント・ポジションをとられる。衝撃で眼鏡が吹き飛んだのだが、大丈夫だろうか。駅前に立つチープなシティホテルの薄汚れた絨毯に期待するしかない。
「グラハム、せめてシャワーを」
 何をされるのかは明確なのでそう申し出たのだが、返事はなかった。僕とて尋ね続けることはできない。まさか上半身をはだけるのもそこそこに、下半身に及ぶとは思わなかったから、あられもない声を抑えるので精一杯だった。
 先端を咥えられ、湿りを帯びたら舌で裏筋をなぞられた。馬乗りされた時点で硬くなり始めていた悲しい本能は、それだけで一気に膨張する。
 熱いのはそこだけで、身体の他の場所との温度差が奇妙だ。こんな性急な達成は僕の好みではないことを、グラハムは熟知しているはずなのに。ぐしゃりと前髪ごと額を掻き回して、来たるべき衝撃に備えた。あれは飛行機の胴体着陸よりも激しい。
「グラハム、も、でる……」
 情けないのを承知で声を出したのは、頬を寄せていたグラハムへの警告のつもりだった。しかしあろうことか彼は僕の言葉を受けて、それを再び咥えたのだ。
「んんっ、」
 下肢から背筋、そして脳髄に射精の快感が走り抜ける。深く息を吐き出してその波をやりすごしている僕の耳に、嚥下で喉が鳴る音がはっきりと届いた。
「グラハム!?」
 慌てて肘をついて上体を起こすと、口の端をちろりと拭う舌先が見えた。これで笑いでもしてくれたら、いつもの予測不可能で愉快なな行動と思うこともできるのだが、彼は書類を突きつけた時と同様、無表情だ。正直に言おう。怖い。
「グラハム、いったい、」
「声が聞きたいから黙れとは言わない。しかし返事は期待しないでくれ」
 下士官に命じるような、反駁を許さない口調だった。しかしそんな言葉を紡いだ口は、次の瞬間には自身の指を咥えてねぶり始める。唾液の分泌ももどかしげに指を濡らす様子に、彼のあくまでも瞬間的、局地的な意図はわかった。
 手を貸したいが、あいにく届きそうにない。そして彼が僕にそれを望んでいるのかも自信がなかった。
 足にかかる体重が軽減する。グラハムは膝立ちになり、スラックスと下着を下ろして濡らした指を後ろ手に挿入したのだ。
「くっ……」
 漏れる声と歪められる表情、そして忙しなく揺れる身体に、彼の苦痛と焦りが見えた。僕が普段かける時間の十分の一も使わず、グラハムは指を引き抜く。いざって僕の硬さを持っていたものに手を添えて、下肢をあてがった。
「んん……」
 添えられた手に擦られて、僕は再度硬直した。それはぴたりとグラハムの身体に重なる。
「ああ、」
 上から押し潰されるような圧迫感だった。そこそこにしか慣らされていないそこは狭く、縛りつけるように僕を苛んだ。
「はぁ、はぁ、は……」
 グラハムは浅い呼吸を繰り返し、同様に腰を上下させる。窮屈だった場所は徐々に緩んで、僕は自分を包む粘膜の熱を感じ始めた。
「ふ、ぅ……!」
 グラハムの声と共に、浅く引かれた腰が深く深く落とされる。先端と最奥が重なり、締めつける身体が収縮して、僕はかつてない短時間で二度目の射精を果たした。



 寝転んだまま、広くもない部屋を見回す。一世代は古い型のテレビに、椅子と大差ない面積のテーブル。大きすぎる鏡のついたドレッサー兼ライティングデスク。その上には雑多なアメニティが並べられている。
 床には脱ぎ散らかした、もとい脱がされ散らかされた服が散乱していた。せめてスーツくらいはハンガーに掛けたいのだが、行為を終えたグラハムが、今度はひっきりなしに僕の髪を弄っているので起き上がることができなかった。言いたいこと聞きたいことは山ほどあるが、ともかくも彼の衝動が収まったこの一時を壊すのは憚られる。
 そんな僕の遠慮を突き破るように、携帯電話の無機質な呼び出し音が響いた。打ち捨てられたスーツの上着からだ。身体を少し伸ばせば届く距離。僕は身体をシーツの間から滑らせ、手を伸ばした。そしてその手を上から押さえつける、グラハムの手。
「グラハム、電話が」
「出るな。出たら私の気が触れる」
 うつぶせてむきだしの肩に噛みつかれる。シーツの奥で空いた手が素肌をまさぐり、携帯に伸ばした手は壁に縋って脆い壁紙を引っ掻いた。グラハムの手が僕の指の隙間を埋めるようにぴたりと重なる。
 電子音が止むまで愛撫は続いた。壁には引っ掻き傷がついたし、肩はきっと噛み痕だらけだろう。火照った身体の熱を、溜息の形で排出しているとそれにグラハムの声が重なった。
「休暇をとった。その間この部屋にいてほしい。そしてこの部屋にいる間は外部と一切連絡を取らないでくれ」
 耳元で囁かれる声は穏やかだが、内容はなかなかに斬新で過激だった。その割りに僕は冷静なもので、まるで他人事のような気持ちで彼の言を受け入れている。そしてできるだけ穏便に彼の意図を確認してみた。
「それは、まるで僕は軟禁されているみたいじゃないか」
「そう取ってくれても構わない。カタギリ、私はただ懇願するだけだ」
 不思議と恐怖や不快感はない。身体を反転すると、グラハムの言葉通り懇願する縋るような視線にぶつかった。あれだけ腕力を行使しておきながら、彼は僕に請い願っているつもりなのだ。し
かも最低限の社会的ルールは守っているのだから、まったく呆れたものだ。
「いくら君といても、退屈になりそうじゃないか。せめてテレビか、ラジオくらいは許してくれないかい?」
「だめだ。私は今、お前以外見たくないし、お前の声以外聞きたくない」
 僕が口にしたことは、婉曲ながらも彼からの異常な申し出に対するYESを表していたのだが、グラハムは当然のように受け入れた上で、僕からの申し出を却下した。懇願したくせに答えは聞いていないのだ。
 僕は溜め息を一つ吐いて、そんな強盗にして王様たる彼と時間を共にすることを心情的にも受け入れた。そしてそれに当たり、ある懸念事項について尋ねることにする。
「わかったよ、グラハム。ところで僕は、君に僕に対してこんな処置をさせるほど、君を不安にさせたのかな? あるいは君を怒らせるようなことを」
 途端にグラハムの表情が引き締まった。僕をここに拉致した時もそうだが、ここぞと決めた時の彼は、一切の迷いを捨てた強い眼差しをたたえて、その顔はいつも以上に精悍で魅力的に見える。
「いいや、それは違う。お前の私への接し方や愛情の程度は関係ない。ただ私がそうしたかった。そして気がついた時には全ての段取りを整えていた」
「集中力と行動力がありすぎるのも、考えものだねえ」
 休暇届に署名以外の全てが記入してあったことや、基地から遠くて知人と遭遇する可能性が低いこのホテルがリザーブしてあったことを思い出し、僕は苦笑するしかない。せめてルームサービスの味が悪過ぎないといいのだけれど。
「でも安心した。なら僕から協力を申し出ても構わないね」
「協力?」
 グラハムは先ほどまでの傍若無人な振る舞いとは、とても結びつかない仕草で首を傾げる。僕はその幼さの浮かぶ頬を摘んで言った。
「さっきのセックスは見ていられなかったんだ。どう見ても君は気持ち良さそうじゃなかったし、僕に屈辱を味わわせるためだったら、僕が手伝うわけにもいかない。申し訳ないことに僕は何一つ屈辱を感じていなかったしね」


 書類一枚へのサインから、電話もテレビもネットもラジオもない軟禁生活が始まった。唯一の救いは、同伴者が強盗にして王様という破天荒で退屈しない人間であることだろう。




>>