AM6:50。
 それは血の巡りが悪い頭を起こすために温いシャワーをだらだらと浴び、顔を洗い髭を剃り、コーヒーを飲み、途中にあるスタンドでサンドイッチの朝食を摂るという、始業時間までの朝の手順を全て片付けるのに、もっとも適した活動開始時間だ。MSWADに配属されてから大分経つが、多少の前後はあれど、この時間を違えたことはない。もちろん、休日を除いた話である。
 今日が休日であり、起きる必要がないことに気付いたのは、手に掴んだ携帯がアラーム代わりの震動を始めた時だった。ブラインドから差し込む眩しい朝日に絶望する。無制限に眠っていても許されるのに、なぜかくも体内時計は正確なのか。二度寝という手もあるが、一度目覚めてしまうと睡眠の効率は違う気がする。
「やはり起きたか」
 声の主は身体を起こし、立てた膝に顎を乗せた姿勢でこちらを見ていた。手には半分ほどになったミネラルウォーターのペットボトルが握られている。
「趣味が良くないね。人の寝顔を見ていたのかい?」
「他にすることもなかったからな。直に君も起きるだろうと予測していた」
 習慣で、鳴る前の携帯を掴み、がっくりする過程を見られていたのかと思うと、いささか罰が悪い。差し出されたペットボトルを受け取りながら、それをごまかすために眠気でぼやけた頭で会話を続ける。
「君も?」
「私も。目が覚めてしまった。起床時刻に」
 グラハムは職業に相応しい筋肉と体力を有している。その維持と向上のために、朝はランニングもろもろをこなしていることは聞いていた。そのために、彼の家は僕のそれよりも基地に近いが、起床時刻は僕より幾分早かったようだ。
 そうやって維持されている彼の、僕からしたら底なしの体力のお蔭で、昨夜寝付いた頃には僕はゴール間際のマラソン走者の有様だった。睡眠時間は普段と比べて決して少ないとは言えないが、その前の運動量を考えれば起きるには早過ぎる。その証拠に足は痺れたように重いし、背中を反らせて上体を起こすのも億劫だ。背骨から腰にかけては、身動ぎしただけで関節がビキビキと音を立てている。
「せっかくの休暇だというのにな。習慣とは恐ろしい」
「同感だね」
 ミネラルウォーターで咽喉を潤したおかげで、意識は徐々に鮮明になっていく。腕を伸ばして、ペットボトルを、昨夜サイドボードから出したままだったゴムの横に置いた。起き上がるのは諦めて、身体を転がすと伸びきった身体が弛緩してじんと全身が痺れる。
 首を動かすと、眼鏡がないぼやけた視界に、グラハムの身体を支える腕らしきものが見える。シーツの色と見紛うばかりに白いが、手で触れて確かめると間違いでないことがわかった。突っ張っているため手首の筋が浮いている。指先で上へと辿っていくと、しなやかな筋肉の隆起があり、その上には肘の皺があった。
 ぼやけた思考と視界で半ば無意識にやったことだが、ここまで触れば仕返しの手がやってくる。
僕がいじっていた腕を軸にグラハムが身体を翻した。上半身を起こしていたために、僕より上にあった身体がうつぶせに覆い被さってくる。柔らかな巻き毛を首筋に感じた。脇腹を撫でる指がこそばゆい。
「くすぐったいよ」
 硬い指先の感触に、素肌が鳥肌を立てるのがわかった。込み上げてくる笑いを交えながら彼の腕を押して抗議するが、頬へのキス一つだけで無視された。
「また痩せたんじゃないか?」
「あのスケジュールじゃ、ね。ああもう、本当にくすぐったい」
 手足をばたつかせて抗議したいところだが、どうにも昨夜、明け方近くまでグラハムの要望のままに励んだツケが回ってきたようだ。手足の中心を通る骨に、鉛でも仕込まれているようだ。それを周囲から囲むなけなしの筋肉や皮も泥のように重い。身体を動かす気力もない。彼が望んだ通り、ゼロだった。
 くすぐったいのは本当だったが、本気で払いのける気があったかと言うと自分のことながら疑問だ。肩や頬に、グラハムの唇と共に触れてくる優しい髪の感触を、僕はとても気に入っている。しかし肋骨が浮き出た脇腹をくすぐられるのには耐えられず、僕の意志や体力とは関わりなく、反射的に膝が跳ね上がった。毛布が翻る拍子に膝がグラハムの脚を払う。成人男性一人分の体重がかかった。バランスを崩したグラハムの唇が胸に接したが、彼にしては巧みなキスではない。べしゃりと潰れた彼のつむじだけが見えた。
 膝の感触を思い出してみると、どうやら僕は彼の体重を支えていた軸足を払ってしまったらしい。普段なら僕が暴れようが微動だにしない彼だが、かつてない乱交にさすがのエースも疲弊していたということか。僕としては、くすぐったさからは解放されて、かつお気に入りの巻き毛は手元にあって、言うことはない。このまま良い子にしていてくれたら良いのに。
「大丈夫かい?」
「……大丈夫だ」
 胸に乗った頭が転がり、接するのは唇ではなく頬に、見えるのはつむじではなく後頭部になった。ブラインドの隙間から差しこむ朝日にきらきら反射する髪を撫でるとふわふわと温かかい。感触を堪能しながら、眠りに落ちることはかなわなそうな、けれども意識を溶かすようなまどろみに、休暇の意味を初めて噛み締める。実家から送られたアナログ時計の秒針が刻む音を耳に心地良く聞きながら、しかし時間を気にすることなく僕らはいつまでもごろごろと朝寝を楽しんでいた。
 

 ふと瞼を開けると、胸の上にあったグラハムの頭部が隣に転がっていた。彼が寝返りを打ったらしいこと、そしてどうやら二人とも本格的な二度寝をしていたらしいことを認識する。
「グラハム?」
「起きているよ」
 転げ落ちた衝撃で彼も目を覚ましたらしい。仰向けで盛大に伸ばされた彼の左手はベッドからはみ出していた。僕自身の平均を上回る長身と、いつか来るかも知れない時のために購入したセミダブルだったが、グラハムもそうは見えないが中々の長身であって、二人が寝るには些か狭い。この家に越した時、まさか共に寝るのが成人男性になるとは、当時の僕は夢にも思っていなかったのだ。
 ソファと言いベッドと言い、この休暇に入ってからやたらと家具の買い替えばかり気にしている。家具に対する不満が出ないほど、家にいる時間が少なかったということなのだろう。しかしクイーンサイズ、もしくはキングサイズのベッドを僕が買ったら、彼はどんな顔をするんだろう。喜び勇んでダイブしそうだと思うのは、27歳の男に対して礼を失しているだろうか。
「何時だ?」
「さあ? 気になる?」
「いや、暇だ」
 会話が成立しているのか微妙なところだが、彼が頭を仰け反らせて顔を近付けてきたので、僕は身体を彼に向けてごく軽く唇を合わせた。二度寝をたっぷり楽しんでも、身体の重さは一向に改善されない。寝返りを打ったときに背骨が引き攣った。
「じゃあ起きる?」
「お断りだ。……何か話してくれないか」
「君の暇潰しになるような?」
「私の暇潰しになるような」
 さすがに肌寒くなったのか、グラハムは宙にぶらつかせていた腕をベッドへ収納し、顎まで毛布を被る。僕も剥き出しの肩が冷えたのでそれに習い、二人して頭だけを毛布から覗かせて狭いベッドの中、身を縮ませて向かい合った。素足が擦れあったりもしたが、この時は性的な気配を感じない。
「フラッグの次の改良案なんだけど、」
「……よりにもよって仕事の話か?」
「おや、君の愛しいフラッグの話なのに」
「フラッグを愛する気持ちに一片の偽りもないが、今は結構だ。本当に結構だ。お前だってここに皺ができている」
 毛布から伸びた人差し指に眉間をつつかれる。二日前までの地獄の記憶に、無意識下で拒絶反応が出たらしい。MSのパイロットが天職で生き甲斐だという彼のために、折角チョイスした話題だったのに。というのは建前で、実は嫌がらせだったのかも知れない。彼が最愛のフラッグに関する話題を避けるなんて、そうそうお目にかかれるものではないのだ。
「じゃあ、凍れるアイスコーヒーの話。蒸し暑い夏の夜のことだ。その男は咽喉に渇きを覚えてキッチンに入った。折りよく、そこにあったのはグラスに入ったアイスコーヒー。男は疑いもなく、それを煽ったよ。そして咽喉は確かに潤った。爽快だったろうね。しかし飲み干した彼が目にしたのは、この世のものとは思えぬ恐怖と絶望、黒い混沌の象徴たる……」
「……オチが読めたから止めてくれ。コーヒーが飲めなくなる」
 毛布の中で脇腹が抓られる。肉が薄い所為でつまみにくいのを、無理に爪を立てて掴むものだから、中々の痛みだった。皮膚を摘みあげる指を、解すように掌で包み、懐柔を図る。
「そうかい? じゃあ現在も僕の母校で語り継がれているらしい靴下伝説を話そうか。僕がサンダルを愛用するきっかけになった、サンタクロースも裸足で逃げ出すくらい運命的な話だよ」
「もう良い。わざとだろう」
 僕の手をすり抜けたグラハムの手が、今度は二の腕を抓った。僕はそれを同じように上から包み、そして逃げられる。胸、肩、下腹部。転戦を繰り返すうちに戦況は激化し、毛布が波打つ。跳ねた毛布と一緒にグラハムが身体を乗り出し、突き出した唇を僕のそれにぶつけた。勢いが良すぎて、唇の隙間から歯と歯がぶつかって、がちんと音が鳴り、衝撃が脳髄まで走り抜ける。
「元気だね。激しいなあ。」
「……きみ、が言うほど、元気なわけではない」
 前歯を押さえながら、グラハムは再びごろりと横になった。すぐ間近に転がって、自分の舌で感触を確かめているらしいその口へ、今度は僕から口づける。衝突した前歯にねっとりと舌を押しつけ、身体はそのまま彼の胸の上へ乗り上げた。勢いで、下半身が密着する。
「君こそ、元気だ。昨夜あれだけ、」
「そこはほら、朝だから」
 緩々と存在を主張し始めた下肢が触れあい、素足が絡んだ。互いの体温で温められた毛布の中で、素肌がしっとりと密着した。衣擦れの音が一つ一つ拾えるほど緩慢な動作で、彼の太腿や腰骨を撫で上げ、指を脇に添えて胸に親指をぐいと押し込む。
「ああ……」
 手の間で白い身体がびくりと震えた。身体を弄るために半分ほど毛布に潜った僕の頭を両手で抱き寄せ、額に頬擦りされる。丁度唇にあたった鎖骨に舌を這わすと、後頭部を通って僕のこめかみを包んでいた指が、外耳をやわやわと弄り始めた。形を手探りで辿る動きは、生温く押し寄せる官能をやり過ごすためかとも思えたが、どうにも力加減と指先の繊細さを感じるに、煽るためであったようだ。耳から背筋へと抜ける感覚がどうにも遣る瀬なく、身を捩って避けようとしたら身体をしかと両足に挟まれる。その中心は芯を持っていた。
 胸を苛めていた指を腹筋の隆起から背中へと回し、背骨を下へ手繰っていく。骨の関節部分を一つ手繰るごとに、中心が張り詰めていくのがわかった。最後の一節を越えたところで、耳を弄っていたグラハムの指が動きを止めて、僕の首にしがみついてくる。期待値の高さは自ずと知れた。だが、僕はそれには答えずに手を背骨の左右に広げる。引き締まりながらも弾力の兆しがあるそこを、指先で押すように触れた。それを嫌がって、上擦ろうとする身体は胸に歯を立てて止める。
「んん、ん……」
 緩い刺激を受け止めて、グラハムの手が僕の肩甲骨に当てられた。両腕を突き出している所為で隆起した肩甲骨の窪みに、指がとっかかる。今、事が至ったらさぞ酷く爪を立てられるのだろう。
 指先で谷間の入り口を掠めてから掌をぐるりと滑らせて、先程から主張し続けている中心、その周辺を撫でる。もどかしさに捩れる身体は胸の先端を吸うことで黙らせ、引き締まった太腿の筋や膝裏にまで素肌の感覚を求めた。
「……しつこい、ぞ」
 旋毛に吹きかけられる熱い吐息に不満が交じった。いつもそうだ。触れた場所からグラハムの匂いや感触といったものが染みてくるような気がして、僕は気づけば夢中で素肌を擦っている。
「昨夜はあれだけ、君の要望に答えたんだから、今日は僕に合わせて欲しいな。」
 僕のこうした性癖が、我慢弱い彼に合わないことは承知している。だからいつもはそこそこで終わらせて次の手順に進めているし、昨夜はグラハム好みの短距離走を何セットも挑んだ。その結果として今朝の倦怠感があるのだから、この一戦くらいは僕の好みで興じても良いだろう。答えは聞かず、一人でそう結論づけて僕は緩慢に動き続ける。
 汗ばんだ身体を指で擦れば、古くなった皮膚組織が細かい塊になって丸まっていく。それがざらざらと間に入って素肌の感覚が遠のくようで、僕は指先の力を強くして縋った。そこはきっと赤い筋がくっきりとできるのだろうが、彼の肌は痕が残りにくいので気にしない。きっと休暇明けには綺麗に消えている。


 互いに呼吸が荒れていた。空調の聞いていない冷えた部屋なのに、汗がじわりと滲んでグラハムの白い肌に滴り落ちる。互いに身体を捩って互いの挑発を避けてきたが、感覚が鋭敏になってしまえば避けた先でも官能の灯がともる。張り詰めたそれがグラハムの太腿に擦れ、さすがに僕は限界を悟って身体を起こした。サイドボードの上に出しっぱなしだった、小さなビニール袋を口で噛み切り、取り出した中身を自分に取り付ける。
 ずっと横向きに絡んでいた姿勢から、グラハムを下に敷いた。擦れ続けた左肘がひりひりと痛んだ。これも床擦れと言うのかな、と下らない考えが浮かび、見透かされたようにグラハムに蹴りつけられる。その脚を抱え、長い時間をかけて寛げたそこへゴムに包まれた自身をあてがう。
 身体を屈め、グラハムの鎖骨に息を吐きかけるように呟いた。
「お待たせ」
 返答は嬌声をもって代えられる。長い時間、言ってしまえば昨日から慣らしたそこは、苦もなく受け入れてくれた。極薄のゴム越しに内壁の熱と収縮を感じて、搾り取られるような錯覚に陥る。上下するグラハムの腹筋を見る限り、あながち錯覚とも言い切れないかもしれない。僕はそれが錯覚たれと、グラハムの足を引っ掛けたままの右腕を伸ばして、彼の肩を掴んだ。足が大きく開かれ、内部の圧迫感が僅かに緩む。その間隙を縫うように、僕は残った体力をその一回に注ぎこんだ。
 耳に直接吹き込まれる嬌声は、そこを噛まれることで喘ぎ声に変わる。耳を濡らす熱と、中心を締める熱、両方に煽られて、必死でその胸に噛み付いた。
 到達と恍惚、そして引き潮。前戯にかけた時間に反比例して、最上の瞬間は短い。それを思えば、グラハムが好むやり方の方が効率は良いし熱も発散しやすいかも知れないが、この落差が好きなのだ。などと言ったら、彼は同意してくれるだろうか。
 死力を使い果たして萎えたそれから、中身を零さないようにゴムを外してティッシュで包んでゴミ箱へ捨てた。そこまでしたところで、全身を疲労感が襲う。余計な体力を使った、と言うわけにはいかないが頭の隅では思った。その思いをこびりつかせた頭は、弧を描いてベッドへ沈む。すかさず背中に貼りついてきた身体に、まさかの文字が浮かんだ。彼の体力は本当に底なしなのか?
 緊張で強張った僕の耳に、間抜けなうめきにも似た音が届く。発信源は、背中に密着した腹の中。
「……食事にしようか。もうちょっと休んでからね」
「……面倒この上ないが、異論はない」
 この後二人して三度寝に突入し、結局動き出したのはそれから四時間後。デリバリーの食事をビールと共にそれを摂取し、僕らの休暇二日目は終わった。



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