今日も今日とて、広く取られた窓から冬の陽射が降り注ぐ。その日だまりの中、熱いシャワーにほてった身体を気楽な部屋着に包んだ僕は、床に座り込んでテレビを見るともなしに見るという、だらけた時間をおくっていた。壁を一つばかり隔てた向こうからは、豪快な水音が聞こえる。一人暮らしには充分すぎるが、大して広くもない部屋なのだ。他人の動作は手にとるようにわかる。
 ザカザカと激しいのは頭を洗う音だ。ブロンドの巻き毛という、性別や職種によっては非常に有利な条件なのに、男性で軍人である彼は性格に似た豪快な方法で手入れをする。
 音が少し和らいだ。身体を洗い始めたのだろう。肩や胸にお湯が弾け、水滴が浮き、白人特有の白い肌に血の赤が透けてピンクになる。そういえば昨夜、いやもう今朝か。派手に痕をつけてしまったから、胸元は青紫の斑点が異様に浮き出ているかもしれない。夜のテンションに身を任せた自分を省みて、明るい陽射とは裏腹に気分が明度を下げる。
 耳を象のようにするのは止めようと思ったところで、一度水音が止んだ。そして再開。多分、お湯を一度止めてから水に切り換えたのだろう。温水と冷水を交互に浴びて目を覚まし身体を引き締めるのだと言っていた。一緒に入った時、いきなり冷水を浴びせられたことがあったから良くわかる。
 そして間もなく、下にスウェットだけを履いたグラハムが姿を現わした。鎖骨の窪みには、青紫の痕がくっきりと残っていて、僕の精神衛生のために上を着てくれないかと願った。
「なんだ、その格好は」
「半裸の君に言われたくはないね。上くらい着たら?」
「だからと言って白衣はないと思うぞ」
「楽なんだよ。軽いし適度に暖かいし」
 確かに白衣=仕事着というイメージは間違っていない。しかし大学以前の、高校時代から着続けてくると、ポケットの位置や数、裾のはためきなどが違うと寛げないのだ。部屋着に下ろしたこなれたスラックスと、やはり着古した白衣との組み合わせは一番落ち着く。そういえば彼とはプライベートな時間を共有し始めてだいぶ経つが、この格好をしたのは初めてだった。
「では私もパイロットスーツを着るべきか?」
「基地に取りに行きたいなら止めないよ」
 無論彼は基地には行かず、首にかけたタオルを僕の膝に放り投げ、そこにためらいなく頭を重ねた。



 気付けば僕らは一日の大半を、こうして身体をひっつけて過ごしていた。会話は共有する時間にしては少ない。個というものは精々バスの使い方や部屋着の着こなしくらいにしか見えなかった。
こんな日々が四日も続けば、もはや相手を個として認識していないのではないかという考えも浮かんでくる。


「長く暮らすとねえ、恋とか愛とかいう感覚が薄れていくのは仕方ないですよ。まずね、結婚した自分に満足しちゃダメ。あなた結婚したかっただけじゃないの?」


 テレビでは二十代の若い主婦の悩みに、司会者がこう答えていた。暮らしているというと語弊があるが、確かに今は多くの時間をパートナーと過ごしている現状に喜びを感じ始めている気がする。相手が誰でも、例えば本部で受付をしているブルネットの女性下士官や、行きつけのスタンドで働いている笑顔が眩しい東洋系の彼女でも良い。そしてあるいは、かつて学生時代に結婚生活を夢見た相手。彼女との離別はこの部屋着を確立した頃の僕に、初々しい夢の挫折と絶望となった。
 もはやそれは傷ではないが、微かに疼く思い出として彼女はいる。あるいはこの状況は、そんな挫折の克服を無意識下で求めているのではないか。


「その相手じゃなきゃダメっていう、オンリーワンの理由を見つけなさいよ。まだ若いんだからね、相手をちゃんと見なきゃ」


 五十代の意見に、三十代のタレントが反論する。たちまち場に言葉が氾濫した。同様に奇妙な回転をしだした頭に喝を入れるために、膝の上の頭を軽く叩く。何事かとグラハムが頭を上げ、僕は足を引き抜いて立ち上がろうとした。すかさず、腕を掴まれる。引き止められて中腰になった姿勢が若干辛いが、ブルーグリーンの瞳はお構いなしに見つめてくる。
「コーヒー淹れるだけだから。君も飲むだろ?」
 答える代わりにグラハムは睫毛を伏せて首を軽く突き出した。ちゅっ、と答えてようやく僕は立ち上がった。



 この家の小さなキッチンがもっとも多くこなした仕事は、間違いなくコーヒーを淹れることだろう。次点に惣菜の温め直しがくる。そして例に漏れず、コーヒーメーカーが立てるコポコポと軽い音が、意図せず重くなった気持ちをわずかに逸らせた。司会者のダミ声やタレントのヒステリックな金切り声は遠い。
 自分用のマグカップの隣りにある、ドーナツ・ショップのポイントを貯めて手に入れた安っぽいカップは、グラハムが使う。有り合わせも良いところだが、そういうアイテムに自己主張を求める男ではない。歯ブラシや髭剃りは使い捨てのものを愛用していた。


  なぜ彼なのか。


 いつもなら新聞やネットニュースを見て過ごす時間を、どうやらこの議題に当てなくてはならないらしい。サーバーにはまだコーヒーが半分も落ちていない。例えば容姿。決して多いとは言えない僕のささやかな女性遍歴に、ブロンドブルーアイズはいなかった。意識したことはなかったが、東洋人の血が濃い僕にも前時代的な西洋人的容姿への羨望と遠慮があったのかもしれない。
 過去付き合った女性を、僕は僕なりに真剣に恋したし愛していたので、自分が生粋の同性愛者だとはこんな生活をしても思っていない。だからその身体が目当てではない。昨夜までのとっくみあいから、彼がそうである可能性もなくはないが、彼の華やかすぎて火花が散る交遊歴を、哀しいことに僕は良く知っている。
 ああ、でもGに耐えるために最大限、そして機体への負荷を減らすために最小限に備えられた筋肉は好きだ。それで泣きを見ることも多々あるが、それでも良いと思って身を委ねてしまう程度に、彼の身体は魅力的だった。
 しかし一番可能性が高い要素は、やはりビジネスパートナーとしての条件だろうか。彼なくして僕はMSの研究をあれほど突き詰めてできなかっただろうし、彼の才能と技量は今でも憧憬と称賛の対象だ。そして多少の自惚れを許すなら、彼の癖や特長を把握して機体をチューンできたのは僕だけだったろう。前者は疑いようもなく、後者は最近ようやく肯定できるようになった。
 しかしビジネスパートナーと休暇を共にすることほど意味のないことはないし、そういう位置に規定するには彼は僕に近すぎたし、個人的に必要すぎた。人同士の付き合いである以上、ビジネスとプライベートを割り切るのが難しく、まして互いの仕事がライフワークであるなら無駄だとわかっているのだが。
 気付けばサーバーにはコーヒーが満たされ、微かな震動は止んでいた。



 コーヒーをカップに移してリビングに戻る。彼は床に座り込んだままだった。スリッパの足音に、濡れた前髪の張り付いた顔が振り返る。
「お待たせ」
「ああ」
 答えたグラハムの目は、心なしかいつもより大きいような気がした。意志の強そうな瞳がじっとこちらを見上げてくる。上目遣いも手伝って、幼い顔立ちが際立った。
「どうかした?」
「ちょっとな」
 問い掛けたのは、罪悪感や後ろめたさに類する感情が僕の中にあったからだ。今の状況は僕らとしたらとても平和で穏やかで満たされていて、疑問を抱くなどもったいない。それくらい僕らにとって休暇は貴重なのだ。
「ちょっと?」
 聞き返しながらカップを差し出す。グラハムはそれを受けとる。しかしすぐに床に置いた。冷えたビールの方が良かったかな、と彼が湯上がりだったことを思い出す。そして彼は再び手を差し出したので、僕は自分のカップを彼に預けた。床に座る動作で零れる危険を慮ったのだろう。僕は二杯目の手間を遠ざけるために、カップの縁ギリギリまで中身を注ぐ癖があった。
 手ぶらになって、僕は楽々と白衣の裾を後ろへ払って座り込む。そしてコーヒーを受けとろうと手を差し出しかけたが、カップは遠い床の上。代わりに手に乗せられたのはグラハムの手だった。
「さすがに、自分でもおかしいと思うのだが」
「グラハム?」
 彼にしては珍しく弱気な前置きと共に、立てた僕の膝にグラハムの裸の胸が触れる。鬱血の痕も生々しい身体と、戸惑いを浮かべた瞳が迫った。唇に唇が触れる。肩がそっと押されて、グラハムの背景が天井に差し替わった。
「ちょっとの間でも、寂しいと感じてしまった」



 テレビの向こうでは、コメンテーター中最年長の女性が優しく言った。
「あなたきっと幸せなのよ。だから不安を自分で探しちゃうの。自分の幸せに自信を持ちなさい」
 せっかく淹れたコーヒーが冷めてしまったが、今の僕にはどうでも良かった。そのくらいには、自信が持てた。




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