ぬるま湯を浴びると、肩やら腕やらにぴりりと沁みた。無遠慮に取りつけられた鏡には、赤い歯型や爪痕がそこら中に散っている無惨な身体が映っている。過去に交わしたどんなセックスよりも乱暴で野蛮で、しかしその分本能的で直情的で、切実だった。
 足が酷く重くて立っているのも億劫だったが、狭すぎるバスタブでは立っていた方が効率も爽快感も良い。身体中にべたつく汗や精液や唾液をソープで洗い流すと、薄皮が剥がれていくように、倦怠感と疲労感も湯に溶けて流れていく。
 グラハムが必死になる割に、オルガスムスに達するのは僕ばかりだった。その逆だったら被害届の一つも突きつけてやれるのだが、これでは正直居た堪れない。しかし彼は夢中だったし、どうやら切実に夢中でいたいらしいということは言動から見て取れたので、させたいようにするのが一番なのかもしれない。
 彼との付き合いは長くなっていたし、過去に付き合った誰よりも深い仲になりつつあったが、グラハムのこうした、一種の強迫観念にかられるような状態は初めて見た。彼は自分の仕事を、フラッグを誰よりも愛していたし、それに誇りを持っている。日頃の言動を見てもとてもプレッシャーを感じているとも思えないのだが、それだけで彼の内情を理解している気になるのは傲慢も甚だしいだろう。今、自分がこうして大人しく彼に協力していることすら、理解し難いのだから。
 僕は自分を、軟禁や暴力を甘受するような、広い愛を与えられる人間だと思っていない。


「お先に」
 糊の効きすぎたタオルは重くて扱いづらく、薄っぺらいバスローブ共々吸水力は低い。熱の籠もった狭いバスルームに耐えかねて、そこそこで部屋に戻ると、グラハムはまだ乱れたシーツに寝そべっていた。一度起き上がったらしく、ベッドの裾の方に頭が来ている。白い背中が僕の声に寝返りを打ち、仰向けになったグラハムは首を軽く傾げ、目線だけで僕を捕らえた。
「君も浴びるといい。それとも疲れたかい? 何か飲む? ルームサービスを頼もうか」
「いや、いい。何も要らない。それよりも、電話を取ったりしたら酷いぞ」
「わかってる。君の身体が心配なだけだよ」
 声が低い。少し不機嫌なのは、僕が傍を離れた所為なのだろうか。試しにベッドの端、彼の頭の横へ腰を下ろすと、すぐさま腕が回り膝の上に頭が乗り上げてきた。その髪が湿り気を帯びているのは、僕のようにシャワーを使ったからではない。噴きだした汗がそのまま張りついているのだ。額にべったりと引っ付いた前髪を手で梳いてやると、不機嫌に歪められていた眉が、いつもの形の良い稜線に戻った。
「眠いのかい?」
「眠くはない。いつもこういう時は、眠ろうとしても目が冴えてしまって眠れないんだ」
 いつも、というからには、彼がこうした状態に陥ることは初めてではないらしい。
 僕のバスローブを握り締める指の力に、彼の一途さを思う。彼は間違いなく一途で、常に懸命で必死だったが、そうであり続けるのがいかに難しいか程度は、僕もそれなりに知っている。彼の長所であり短所である、一途さや執念。そういったものの反動が、これなのだろうか。
 薄く固いパイル地越しに、強い指の力と熱を感じた。撫でていた額が手を振り切ってしきりに擦りついてくる。脇腹の辺りを強く引く感触。安物のバスローブが引き裂けてしまうほどの力だった。
 あるいは僕は、この状況を冗談やセックスに紛れさせずに、対話によって追究した方がいいのだろうか。だが、求める力強さに、選択の余地はない。


 ベッドに座った僕の肩に両手で縋り、跨がった腰を必死に揺らしている彼の背中に掌を当てた。グラハムの両手を使わない動きは酷く動物的で、汗と髪を揺らす様は狂気じみている。それを宥めるように、掌全体で背中から腰にかけてねっとりと撫で上げた。がくがくと上下していた身体がぴたっと止まる。掌を背筋から下へずらしていくと、つられるように背中がしなった。両の指先が背中の下の弾力を捕らえ、グラハムは緩く煽られる情動に身体をぐずらせる。僕の肩にかかっていた手が後頭部から逆の肩へ回り、首もとにはグラハムの頭がかじりついた。
 手に包んだ腰がもどかしげに揺れるのを承知の上で、僕は手をグラハムの胸に滑らせる。脇に手を添え、親指でほのかに赤らみ、膨らんだ突起を押し込むと、耳元でグラハムの咽喉が震えるのがわかった。そのまま先端を弄り続けていると、耳を前歯で囓られる。外耳に血が集まってのぼせたような感覚に、僕もまた興奮していることを自覚した。下肢の先端がグラハムの鍛えられた腹筋に擦れて痛い。
 それを察したのか、グラハムの腰が上がる。僕の首に回していた腕を片方解いて、その手が僕のものを支えた。腰も動かして後ろ手に位置を調整するグラハムは、薄く目を開けている。瞼の隙間から覗く恍惚として融けたようなまなざしは、彼が満足している証だが、直下にある僕に夢中で、目の前にいる僕を無視しているようでもある。それが気に入らず、僕は唇を上体ごと前に突き出した。
 意識の全てを下半身に注いでいたグラハムは、そのまま背後から仰向けにダイブする。可哀相に、彼が必死に調整していた位置も目茶苦茶だ。一方で仕掛けた側の僕は、二人の肉体の位置関係は把握できている。僕に跨がっていた彼の足は、90°回転したために上に向かって開かれていた。目でで改めて位置を確認し、身体を少し落とせば、すでに緩んでいるそこにひたと当たる。
 目を白黒させていたグラハムも状況を理解したらしく、あられもなく開いていた足が腰に組みついた。かつてこうした時、僕の腰回りに青痣ができた記憶が甦ったが、今は気にしないことにしよう。
 絡んだ足が腰を締め付け、僕を促す。その力にじりじりと抗うように、ゆっくりと腰を進めた。先ほどの乱暴で緩められたそこは、柔らかく受け入れていく。包まれる一方で、食まれ、咀嚼される実感があった。
「カタギリ、はやく、」
「だめだよ。こういう方が夢中になれるから」
 そうなりたいんだろう?
 顔を寄せて囁くと、グラハムの背中がしなり腹筋が収縮する。当然内部もうごめいて、緩慢にしか動かない僕を責めた。
「っ……」
 思わず突き抜けそうになるのを、息を詰めてやり過ごす。仕返しに円を描くように腰を回し、内部をゆっくりとかき回してやった。咽喉の奥から嬌声が溢れる。上下するメロディはあられもなく、彼にしては珍しく自分の手で口を塞いだ。遊ばせていた腰を少しだけ強く押し込むと、グラハムは自分の手に噛み付く。
「手を傷めるよ」
 腰に巻き付いた足を肩に担ぎあげて、身体を屈めると繋がりは深まった。白い首を晒してグラハムが頭を振り、汗が頬に撥ねる。それを指先で拭ってから、歯形のついた手を口許から引き離した。
「出して良いと思うよ。このホテルはもう使えなくなるけどね」
 外した手に自分の手を重ねると、骨張った指同士が絡む。強すぎる握力に関節が軋んだけれど、僕は彼に劣らぬ強い力で握り返した。グラハムの身体を二つに折るように体重をかける。繋がった腰が浮いて、彼の背中とベッドの間に僕の膝が入りこんだ。空いた隙間に膝を押し進めれば繋がりは一層深まって、一番奥まで届く。
 組んだ手を強く強く握り締め、身体ごと叩くようにそこを突いた。これまでに聞いたどんな声よりも煽情的で解放感のあるそれが、狭い部屋に響いた。


 
「大丈夫か?」
 呼吸がやっと収まったところで、掠れた声がかけられた。太腿の辺りが重く、張ってきている気がする。明後日頃には筋肉痛になっているかもしれない。そんな重い身体を奮い起こしたのは、グラハムの声がそれなりの真剣さを伴っていたからだ。肘を突いて身体を起こし、背後の壁に背中を預ける。
「君に心配されると、何というか、立つ瀬がないね。僕はともかく、君のお気に召したならいいんだけれど」
「半年ほど前に改良されたバーニアの試験飛行を覚えているか? まだ対G装置が旧式のままだったあれだ。他のテストパイロットが軒並み酩酊状態になって嘔吐した、あの時の衝撃に似て、……どうした? 特濃のグリーンティーを飲み干したような顔で」
「いや……お役に立てたなら良かったよ」
 多弁になった彼の言葉の中に、先ほどまでの焦慮や切実はない。いつものグラハムに近づいたと僕は判断し、同時に安堵を覚えた。
「ところで、君は今まで、僕と親しくなるまでも、その時親しかった女性とこうして過ごしていたのかい?」
「ハイスクールまでは。しかし、それでは解消されないことに気付いて、以来一人で延々ハイウェイを車で飛ばしたり、ひたすら食べ続けたり、だな。今回は、とにかくどこかに閉じこもりたくて、誰にも会いたくなくなったが、その時、君が隣りにいたら良いと思ったんだ。誰かと居たいと思ったのは、そういえば初めてかもしれない」
 熱烈な告白に、そう、とだけ答えた。言葉の代わりに枕の上に投げ出された手を軽く握る。
 彼の衝動の正体はどうやら彼にも分からないらしく、口で説明する気もないらしい。それでもどうにか彼なりの付き合い方や解消方法が確立しているのならば、問題はないように思えた。周囲に当り散らしたりすることもない。
 他の何者をも拒絶し、一切の思考を拒否したくなる衝動。共感は出来ないが、理解はできる。グラハムに関する知識としても記憶できる。言葉に表せそうな気もしたが、その必要は感じない。彼の場合、一途な分だけ、その触れ幅が大きい。それだけだ。そして、今はそれを昇華するまでの時間に、どうやら僕が必要らしい。
「グラハム、これは何の具体性もなく、検証もしていないことなのだけれど」
「君にしては珍しい前置きだ」
 軽く驚きに見開かれたグリーンの眼が僕を見上げる。それを見下ろす僕は、ひどく穏やかな気持ちになっていた。
「一緒に暮らした方が良いのかな、僕たちは」
 その時の彼の表情を、どう言ったらいいのだろう。困惑と歓喜、驚愕、そして不安。色を混ぜすぎて判別のつかなくなったパレットのような顔をしていた。正直な顔だが、解釈に困る。酷いマイナスの感情が浮かんでいないのを、一先ず良しとするべきなのか。
「……なぜ?」
 かのグラハム・エーカーらしからぬ、弱々しい声だった。握ったままだった彼の手が冷えていくように感じ、僕は慌ててそれを握り直す。
「言ったろう? 具体性もない、検証もしていない。単なる思いつきだよ」
「だから、なぜ?」
 今度の声は先程のそれよりもわずかだが力があった。それに少し安堵する。彼に余計なプレッシャーを与えるために発した言葉ではないのだ。
「デメリットを先に挙げさせてもらうと、社会的に僕らの関係を知られる可能性が上がるね。それと、軍における人事の問題。どちらかが異動になったら中々に面倒そうだ」
「カタギリ、」
「うん。もちろんメリットもあるよ。まず、家賃や光熱費なんかを折半できて、一人で住むより広い家を得ることが出来る。まあ、僕らは年齢の割りに随分良い部屋を、既に持っていると思うけれど。食事も交代で作れば、今までの半分で済むわけだ。そして互いの家を行き来する手間がなくなるね。生活に関わるありとあらゆる効率が上がる。それに」
 一度、言葉を切って呼吸を整える。本当は一気にまくし立ててしまいたかったが、体力を使い果たした身体がそれを許してはくれなかった。できるだけ静かに息を吐いて、そっと吸い、告げる。
「こういう時、すぐ傍に居られるよ」
 沈黙をやけに長く感じたのは、僕がそれなりに緊張していたということなのだろうか。握っていた手を軽く握り返されて、ようやくその温かみを感じた。
「正直、今更という気もするな」
「そうなんだよね。君はほぼ毎週のようにうち泊まるし、二人で外泊するも珍しくないし」
 僕の家にはグラハムが来た時のために使い捨ての歯ブラシやらカミソリやらを溜め込んでいる。ドーナツショップの景品でもらったマグカップはグラハム愛用の品で、基地に泊り込んで溜めた洗濯物を洗うのは、大抵僕の家の洗濯機だ。
 それでも、この場では提案してみても良いかと思ったのだ。提案がどう扱われようと、提案するということ自体が現状に埒を明け、少しは彼にとってプラスに働けば良い。
「申し出はありがたいが、私は君の家に行くのが好きだ。あくまで君が暮らしている君の家を訪れることが好きだ。そこが私の家になってしまうと、楽しみが半減してしまうと思う」
 声の調子はすっかり戻っている。見上げる目に、先ほどまで宿っていた剣呑な光は既にない。それだけで、してみて良かったと思う程度には、安上がりな提案だった。あるいは安上がりなのは彼の方なのかもしれない。
「うん、君がそれでいいなら、それで」
「ありがとう」
「うん」
 言葉と共に手を握る力は強くなる。どちらともなく声を落とし、低く囁くような会話。シーツに移った互いの体温が心地良く、疲労と安堵から来る睡魔がとろとろと脳を侵食し始めた。ずるずるとシーツの上を滑って、布団の中に潜り込む。その耳に、口づけるような距離で囁かれる言葉は、睦言にしてはいささか物騒だった。
「ただ、こうして時折、私に拉致されてくれれば良い」
「ああ、そういえばそうだった。これは軟禁だったんだ。君があまりにも必死だったから、忘れていたよ」
 サインから始まった軟禁生活。温いシーツと体温。脳を鈍磨させる倦怠感。僕がこれを迷惑と考えるようになるまでは、それを許容するくらい何でもないことだ。
 安上がりなのは、やはり僕の方なのか。