休暇三日目は、前二日を多少なりとも反省して、健康で文化的生活を送ろうと決意した。というのも、脱ぎ散らかしたスーツや軍服が皺になれば、休暇が明けた時に泣きを見るのは明らかだし、積み上げられた洗濯物が腐臭を放って捨てる羽目になるのも避けたい。それに多少の主食やつまみ、ビールなどはストックが欲しいと思ったからだ。
 近場の喫茶店で食べたモーニングセットの萎びたレタスに辟易したり、カートを押してパンやシリアル、ミネラルウォーターにビールをカゴに放りこむ。突然ぽっかりと空いた時間に途方に暮れて、セックスに費やすしかなかった僕らも、三日目にしてようやく、それなりに生活をしていた。
 基地から持ち帰った大量の洗濯物を片付け、できあがった服を(おそらくわざと)取り違えて、彼が少し袖の余るシャツを着る。ランチにはピザを取り、グラハムは僕が相変わらずベルトを締めているのを指摘して、最後のピースを譲ろうとした。僕が笑ってそれを辞退すると、彼は喜んでかぶりつく。


 食事の度に大なり小なりアルコールを摂取しているせいか、貴重な休暇という日常的な非日常のせいか、僕らのスキンシップは控え目に見ても過剰だった。ソファに座ってメールマガジンに目を通していると、肩には紙媒体の新聞を眺めているグラハムの頭がもたれてきた。そうした接触はある種のスキンシップの発端となり、大きな窓から取り入れられた陽射の中で僕らは他愛ない戯れを繰り返す。
 端末を弄る僕の腕を掻い潜って、グラハムが眼鏡にちょっかいを出し始めた。白い腕と彼が着ているシャツのインクブルーが対照的な色合いを見せ、思わず目を奪われる。ちなみにこのシャツは勝手にワードロープから引っ張りだされた僕のお気に入りのものだ。
 顎の稜線を人差し指でなぞられ、頬にかかる髪を軽く引かれる。かと思えば指先が眼鏡のツルを引っ掛け始めた。屈み気味にしていた姿勢を正して、標的を彼の射程から外す。すると爪の先だけがフレームに当たる具合になり、かつん、かつんと硬質な音が響いた。
 やがて彼は標的を変え、僕の膝の上で寝返りを打つ。僕もすでに端末など見てはおらず、彼の襲撃を避けるために、それをソファの前にあるローテーブルにそっと置いた。
 膝に柔らかな頬を感じ、グラハムの顔が僕の腹に向く。見下ろした耳に髪が一房かかっているのを、指先で摘みあげて耳にかけてやった。それと同時に、両の掌が腹にぴったりとつけられる。それは肋骨を辿り、背中へと回った。陽射とは違う額の温もりを、甘えるようにグラハムが腹部に擦りつける。それを若干の戸惑いと照れ臭さを伴いながらも愛しいと思えて、背中にすがりついたグラハムの両手を取り、口許まで持ち上げてキスを落とした。腕の拘束にできた隙間を利用して身体をグラハムに向ける。肘を突いて上体を反らせた彼と、ぴったりと唇が重なった。
 僕のシャツはグラハムには少し大きくて、反り気味の姿勢もあって、軍服越しにも目立つ彼の筋肉を隠してしまう。膝の上に再びうつ伏せた背中の皺を掌で伸ばすと、肩甲骨の稜線がインクブルーに滑らかな陰影で浮かび上がった。そんなことにささやかな喜びと優越を感じている僕のベルトに、グラハムの指がかかる。音を立ててバックルを外されたところで、僕はうつぶせた彼の両手を掴んで膝の上でひっくり返した。
 視線が交錯する。僕の膝に無防備に頭を預ける彼のブルーグリーンの瞳は、いつもより大きく見えた。視線がぶつかっても互いに声は出さず、サイレントムービーのワンシーンのように、笑っただけだ。クリーニングに出したばかりなのに、と思いながらも僕は僕のシャツに手を這わす。弱く強く、しなやかな胸板を布越しに指先で押すと、膝の上の身体がゆるやかに上下し、だらりと垂れ下がった足の指がカーペットの毛足を掴むのが見えた。唇の隙間から洩らすような吐息があり、薄く開かれた瞼の陰で、おかしくてたまらないと目が言っていた。
 グラハムは身体を捩りながら、自分の頭を乗せた膝を弄り始める。着古して部屋着に下ろしたスラックスは柔らかく、グラハムの指先を鋭敏に伝えた。仰向けのまま、手探りで足の付け根を緩く押され、中心が間接的に刺激される。声は出せなかった。そうすると負けのような気がしたし、今の安っぽい静けさを大事にしたいとも思う。それに僕は体力底なしのグラハムと違い、下肢に及ばない軽いスキンシップを好むのだ。だが耐えてばかりもいられないので、邪魔をすることにした。
 でたらめな動きのくせにきちんと情を煽る腕の付け根、脇の下に、胸を撫でていた手を添える。そしてあまり思い出したくないが、あの怒濤の仕事量を片付けたのに匹敵する指さばきで、くすぐった。
「っ!! ……ふっ、く、あ、はは、ははははは!!」
 彼には笑い上戸なところがあったのを思い出した。爪先を丸めてカーペットを弄っていた足はバタバタと足掻き、僕を挑発していた手は僕の悪戯を止めようとその腕を掴むが、いくら日頃訓練していようと、力が入るわけもない。
「ははははは! カタギリ、ひ、ははははは!」
 くすぐりによって笑うということは、くすぐったくてよりもそのシチュエーションに酔って笑うのだと思う。少なくともグラハムは間違いなくそうだ。指の動きをぞんざいにしても笑い方に歯止めはかからない。僕の太腿の上で頭をごろごろ転がしながら、陽射に明るく照らされた彼の瞼が薄く開く。浮かんだ涙の向こうに、ブルーグリーンが滲んで光った。
 指を止め、それで目尻から零れる涙を掬ってやってから、脇を刺激しないように注意してグラハムの二の腕を引き上げる。僕も少し背を丸めて、不意に止んだ悪戯を訝る、まだ荒いグラハムの呼吸を飲み込んだ。僕は腕をグラハムの背中に回して、手と手を繋ぐ。グラハムの鍛えた体格は僕の貧弱な腕では少し狭くて肘の辺りが張る感じがするが、我慢した。
 笑い転げていたせいで、彼の身体も唇も温度が高い。閉じ込めた身体からどくんどくんと力強く脈打つのを感じた。舌は入れない。そういう気分ではなかった。ただ唇に唇の弾力を感じ、頬に温かい髪が触れる心地良さに酔う。どうしようもなく、幸せというものの存在を感じた。
 唇が離れ、腕の拘束も緩む。意図したわけではない、自然な動作だった。普段はがっつきたがるグラハムもごく自然に従うほど自然な。
 

 そして何事もなかったように、グラハムは頭を僕の膝に委ね、僕は端末を読む気も失せて良い毛並みを撫で始める。テレビについているデジタル時計が音もなく時間を刻む中、午睡に誘われそうな悠然とした空間を、突如として引き裂いたのは、携帯から発するメロディだった。誰もが認める理想的な午後を、軽快なメロディが横断する。
 携帯は震動でローテーブルを滑り、僕はそれを落ちる直前で掬い上げた。
「もしもし?」
 回線の向こうにいたのは職場の同僚だった。
 いわく、五日間も休暇とりやがって。
 対して僕は、いや当然の対価だよ。
 いわく、南の島でバカンスでもしてんのか?
 荒い口調でからかう友人に合わせて、僕のそれもぞんざいになっていく。時にはそれが楽しいこともあり、他愛ない会話はそれなりに弾んだ。そのせいで、下から伸びた手への反応は遅れる。
「うわっ!」
 緩く一つにまとめていた髪を、丸々一房強く下に引っ張られる。全く手加減というものがなかった。ツボにある髪がピンポイントで引かれたらしく、単純な力以上の痛みに、生理的な涙が滲む。
回線の向こうの訝る声に、首を傾けたまま奇妙に身体を捩じって答えた。
「ブロンドの美人がヤキモチを妬いて悪戯したんだ。彼女が怖いから、もう切るよ」
 痛みに震えた声を不審がる問いは、携帯ごと理不尽な力に吹き飛ばされて盛大なガツンという音ののち、フローリングを滑る。きゅるきゅると擦れた音に、どちらにも傷がついていないと良いなあ、と考えたのは現実逃避かもしれない。
「電話なんかに出る奴があるか!」
 怒声なのだが、恐怖やその類いは感じさせない。そうさせるには、彼の声はいささか通りすぎているのだ。そんな演説向きの声の持ち主はソファの背もたれに向かって僕の肩を押し倒し、身体を跨いだ。圧迫感を感じはしたが、首の窪みに肘掛けが当たって良い塩梅なので苦痛はない。やはり肘掛けは必要なのかと、二日前の懸案を思い直した。
「仕事の連絡だったらどうするんだい」
「休暇中だ! 電源くらい切っておけ! だから君は寝坊もままならないんだ!」
 廃人になるような怠さにもかかわらず、定時に起きたのは彼も同様なのに、酷い言われようだ。そう思いはしても、反論は唇に噛みつかれて叶わなかった。唇を互い違いに重ねて、上下の膨らみを摘むように甘噛みされる。舌で返してやろうと思うと、下唇だけを、次いで顎を柔らかく食まれた。顎を返した柔らかい喉には、鋭く小さな痛みが走る。シャツ越しの胸には十個の爪が立てられた。
「痛いよ」
「私はどうやら怖いブロンドの彼女らしいからな」
 喉仏をがぶりと噛まれ、僕は少しばかり大袈裟に呻いてみせた。すると痛みはすぐに引く。飛び退いたグラハムが、まあ、有り体に言ってしまえば可愛くて、その喉仏を震わせて笑ってしまった。すると呻きは演技だったと察したグラハムが鎖骨窪みに吸いついた。痕がつきやすく残りやすい肌質なので、休暇明けに消えるか、少し心配だ。
「ひぁっ!?」
 我ながら素頓狂な声だが、ズボン越しでもいきなり中心を握られては不可抗力というしかない。自分の悲鳴にいたたまれなくて二本の腕で顔を覆う僕に、彼はその腕を掻い潜ってそれはそれは優しいキスをくれた。ああ憎らしい。
 悲鳴のあとは強引さを感じるものの、ずっと優しかった。なんだ、こんな技巧も持っているんじゃないかと、熱に浮かされながら感心する。急速に高まる熱に、天国の階段を連想した―――などと考えてしまう程に、怠惰は人の脳細胞を腐らせる。そんな腐った身体の上で跳ね回る身体は勤勉だ。動きに合わせて、彼の汗が飛び散って眼鏡に付着した。明るい陽射に白く照らされた身体に汗が乱反射する。
「んっ、んん、あぁっ!!」
 僕はグラハムの嬌声に自分のそれを紛らせて隠した。絶頂に達した官能が迸る間、互いに痺れるような感覚を味わう。弦楽器を弾いたようなそれは、繋がった身体から感じられたが、痺れは脊髄を突き抜けて頭までいかれさせた。


 徐々に、霞みがかった理性が澄み始める。汗で張り付いた前髪に手をやり、指先に無機質なフレームが触れて、眼鏡をかけっ放しだったことに気付いた。道理で、汗の一粒まで視認できたはずだ。あれが自分のハイなテンションが見せた妄想であったらさすがに落ち込まずにはいられないので、密かに安堵する。しかしどうだろう。今は眼鏡をかけているのに視界がぼやけている。正解は眼鏡を外せばそこにあった。
 やることもない僕らは二人でバスルームに行き、またそこで後先考えない遊びのようなセックスをした。鏡に映った僕の身体は凌辱の限りを尽くされたような惨状で、珍しく殊勝なグラハムに髪を洗わせるという快挙も成した。
 そうしたイベントに気を良くしてしまい、休暇が明けて携帯電話の存在を思い出した時にはその所在など見当もつかなかったし、冷静になって見れば眼鏡をかける時に何というか微妙な気持ちになることなど予想できなかった。それくらいに、僕らは怠惰な休暇に二人して馴染んでいたのだ。




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