白い喉が緊張で上下した。
 火照った体温は顔も例外ではなく、仄かに染まった頬に刃を当てた瞬間、比喩でなくヒヤリとしたのだろう。剃刀の下の身体が震え、バスタブに満たされた湯にさざ波が立った。のけ反って無防備に晒された白い喉が上下する。
 刃を手にした僕は、そんな彼をバスタブの中で爪先で蹴って嘲笑った。
「怖いのかい?」
 頬に剃刀を当てられている状況では、答えられるはずもない。ブルーグリーンの瞳が視線だけで抗議するが、僕は口の端を吊り上げただけだった。そして、左手を剃刀を当てたのとは反対の頬に添え、手元を確かにする。
「じっとしてて」
 頬を刃が撫でた。グラハムの伏せられた睫毛が微かに震えて、彼の緊張を伝える。目を閉じて身を預けている殊勝な彼の左頬を、丁寧に剃刀で撫で終え、僕はバスタブに剃刀を浸した。湯の中に散ったはずの金は、光に溶けて見えなかった。
 僕がグラハムの生命をこんなにも直接的に預かるなど、ありえないことだと思っていた。逆のパターンなら例がある。実地調査を兼ねた任務の時などは、ナイフや銃弾といった直接的な暴力を身近に感じることも度々だ。そんな時、僕は戦場にありながら身の危険を感じたことはない。生命を預けた相手への信頼が危機感を軽く上回っていた。今のグラハムもそうだろうか。頬を剃り残しがないか確かめるために撫でながら、伏せられた瞼の中を思った。



「ちくちくする」
 きっかけは、目が覚めたグラハムにした、今日最初のキスに対する僕の感想だった。唇だけでなく顎も擦り合わせるような動物的な接触を止め、僕の肌に刺激を与えた顎を指で確かめると、顎に感じたのと同じ痛みがあった。グラハムは髭の伸び具合が遅い。僕は泊まり込みの作業がざらなので職場に電動のシェーバーを置いていて、この休暇の前には毎日それで手入れしていた。あの怒濤の日々、僕は請われてグラハムにそれを貸したことがある。僕が毎日使っているのに対して、彼は精々四、五日に一度。それだけで、無精髭の顔が当たり前だった基地の中で、グラハムは清潔な文化人の外見を維持していたのだ。
「さすがに伸びたか」
 グラハムは離れた唇に不満を感じていたようだが、僕の指摘に意識が向いたらしい。
「もしかして、休暇に入ってから剃ってない?」
「まさかお前は毎日剃っていたとでも?」
 自分の顎をひとしきり撫でたあと、グラハムは僕にも手を伸ばした。指の腹の弾力を顎に感じ、唇の下がこそばゆい。指はとっかかるものもなく滑らかにすり抜けた。
「それはね。君がいるんだし」
 僕は決してまめな方ではない。それは自他共に認めるところだ。ただ、僕以上に杜撰な人間が身近に多かったせいで、多少は生来の気質が修正されてはいる。かといって外出する用もない休暇中に毎日髭を剃るはずもない。なのにそれをしたのは、やたらとスキンシップの多いパートナーのためだ。
「なのに君はお構いなしかい」
 勝手にした気遣いに100%の返礼を求めるほど傲慢ではないつもりだ。だがこれくらいはコミュニケーションの一環として許容されてしかるべきだ。
「何なら、僕が剃ってあげようか?」



 そして、今に至る。
 白い喉に奪われがちな視線を取り戻しつつ、折り曲げた指を彼の輪郭に添えた。幼い顔立ちではあるが、非常に端正だ。大きな瞳も、長い睫毛も、額にかかる巻き毛も、金と碧と白の比率も、一体どんな緻密な計算で配置されているのだろうと、馬鹿なことまで考える。
 ―――おかしいな。僕はこんな恋をする人間だったのだろうか。
 剃刀は頬を綺麗に撫で終え、喉仏の上に向かわなければならない。念の為、顎に添えた手を押し上げてさらに喉を晒させる。口に溜まった唾液を飲んだのか、ごとりとそこが隆起した。
 白い喉の背景に刃をかざしてみる。白に黒の本体と銀のカミソリが映えると言えば映えるかも知れないが、ただの色彩にしか感じなかった。どうやら僕に猟奇的なプレイの適性はないらしい。
 思えば僕が彼の生命と関わるのは、いつも彼が愛してやまないMSを挟んでいた。プログラム一つ、パーツ一つが彼の生命を左右する。彼と出会う前から手を抜いた覚えは一度たりとてないが、やはり彼が乗るのだと思うとキーを叩く指先に力がこもった。しかし、そんな努力は砲火の前では微々たるものだ。無意味だとは決して思わないが、もどかしさを感じてしまうのはどうしようもない。
 顎のラインを辿った剃刀を、バスタブにぱしゃんと叩き付ける。裾を巻き上げたスラックスの膝に石鹸まじりのお湯が撥ねた。
「はい、おしまい」
 剃刀を滑らないよう洗面台に置き、耳元にまでついた石鹸の泡をタオルで拭ってやる。
「どうだった? 素人床屋の腕前は」
 タオルの間から細めた目を覗かせて、拭かれるがままにされている様は、洗われた子犬のようだった。タオルから顔を出し、子犬はようやくふうと一息吐いて落ち着いたらしい。
「面映ゆいというのが正直な感想だな。君こそどうだった、私の生命をその手に握った感想は?」
 グラハムの声と見上げる視線、そして石鹸で濁った湯から生えた腕が僕を捕らえた。僕は時々彼がエスパーなのではないかと疑うことがある。今は正にその時だった。
 バスタブの縁に腰掛けた僕の膝に彼の腕が置かれ、スラックスにじわりと温んだ湯が染み渡る。僕の口が解けたのは、きっとその熱のせいだ。
「明日からは、また任務に追われる日々だね」
 エスパーは驚いたのか目を見開いた。僕も驚いた。自分でも突飛だと思う発言と、その口調が存外真剣なものだったからだ。
「カタギリ?」
「また、君が僕の預かり知らないところで生命をかけた無茶をやるんだ」
 戸惑っている童顔を両手で包む。濡れて放置されていた頬はひんやりしていた。
「君がどんな無茶をしてしまうことも、ちゃんと無茶をし通して帰ってくることも知っているんだけどね。どうしようもないな、こればっかりは」
 身体を屈めて額を重ねる。縁に腰掛けていた重心がずれて、膝頭まで湯に浸かった。捲っていたシャツの袖も水気を吸って張りついている。水面と湯気が揺れて、溢れたお湯がタイルを叩く音だけが響いた。
 彼の戸惑いはもっともだ。こんな時にするような話題ではない。状況も話題も心境もちぐはぐだ。しかし言葉は発せられた。言葉で説明するようなものでもないし、関係でもないと思っていたし事実そうだったが、どうやらありえない休暇とその終焉が、僕のタガを緩めたらしい。
 グラハムとのこれは今のところ、僕の人生でもっとも奇妙ながらも上手くいっている恋だったが、もっともおぼつかないのもこの恋だった。
 頬に添えていた手をグラハムの背中へ回す。濡れた衣擦れと水音を立てて、僕はバスタブに滑り込んだ。紅潮した首筋に顔を埋めて擦りつけると、シャツの裾がゆらゆらと舞い、手持ち無沙汰なグラハムの手がそれを弄んでいる。
「君の腕を信頼していないわけじゃないんだ」
「それはわかっている」
 戸惑いっ放しで僕を抱き締め返すこともできずにいるグラハムだが、その一言だけははっきり答えた。確かな答えは何の解決にもならないくせに、緩んだ僕の心をきちんと締めてくれる。
「あー、ごめんね、変なこと言っちゃって」
 意地や見栄、冷静さや理解力がもう少しずつかけていたら、涙腺までもが緩んでいたかもしれない。だが自分がいい加減に大人だと知っている僕は、間の抜けた言葉で隠蔽を図る。
「いや、悪い気はしないさ。私にはどうにもできないのが、若干歯がゆくはあるが」
 ようやく僕の背中に腕が回る。シャンプーに含まれた微香は僕のそれと同じ香りだ。
 それを嗅ぎとった鼻を互いに寄せ合い、その下の口をつける。どちらともなく開いた隙間から舌が伸びて絡み、食んで口に溜まった唾液を飲み干した。僕が片足を上げてグラハムを跨ぐと、グラハムは僕のシャツのボタンを外し始める。僕が濡れて張りついたそれを剥ぐように脱ぎ捨てる間に、グラハムは手探りで僕のスラックスのジッパーを下ろした。グラハムをタイルに押しつけるようにキスをして身体を乗り出せば、下肢が湯の中で露出するのがわかる。


 水音と互いの喘ぎ声が狭いバスルームに反響していた。タイルに投げ捨てられたスラックスやシャツに、溢れた水飛沫が打ちかかる。
 グラハムが勢いで沈んでしまわないよう、胸の突起を弄っていた指を離し、脇から腕を通してバスタブの縁を掴んだ。腕をその用に使ってしまったので、留守になった胸を密着させ、跨いだ足で身体を締めつける。肩にかけられたグラハムの手が背中で爪を立てた。ちりりとした痛みに急かされる。
 頭をバスタブの縁に預けて晒された白い喉に吸いつきたい衝動に駆られるが、痕をつける訳にはいかない。代わりに舌を長く出して、ねっとりと舐め上げた。舌先に石鹸の苦味を感じたが、その下には喉のか細い震えがあり、身体をずらして鎖骨や胸にまで舌を這わせ、先を求める。
 ずれた身体の隙間からグラハムの足が抜け出し、片足はバスタブの外にはみ出した。彼が背を反らして浮かんだ腹まで舐めていた僕は、視界の隅で揺れていたもう片方の足を肩に担ぐ。その付け根は濁った湯に沈んで見えなかったが、屹立した自身を手探りで進めた。
「あぁ……ああ……」
 グラハムはさらに背を反らし、僕の腹に硬くなったものを押しつける。手で楽にしてやりたかったが、バスタブにしがみついた指を外せば彼が溺れてしまうので叶わなかった。絶頂に至らないもどかしさか、きつく締め上げられて指に力が入り、指の腹が圧迫された。
 縁の向こうに投げ掛けられていたグラハムの片足が、不意に動いて腰に巻きつく。肩に担いだそれも同様で、丸められた爪先が背中を掻いた。
「は、あああ……!」
「んっ!」
 締めつける力が促すように下から上へと走り、僕はグラハムの身体を打ちつけるように身体を進める。顎に温い飛沫を感じたのと、目眩のするほどの恍惚は同時だった。



 身体を解いて、バスルームを本来の目的のために使用した。彼の身体に痕が残っていないのを確認し、密かに安堵する。僕と違い、彼は人前で着替える機会も多いのだ。よしんば痕を見られたとしても「グラハム・エーカーに女がいる」程度で済むのだろうし、当人も気にしないのだろうが。
 栓を抜いた排水口に白濁が吸い込まれる様はなかなかにシュールだった。渦を巻いて流れて去るそれは、グラハムの切り替えの早さに似ている。
 不思議なことに、普段セックスしたあとに感じる疲労は少なかった。水中は重力がないからな、とはグラハムの見解だ。
 二重の意味でさっぱりしてリビングに戻った僕は、改めて今日が最後なのだと思い出す。
 明日はまた6:50に目覚め、コーヒーとサンドイッチの朝食を摂って基地に行く。フラッグを挟んで彼と対話し、部下や上司に追い回され、アフターはグラハムと飲むかもしれない。そのあとはこの部屋でセックスをするかもしれない。
 そうやってこの部屋で彼と過ごしたことは幾度となくあったし、これからだってある。しかし、自分の銃後の婦女子のような不安を吐露するようなことは、この五日間でしかありえなかったように思う。実は今でも信じられない。
 そういえば、この休暇をレジャーや観光、娯楽に当てようという提案はついに出されなかった。あるいは、そのためだったのかもしれない。この時間が必要だったのだろうと、センチメンタリストな彼は言うだろう。そんな貴重な時間の幕引に、僕はあるささやかな提案をした。


 緩やかに流れる時間を、ワイドショーやネットニュースを眺めて過ごす。彼はMSに関する記事にばかり目を奪われていたから、いい加減フラッグが恋しくなったのだろう。
 見れば時計は刻限を指していた。窓から差し込む日も傾いている。昆虫図鑑に夢中な少年を現実に呼び戻すのは少し哀れに感じたが、僕は声をかけた。
「そろそろ支度しないと。君のスーツを取りにいく時間があるからね」
 スーツの僕と軍服のグラハムは二日ぶりに家を出た。途中でグラハムの家に寄り、僕の家で洗濯した着替えを置いて、グラハム自身はスーツに改める。タクシーを拾い、メインストリート沿いにあるレストランに向かった。
 そこは評判は聞いていたが、評判すぎて休日や平日の遅い時間には予約もとれず、まだ訪れたことがない。平日のまだ少し早い時間に悠々とそこを訪れるのは、僕にしてみたらなかなかの贅沢だった。
 装飾過剰な店内や、噂先行の味付けに二人で苦笑する。グラハムはもしかしたら外食するよりもあのまま家でごろごろしたかったのかもしれないが、僕からの珍しい提案に乗ってくれた。
 どこにも出かけないのはもったいないね。
 それが建前だ。本音は情けない限りだが、この休暇と明日からの日常に区切りをつけたかったのだ。気持ちが緩んだ僕を夢のように非現実的な記憶したかったし、あのまま彼を見送って寂しいと感じてしまうのも嫌だった。ネットニュースの地域情報に上がっていたこの店が、今日空いていたのは、グラハム流に言うなら運命だ。


 デザートはまあまあだったなと反芻しながら、チェックを終えて店を出る。夜風は冷たかったが、ワインのおかげで身体は温かかった。五段ほどの階段を下り、僕らは向き合う。帰り道は別方向だ。
「ではな、カタギリ」
「ああ、おやすみ。グラハム」
 

 おやすみ、また明日。
 いつもの別れの言葉と共に、僕らは踵を返して家路につく。明日からはまた仕事が始まる。休暇の終わりだった。