高層マンションの一室、広く取られた窓からは燦々と冬の陽射が差し込める。窓ガラス一枚隔てた向こうは氷点下に近いと、日系の天気予報士が言っていたが、この陽射を見ると夏と変わらぬ暖かさがあるのではないかと思える。確かめる気など、無論ない。陽射に温められた頭は茹で上がる寸前で、中の脳は膨張しているに違いない。血行もかつてない程軽快に循環し、茹だった頭とあいまって全身が伸び切ったゴムのようだ。それは肉体だけでなく、この部屋にも言える。地獄から奇跡の生還を果たして十六時間。沈殿した疲労と睡眠の過剰摂取による倦怠感は、陽射に照らし出された埃にも似て部屋中に霧散していた。


 十六時間前までの僕たちは、最大級の比喩として表現すると地獄にいた。最小限に言えば、仕事が山積していただけなのだが、「圧倒的な物量は個々人の能力や人柄や都合などローラーよろしく踏みつぶせるものだ」とグラハムは言った。いつも年齢以上に若く見える容貌には目許に隈が見えるし、計算されつくしたような巻き毛も悄然としている。僕はと言えば結い上げている髪はほつれるに任せているし、隈とは十年来の友人だ。トイレに立った時に見た自分の目尻にうっすらと皺が見えたのにさえ、もう苦笑しか出てこない。
 そんな状況でも追加のデータはやってくるし、設計図報告書企画書もろもろの納期は迫る。積まれた電子ペーパーを乗せた机は脚が折れて種類も順番もぐちゃぐちゃになるし、現場の作業員と若いパイロットたちは殴り合いを始める。終わりが見えたと思ったら、次年度の予算審議の草案が待っていた。
 中間管理職。僕とグラハムは分野は違えど同じ立場だった。山積というのも最早生温い。滝か砂か、流動物のように雪崩れる仕事を全て片付けた僕らは、何の打ち合わせもなく上司の机に休暇の申請書を同時に叩き付けた。
 今思えば上司が話のわかる人物で良かった。自動ドアが開き切るのも待てずに隙間から入り込み、申請書は文字通り机を叩く。その拍子に薄汚れた白衣が僕の肩からずれ落ちたが、その時は構っていられなかった。呆気から立ち直った上司は、何も言わずに五日間の休暇に許可を出した。というのも、彼はこの地獄の間、娘の誕生日を祝うためにゴールドコーストにバカンスに行っていたからだ。浅黒く日焼けした肌を一瞥し、僕らは自宅に向かって邁進した。


 地獄を回想するというあまり楽しくない行為を中断したのは、ソファからはみ出した爪先だった。肌の白さも眩しい裸足が軍服のスラックスから覗いている。陽光によって台形に切り取られたフローリングに寝そべる僕に、形の良い親指がちょいちょいと引っ掛かる。
「ああ、君も起きたのかい」
「いま……なんじだ……」
 精彩を欠く声には呻きも混じる。ソファが軋む音もしたので、覚醒するために睡魔と戦っているのだろう。
「太陽から見て午後三時ってところじゃないかなぁ。ちなみに僕らが解放されてから十六時間後」
「……まだ眠いのか、それとも疲れているのか、はたまた怠いのか分からない」
 背もたれに少し節が目立つ指(もちろんこちらは手のものだ)がかかり、その向こうから寝癖だらけの童顔が現れた。ブルーグリーンの瞳は徐々に彩りを取り戻していく。寝起きの良い彼も、さすがに今日ばかりはそうもいかないらしい。
「これ以上寝るのは良くないだろうね。とりあえずおはよう、グラハム」



「……なんで君はそんなに元気なんだい?」
「元気などない。したいだけだ」
 膝裏にソファの肘掛け部分が触れて、怠さの抜けない身体は呆気なくソファに倒れこむ。食べたばかりの冷凍ピザが胃から込み上げかけるが、それなりの拘りをもって選んだソファの弾力が受け流してくれた。だが、肘掛けに膝が引っ掛かり、いつものような受け身はとれない。このソファは気に入っているが、次に買う時は肘掛け部分のないものにしようと誓った。
「君こそなんでまだ寝ぼけているのか?珍しく寝起きは私より良かったくせに」
 そう不満を零すグラハムの口からは、先ほど平らげたインスタントヌードルのスープが匂った。彼はさらに僕が残したピザの半分も胃に収めている。起き抜けで良くあれだけ食べられるものだと、眠気を訴える頭で思った。
「食べたあとは血液が胃に集中して、眠くなるものなんだよ」
「これ以上寝るのは良くないと言って、私を眠りの園から叩き出した男の台詞とは思えないな」
 シャワーを浴びた後とりあえず着込んでいたセーターが捲りあげられ、素肌の脇腹にグラハムの指が触れた。操縦桿を握り続けたために、それはタコができて硬くなり一般的に言われる、例えばモデルやピアニストのような美しい指とはかけ離れているが、僕は気に入っている。その指は一流のピアニストがキイを叩くよりも巧みに繊細に、MSを操ってみせてくれるのだ。
「うん、寝る気はないよ。でもね、」
「どうせ他にやることもないだろう。少なくとも、私が望んでいる以上にプライオリティが高くはない」
 肘掛けに乗っていたグラハムの膝がこちら側に滑り下りてきたので、わずかに足を動かしスペースを空ける。すると太腿に彼が座る格好になった。抵抗する気力もないというのもあるし、することがないというのも事実だ。
「一月ぶりなんだ……」
 声が近付く。掠れているのは急いているせいだ。濡れた唇が窄められ、吸いつくように口付けられた。重なった下肢から熱が伝わる。
 一月ぶりか。
 なら無理もないと自分の生理現象に納得した上で、僕は薄く唇を空けて、グラハムの窄まった唇を舌先でこじあけた。濡れた音が陽射の差し込むリビングに響く。
 グラハムは緩く結んだ髪ごと僕の頭にしがみつき、口内を貪る。忙しなく揺れる頭を抱き締めてやろうと狭いスペースに押し込められていた腕を引き出した。呼吸は荒く、時折額もぶつかる。それにも構わずキスだけに夢中になっているグラハムを、可愛いなどと思ってしまうのは温かすぎる陽射のせいにしてしまおう。
 起き抜けにシャワーを浴びてそのままの金髪は陽射を受けてツヤツヤしている。触り心地が良いだろうと期待を抱いていたが、それは抱き締めようとした瞬間に離れてしまった。
 手持ち無沙汰な僕の手とは裏腹に、僕お気に入りの指先が僕のベルトにかかる。部屋着にベルトを締めるのは好きではないが、最近のオーバーワークのせいか、手持ちのボトムは皆ウェストが余ってしまうのだ。
 そんな下らないことを冷静に考えている僕などそっちのけで、グラハムはベルトを引き抜きジッパーを下ろす。やたらガチャガチャと鳴るのは彼が焦っているからだと手つきでわかった。この男は妙なところで不器用だ。そして僕は、そこまで気長ではない。
「ぅわ!?」
 突然脇から起き上がった膝に、珍しくグラハムが驚いた。反動となけなしの腹筋を駆使して起き上がった僕は、その隙をついてグラハムの肩を掴む。彼の隙をつくなんて、そうそうできることじゃない。
 掴んだ肩を引き寄せて、大口を開けて飲み込むようにキスをした。それに答えられる前に、肩を押し倒し、狭いソファからはみ出さないように身体を捩じって体勢を入れ替える。濡れた金髪からは、自分と同じ香料が匂った。


 急かされるのは好きではない。しかし今は五日間の休暇中にもかかわらず、僕は急かされるままに動いていた。
 キスと、重なった体重だけで高ぶったものに指を絡ませれば、脚の動きに阻まれた。手を拒んだそれはそのまま腰に周り、がっきと僕を捕らえる。
「早く」
 一言短い囁きに、戸惑いや不満がさざ波となって広がった。先ほどグラハムが言った通り、ことに及ぶのは一月ぶりなのだ。彼との付き合いが始まってから、こんなにインターバルが開いたのは初めてだった。互いのためにも無理はしたくない。そもそも僕には瞬発力がない。
「グラハム、」
「早く早く」
 うわ言のようにそれだけを繰り返す彼の目は、しかし真剣さと焦燥を孕んで僕を見上げていた。
「ゆっくりでも良いだろう?」
 懇願するように、首に回った腕に手を添え、頬に触れていた二の腕に口づける。チッと短く音が立った。高ぶった身体はしなやかな筋肉への刺激にも過敏で、見上げてくる瞳と絡んだ下半身がぴくりと震える。
「時間はあるんだから」
「時間はあるのだから、ゼロになるまで急いてくれたって良いじゃないか」
 ソファに仰向けに寝たままグラハムが動いた。ウェストからずれたスラックスを蹴やって脱ごうとし、彼を跨いだままの僕は右足をフローリングに着くはめになる。背後でゴトリと鳴ったのは、多分グラハムのベルトが落ちた音だ。
「疲れきって惰眠を貪ろうと、振り切れて無我夢中で励もうと、誰も文句はない」
 上体を起こした僕の首に、しなやかな筋肉をまとった二の腕が触れる。そこに力が込められて、柔らかな弾力が硬く張るのがわかった。口が塞がれ、伏せられた睫毛を頬に感じながら、それも悪くはないと思う。視界の隅にあるフローリングは夕焼けに照らされて僕ら二人の影が長く伸び、白い壁紙はオレンジ色に染まっていた。普段は目にすることのない光景だ。こんな非日常的なシチュエーションなら、なけなしの、しかし今持て余している体力くらいはたいてしまっても惜しくはない。


 グラハムをソファに押しつけて、腰を叩きつけるように動かす。急かされるままにつながって、この日最初に到達した時のあまりに激しい感動、それを再現するのに夢中だった。
 日が沈みかけ、部屋は薄暗くなりつつある。室温も低下していたが、体温の上昇がそれをものともしない。ぼやけた視界と比例するように汗に塗れた手の感触も曖昧になっていった。それを互いに厭って、互いの肩に爪を立てる。だが足はそうもいかず、右足は滑り落ちて身体が右に傾いだ。
「わっ!」
 伸ばした右足を床について、汗ばんだ指をフローリングに張りつかせて踏ん張る。すると、僕を内包したグラハムの身体が大きく震えた。腹筋が収縮するのが暗がりにもはっきりと見え、内包されたままのそれにも伝わる。震動は刺激となって、刺激は吐精感となり、解放感となった。腹に撥ねた飛沫で、それが共有のものであったことがわかり、安堵と喜びをも感じる。
「……サプライズイベントの効果を再認識したな」
「効果を出すには、入念な下調べと、準備が……、必要だと思う、けどね」
 浅い呼吸を繰り返しながら、それでも余裕ありげなグラハムに対し、僕の声はいささか情けなかった。体力がケタ違いなのを恥じることはないが、食い違いをつまらなく感じることはある。
「私としては、次のイベントを熱望したいな」
 力が抜けてだらりとしなだれた僕の身体を、グラハムの手が撫でる。汗ばんでペタペタさた感触を楽しむような手つきと、その言が期待していることは明らかだった。
「サプライズというのは、普段と違うからサプライズなんだよね」
 普段の僕なら、こういう要求を触ることであやして、退けただろう。
「……ん。カタギリ?」
 明日を気にする必要がないと思うと、予備の電源も稼動できる。身体を起こして弛緩した自身を引き抜くと、グラハムは微かな喘ぎと共に怪訝そうな疑問符を投げ掛けた。
 グラハムの脚をどけてソファに座り、手を出してグラハムの腕を引く。起き上がったグラハムの脇腹に掌を当てながら、その唇に口づけた。
「君の熱望に添うかな?」
 脇腹に当てた掌に少し力を入れて、身体を動かすよう促す。グラハムは心得てソファに座った僕の足を跨いだ。
「これは最高のサプライズイベントだ」
 その日、その部屋の電灯が灯されブラインドが下ろされたのは、深夜三時を回ってからだった。




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