秋が深まるとティエリアの食欲が戻りだす。人肌を恋しがる。クロゼットの奥にしまっていたお気に入りのカーディガンを、どこからか引っ張りだしてくる。そういったものに季節を感じるのだと漏らすと、多くの場合のろけも大概にしろと苦笑されるのがオチだ。
 勿論、そういった部分もないわけではないが、基本的に本能に忠実な生き方をしている彼の行動が、温暖化等に振り回される気候などよりもずっとわかりやすいのだと、最近になって気づいた。
 薄桃色のカーディガンを肩に掛け、買ったばかりの毛布にくるまって、日向でうたた寝をしている姿をみると、もうすぐ冬がくるのだと実感する。ティエリアと過ごす、二度めの冬だ。もっとも、今年は二人きりではないのだが。
「おい、庭どんだけ荒れっぱなんだよ。少しは掃除しとけ!」
 苛立った声音で、箒を片手に部屋に戻ってきたのはライルだった。枯れ葉が目立ってきたといって、我が家の小さな庭を掃除し始めたはいいが、凝り性なせいなのか、俺が適当に伸ばしっぱなしにしていた野草や、放置したせいで形の崩れた植木が気になって仕方ないらしい。草むしりや、落ち葉を集めるだけでは飽きたらず、見よう見まねで剪定まで始めたときには驚いた。
「お疲れさん、コーヒー飲むか? あったかいやつ」
 淹れてきてやるよ、と付け加えると、当たり前だと腕の落ち葉を払いながら答える。働き者だがかわいげのない弟だと思う。
「ついでに冷蔵庫にあるアップルパイもあっためてくれよ。働いたら腹減っちまって」
「? アップルパイなんてあったか?」
 記憶にないものを口に出されて、首を傾げながら冷蔵庫を開ける。そこには確かにライルの言うとおり、堂々とした大きさのアップルパイがどっかりと鎮座しており、昨日までそこにあったはずの鶏肉やらバターやらがぞんざいに隅に追いやられていた。全く覚えのないそれを見て、しばし顎に手を当てて考える。ライルを一瞥するがゆっくりと頭を振るばかりだ。となると、犯人は消去法でひとりしかいない。日向にある毛布のかたまりを見て、おおよその仮説を立てる。
「残念だが無理だ、ライル」
「なんでだよ!? オレ、ちょー働いたのに!」
「ねぎらってやりたいのはやまやまだが…これ、ティエリアのだろ」
「ティーの?」
 ライルが不機嫌そうな声音で毛布のかたまりを睨みつけ、眉間のしわを増やす。そのままティエリアをたたき起こしかねない勢いなので、さりげなくライルとティエリアの間に立って続けた。
「あいつ、最近よくわからんもん取り寄せてたみたいだから。寝てる間に勝手に食べたらヘソ曲げるぞ、きっと」
「だからって、この大きさの全部食う気かよ? あいつ」
 そういうライルの意見ももっともで、少し大きめの冷蔵庫の一段をほぼ独占するアップルパイは、宅配ピザほどの大きさがある。確かにこれほどの量をひとりで食べるのは難しいだろう。
 しかしそういう問題ではないのだ。食べきれるか否かということはさておき、無断で食べるというのはよろしくない。ティエリアは機械類や通販の商品以外に滅多に興味を示すことがない分、好きなものに対する独占欲がものすごい。
 以前、ティエリアがカタギリさんとのチャットに夢中になっているときに届いた通販商品を無断で開けたら、それだけで一日中無視された。どうやら自分で買ったものは自分で開封しなければ気が済まないらしい。彼の動物的な気むずかしさにはだいぶ慣れたつもりだが、それでもどこでうっかり地雷を踏むのかわからないから怖いのだ。
「寝ぼけてるときに適当に約束とりつけときゃいーんだよ。ほらティー、おっきだおっき」
「うう…」
「だめ! 睡眠妨害だめ!」
 寝ているところを起こされるだけでも嫌だろうに、自分のものに手を触れられるだなんて了承するはずがない。万が一面倒くさがったティエリアがその場はうなずいたとしても、覚醒しきってアップルパイが減ったことに気づいたら大変なことになるだろう。ライルはティエリアの本当の恐ろしさを知らない。俺の腕や肩に残った本気の噛み痕を見せつけて説くべきだろうか。
「マジでやめた方がいいぜ、ライル」
「ンだよ、どうせ兄さんがしつこくしたんだろ? このエロ猿」
「…否定はしねえ。だがそれとこれとは別だ。俺はお前のために言ってんだよ」
 はぁ?と言ってライルが振り向いたのと、俺が腕をまくって傷跡をさらしたのと、寝ぼけたティエリアがライルの指先に思い切りかみついたのはほぼ同時だった。
 ―――次の瞬間、暖かい部屋にライルの絶叫が響き、コーヒーメーカーの泡立つ音を見事にかき消した。






 唇をむにゃむにゃと動かしながら、天使のような微笑を浮かべる。そんなティエリアはとても可愛らしい。頬を緩め、キスのひとつでも贈りたいものだ。口の端に血痕がついていなければ。
「いっでえ…」
 涙声になっている弟の頭を軽く撫でてやりながら、噛みつかれて血のにじんだ指先に絆創膏を貼ってやる。寝た子を起こすな、と、先人はよく言ったものだと思う。すっかりアップルパイどころではなくなってしまった。
「…コーヒー、飲むか?」
「いい…それより、腹減った」
 まだ言うかコイツは。そう返したくなる衝動を、弟への同情心からすんでのところで飲み込んだ。涙をにじませながらアップルパイが食べたいな、と訴えてくる視線が痛い。どうせライルは、俺がティエリアの恋人だから何とかしてくれるだろうと踏んでいるのだろうが、キスをしてセックスをして指輪を与えたくらいでこの予測不可能な生き物を制御できたら苦労はいらない。だから人生はおもしろいのだと、無理矢理プラスにとらえてはいるけれど。
「噛まれたらよけい腹減ったなぁ。甘いモン食いてえなぁ…シナモンでリンゴ的な何か」
「わがままな子はお兄ちゃん嫌いです」
「誰のためにオレが一日、クソ寒い日に庭掃除したと思ってンだ? おにーさま」
 歌うようにおにーさま、と囁かれ、本気で肌が泡だった。しかしそれを引き合いに出されては俺も何も言えない。ライルが寒空の下庭掃除をしている横で、俺は暖かい部屋の中でコーヒーを飲みながら持ち帰った仕事を片づけていたのだ。ティエリアに至っては日向で眠っているだけだった。
 期待に満ちた視線からぎこちなく逃げつつ、何かこの状況を打開できないものかと思考をめぐらす。皮肉にもライルの手によって完璧に片づけられた庭には、雑草一つ生えていなかった。片隅に枯れ葉とむしられた雑草がうず高く積まれ、彼の仕事の徹底ぶりを実感する。それをしばらくじっと、眺めていた。
「…ライル!」
「何だよ」
「俺にいい考えがある。黙って手伝え」
「…はぁ?」
 そのうちに俺は、あることを思いついた。ライルの腹も満ちて庭もさらにきれいになる。さらにはアップルパイが手にはいるかもしれない、一石二鳥どころか三鳥も可能かもしれない作戦だった。






 アップルパイの円盤が空を滑空し、ロックオンの乗ったフラッグがぼんと弾きとばされた。こんなときに上官は何をしているのかと言えばぱちぱちと手のひらで円盤を叩きながらシナモンの匂いのするそれにかじりついている。そんなことをしたって止まるわけがないのに。救いようのない馬鹿だと呆れていると隣でライルが巨大なフライパンでパンケーキを焼いている。あれに対抗するにはお前がこれに乗るしかない。できるな、ティエリア? その問いかけに僕は無論だと頷く。そこでようやく目が覚めた。
 ぱちぱちという音は炎の弾ける音で、ライルがパンケーキを焼くいい匂いの元は、二人が食べているサツマイモだった。
 この光景は知っている。実際に目にしたのは初めてだが、写真で見たことがあった。確か、ビリーから送られた写真で見たのだ。ユニオン軍ヤキイモ大会だとか何とか書き添えられて。おいしそうにイモを頬ばるロックオンを見て、無性に空腹を感じ、コンロで冷蔵庫にあったジャガイモを直火にかけたら炭になったのを覚えている。
「すげえ…ぽくぽくしてんぜ、このイモ。うめぇ」
「だろ? これ食ったらそこらへんのサツマイモは食えねえよな」
 うちの同僚の故郷でとれたやつらしいんだけど、と付け加えて笑い、焼きたてのそれを二つに割る。そしてあらわになる、鮮やかな黄色の身に思わず喉が鳴った。
 窓の外でたき火をしている二人は、とてもおいしそうにサツマイモを頬ばっている。イモを直火にかけるという条件は同じであるはずなのに、この差は何なのだろうか。不思議で仕方がない。
 きゅるる、と身体が空腹を訴え出す。庭で楽しそうにイモを頬ばる二人を見ていると、次第に腹が立ってきた。僕が眠っている間に、二人だけで美味しそうなものを食べるなんて万死に値する。僕が目覚めずにいたら、あのイモを二人だけで食べきるつもりだったのだろうか。庭で繰り広げられる、おいしそうで楽しそうな光景を見るとさらに苛立ちがつのった。
「ロックオン! ライル!」
 寝る前に脱ぎ捨てた室内用のスリッパをつっかけて、構わず庭に出る。しかし眉尻をあげる僕とは裏腹に、二人は笑顔のままイモを頬ばり、食べていない方の身をこちらに向けてとんでもないことを言い出した。
「ティーはいらないだろ? アップルパイがあるもんな」
「そうそう。俺たち、あれにありつけないから仕方なく、寒空の下で残り物のイモ焼いてんだよ。あったかい部屋でアップルパイが食べれるお前がうらやましい…」
「なっ…!?」
 いつもは僕の味方をするロックオンさえ、ふぅ、とため息をつきつつ食べかけのイモにかぶりつく。二人に言われるまで、アップルパイのことなんて忘れていた。通販サイトの、秋のスイーツ特集で一番人気だった高級菓子店のものを取り寄せ、届くのを今か今かと待っていたはずなのに、今はそれよりも目の前のイモが欲しい。
 しかしそんなことを言えるはずもなく、僕は呆然とスリッパのまま立ち尽くすしかできなかった。秋のつめたい外気は部屋着のままの僕を冷やす。かみしめた唇から飢えからくる唾液がわずかに滲んだ。
「あーあ、俺らも食べたかったなあ、アップルパイ」
「ホント…こんなイモよりうまいんだろうぜ」
「あ、当たり前だ!!」
 反射的に答え、くるりときびすを返す。部屋へと飛び込み、かじりつくように冷蔵庫に開けた。寝る前に置いておいたアップルパイが手つかずのままそこには鎮座しており、それを乱暴に引きずり出してテーブルの上に乗せる。そのまま、温めもせず皿に乗せることさえせずに、手でちぎってかぶりついた。
 しっかりと味のついたリンゴもさくさくのパイ生地も、シナモンの芳香もどれも想像以上で、とてもおいしい。それなのに、少しも満足できなかった。ただ直火で焼いただけのイモが頭から離れてくれない。おいしいと繰り返していた二人の笑顔が目に焼き付いている。寒い中、鼻を赤くして決して快適ではないはずなのに、ひどく楽しそうで、ふたりが、
「……ッ、」
 それが空腹でもなく、苛立ちでもなく、淋しさだとようやく気づいたのは、視界がぼやけだしてからだった。甘いシナモンの香りが突き抜けて鼻の奥が痛む。おいしいけれど、おいしくなどない。こんなものより僕も暖かい火を囲んで笑いたかった。同じものを食べたかった。
 楽しそうにイモをほおばるロックオンの写真には、ロックオンの周りに同じく楽しそうな彼の上官や、同僚も写っていた。だから僕はそれがうらやましくて、同じことをしようとしたのだ。
 ―――それをまた、繰り返して。
「…またそうやって、うまいもん独り占めしやがって」
 テーブルの上にアルミホイルのかたまりが転がされる。それに手をのばすと、まだほんのりと温かい。ゆっくりと顔をあげると、ふたりの笑顔があった。少しばつが悪そうに、笑っていた。
「それやるから…アップルパイ、ちょっと分けてくんねえ? ティー」
 お願い、という風に手のひらを立ててねだる。そうやって初めて僕は少しだけ、素直になれる。彼らに対しても、自分の淋しさに対しても。
「…仕方ないな」
 意地からアップルパイを選んだはずなのに、口の端がほころぶのが止められない。相手がうれしそうに笑って、目の前のテーブルにつくのがうれしいだなんて。アップルパイが届いたときよりも、ずっとうれしいだなんて。
「最初からそうやって頭下げればよかったのに」
「ンだよ、言い出しっぺは兄さんだろ? イモはうまかったけど」
 そうだっけ?ととぼけながら、紅茶のポットに手を伸ばす。彼らはあまり口にしようとはしないが、彼らの淹れる紅茶は美味しい。それを指摘すると、お国柄な、と意味深に笑う。僕にはあまり理解できないが、美味しい紅茶が飲めるのは悪くはない。
「じゃあ、オレ切ってくる。一番おっきいやつはティーのな」
「いや、いい。ライル」
 アップルパイの箱を持っていこうとするライルをひとまず制止して、笑みを深める。滲んだ涙をこっそり指で拭ってから、アルミホイルを手に取った。そして僕はようやく本音を口にすることができた。
「アップルパイは、後でいい。今はイモが食べたい」
 ロックオンもライルも同時に目を丸くして、それから、口元をほころばせた。僕もつられて、笑った。
 なによりも、三人でテーブルを囲むことそれ自体を、たまらなくうれしいと思ったのだった。