そこは薄暗く、澱んだ気配が渦巻いていた。照明も流れる音楽も抑えられていて、木造を模した内装も手伝い、落ち着くようで胸がざわつく奇妙な店だった。板張りの床を軋ませてロックオンが店の奥へと進むので、耳鳴りを堪えながらもついていく。音楽に混じった客たちの囁きと視線が、また落ち着かなくさせた。
「あーれ? 懐かしい顔」
 店の奥にしつらえてあるカウンターにロックオンが腕を置くと、彼より幾分明るい色の髪をしたバーテンダーが声をかけてきた。俺の知らない名前で呼ばれた男は俺の肩に腕を回して、自分の隣のスツールに促す。カウンターの一番端、壁際の席だ。その椅子は高さの割に脚が華奢で、不安定だった。壁に手を突いて身体を支えながら足をかけると、肩を抱いていたロックオンの手が椅子の背を支える。そしてこちらが完全に座ってから、自身も席についた。その間にもバーテンダーとの会話を続けていて、俺の方を見なかった彼は、俺の知らない人間だった。
「よ、久しぶり」
「ロック?」
「いんや、とりあえずギネス。あとレモネード」
 オーケイ、と短く答えて、バーテンダーはカウンターの陰に隠れた。その会話がオーダーだということは何となくわかるが、あまりに短いやりとりなのに二人は軽く笑いあう。親しさ、というらしきものを感じた。
「炭酸、平気だよな? ここのは旨いから」
 店に入ってから初めて声と視線が与えられ、少し動じた。小さく肯くと彼は小さく笑って頬杖をつき、また視線を前に戻す。そこにグラスといくつかの料理が並べられた。見覚えのあるメニューは、時折彼が俺に作って与えたそれを同じだ。俺の故郷の料理なんだと彼は言っていた。
「今日はどうしたの、美人さん連れて」
「手、出すなよ」
 グラスを煽った彼の頬が綻ぶ。吊り上がった口の端にはビールの泡が付着して、彼はそれを親指で拭った。それが常の彼より乱暴な仕草に見えて、彼は今ロックオン・ストラトスではなく知らない男のように思える。理由は、良くわからない。そう思ったとしか言いようがなくて、店内に流れる緩急のついた音楽とざわめきとが、曖昧な不安とないまぜになって肋骨の奥で内臓がうねるようだ。
「ティエリア、食べないのか?」
「あ、ごめん。ついいつものメニューで出しちゃったけど、嫌いだった?」
 レタスを絡めたフォークが目の前で振られる。間近な彼の声に少しだけ心拍が凪いだが、声はすぐにフォークと共に別の方向へ向けられてしまった。彼の注意力が自分に向けられていないということが、これほどストレスになるとは思わなかった。
「いや、平気平気。つか、俺が普段作ってやってるのと同じメニューだし」
「ああ、俺が教えてやった奴。ってことはエスコートがまずいんだ」
 その後も二人の会話は続いていたが、よく聞き取れない。口の中がからからに乾いていたので、目の前に置かれていたグラスを取ると、自分の手がじっとりと汗ばんでいたのが分かった。汗など滅多にかかない体質なので、温度調節の作用だとわかっていても気色が悪い。グラスの表面についていた水滴が心地よく、その冷気にほんの少しだけ安堵した。ストローで吸い上げた炭酸水には柑橘系の酸味と甘みがあり、咽喉の渇きが清涼感で撫でられる。そこでようやくほっと息を吐き出せた。すぐ隣に彼がいて、その声だって聞こえるはずなのに、こんなにも自分が緊張状態にあることが不気味で仕方がない。
 耳をそばだてると、ざわめきの中に彼の声が聞こえる。会話の相手は先ほどの男だけでなく、奥にいた年配のバーテンダーや中年の男や若い女性の声も混じっていた。この店の中は個々が食事をしているのではなく、一つのコミュニティのようなものが形成されているのだと気づく。
 それで理解した。自分は異端者なのだ。この木造を模した小さな箱の中で、自分は外部因子だったのだ。それはロックオンとて例外ではなく、彼の、自分に向けられたのでも、ビリーやあの男に向けたのでもない声は珍しく、それだけ遠かった。カウンターに肘をついてよりかかり、話し相手に上体を向けているのでこちらからはひねられた背中しか見えない。それを一々見るのも億劫で、彼とは反対側にあった壁に肩を預け、そのまま頭をもたせかけた。コーティングされた木材の冷たさが、ざわめくこめかみを冷やしてくれる。
 ―――最近見ないと思ったらこんな可愛い子をつれて。
 ―――いい加減、軍なんてやくざな仕事辞めっちまえ。
 ―――お前んとこの部隊、この前ニュースに出てなよな。
 ―――もうちょっと顔出せよなぁ。
 ―――お前が来ない間にこの店、値上がりしたんだぜ?
 そんな益体もない会話に耳を塞ぎたくなった。それはロックオンにではなくニールという男へ向けられていて、彼らはニールという男を知っている。なのに自分はロックオンしか知らない。そんなことがやけに重く感じられた。今隣に座って彼らに答えているのは俺の預かり知らない赤の他人で、自分の知っているロックオン・ストラトスは世界のどこにもいないのではないかとすら思う。咽喉の下、シャツの中で素肌にひやりと触れる金属製の輪の冷たさが白々しく感じた。


 壁に押しつけていたこめかみにうっすら痛みを感じ始めたとき、カウンターの下、膝の上に置いていた手に、手袋に包まれた手が重なった。そのまま強く、けれども痛みを感じさせない程度に握りしめる力には覚えがある。大きな手は膝と手との間に滑り込み、掬うようにして包み込んだ。
 俯きがちだった視線を下げたまま、そろそろと隣に向ける。彼は変わらず他の客や店員と話を続けていた。背中も声も相変わらず遠いのに、ただ手だけが大きく強く、そして優しく自分に向けられている。
 家での触れ方は、こんなものではなかった。手だけなどではなく、全身を使って彼は自分に触れてきたし、自分もそれを享受している。彼の不在の後など、いっそ渇望といっても良いほどに求めてきた。今の自分は物理的には一人ではないけれど、それ以上に一人で、あの家で彼の帰りを待つ以上の焦燥を感じている。なのに、こんな手一つで安堵してしまった。
 ずるい、と思う。
 外で食べるか、と呟いたかと思えば自分だけ上着を着込み、ティエリアはどうする? などと聞いてきた。選択の余地が皆無だったとは言わないが、大してあるはずもない。やはり、ずるい。
 そうして連れてきた店では、いつもの鬱陶しさなど微塵も見せずに他人との会話に終始する。今この場においては自分こそが彼にとっての他人なのだと思い知らされて、うねる内臓を全て掻き出してしまいたくなった。なのに今度は掌一つでそれをたやすく宥めてしまう。なんてずるい男なのだろう。他の客やバーテンダーと笑い合っている男はどうだか知らないが、ロックオン・ストラトスは知っている。そういう、ずるい男だ。


 料理を全て平らげ、グラスを空にした彼がチェックを済ませていると、年配のバーテンダーが上着を渡しながら、言った。
「なぁ。真面目な話、向こうに帰る気はないのか? そろそろ戻っても良いだろうに」
 上着を受け取り、それを俺に着せかけながら、彼は笑った。
「こっちの暮らし、水が合っちゃって」
 着せかけられた上着の上から、そっと肩を抱かれる。知らない名前で呼ばれた男は、けれどもロックオンだった。





 
「なぜ?」
  小さな呟きはメトロの駆動音に掻き消されそうだったが、その声を拾い慣れた俺の耳にはきちんと届いた。
 郊外へと向かう車内に客は少なく、俺達以外にはくたびれたサラリーマンが数人と、ラケットが入っていると思しきバッグを抱えた学生がいるきりだ。会話は駆動音に紛れながらも響いてしまうかもしれないが、俺はティエリアのように声を落とすことはしなかった。久しぶりに飲んだビールの所為にしても良い。
「だって、冷蔵庫の中、空だったし」
 腹が空いていて、食事の時間としても頃合いだった。なのに冷蔵庫は空っぽだった。
 言い訳はそれだけだ。ティエリアが嫌だと言い張れば、近所のコンビニに走っても良かったし、デリバリーを頼んでも良かった。最悪、キッチンの食糧庫に押し込んである軍の携帯食で済ませるという手だってあった。
 たくさんの逃げ道と、最終決定を相手に委ねるというどこまでもせこい手を使って、俺はティエリアを外へ連れ出した。ティエリアと出会ってから一度も足を向けたことのない店に。


 俺はティエリアと出会ってから、自分が淋しかったのだと初めて気づいた。あの故郷の酒と料理を出す店で、俺はそうした淋しさから目を逸らすことに成功していたのだ。そんな隠蔽した隙間を音もなく埋めてくれたのが、ティエリアだった。
 そして俺が不在の間、ティエリアが淋しさで食事すら満足に摂れなくなってしまったのは、その代償だ。俺が行く度に帰る度に、血だまりのような瞳が不安に揺れる。
 その波紋を止めたくて渡したのが華奢なデザインのちっぽけな金属製の輪だ。ごまかしに過ぎないと分かっていながら、笑って受け取ってくれた時のティエリアの笑顔を、俺は今でも鮮明に思い出せる。その端正な顔が緩やかにたわみ、赤い瞳が不安以外のものに染まったとき、ずっと一緒にいようと決めた。ずっとずっとだ。
 だがそれは約束であって拘束ではない。そんなもの、俺は望んでいなかった。食事も睡眠もできないほどスポイルさせて、俺だけの世界に閉じ込めるために、あの家を選んだわけではない。俺が欲しいのはもっと別のものだ。上官の理不尽に振り回されようと、意に染まぬ任務を強要されようと、そこにいれば全て霧散するような、帰る場所。ホームが。
 車両が大きく揺れて、隣り合った肩と肩が触れ合った。二の腕の辺りを押す小さな丸い肩を抱きしめたいと思ったけれど、俺は黙って手を組んだままでいる。手袋の下の薬指には、ティエリアと揃いの指輪があった。
 ティエリアには、家では足りないのだ。おためごかしの指輪では俺は満足できても、俺しかいないティエリアの淋しさは埋まらない。だから、あの店を選んだ。メトロを乗り継いで辿り着いたその佇まいは少しも変わらず、バーテンも常連客も俺を覚えていてくれた。ティエリアと出会う以前の俺。この国で俺がここでだけ垣間見せた、故郷にいた頃の名前。
 口はばったいが、言ってしまえばティエリアは俺の全てだ。けれどもティエリアだけが俺の全てではなかった。何をどうやったって、そんなことはありえない。俺は毎日ティエリアのいない職場でティエリアのいない時間を過ごし、過去においてはティエリアのいない場所で生まれティエリアのいない世界で生きてきた。
 それはティエリアとて同じこと。メール一つで三日も俺以外の人間と国外に出かけたり、パソコンに通して何時間も、それこそ夜通し会話をしたりする。俺の知らないことを何時間でも。それを淋しくないと言うほど、俺は強がる気にはなれなかった。そういう矜持は、とっくに骨抜きにされている。けれども、俺が全部ティエリアのものになれないように、ティエリアの全部を俺のものにはできないと思うだけの理性は、まだあった。だからまず、俺を晒すことにしたのだ。俺はティエリアのことを何よりも誰よりも好きで大事で愛していたが、ティエリアの知らない俺というものがあることを俺は知っている。
 故郷にいた頃は飲んだことなどなかったが、この国に来てからは故郷の水で作られるビールを好んだ。女の好みについて、気心の知れたバーテンと下世話なジョークも飛ばすのは楽しい。料理は味が濃い方が好きで、フィッシュアンドチップスはいつもソースまみれにして食べる。
 そんな些細なことを教えたかった。いや、違う。見せつけたかったのだ。ティエリアの知らない俺を。俺の知らないティエリアを見せつけられた、ささやかな腹いせに。
「そうじゃない……いや、いい」
 ティエリアは言葉を濁して追及することを止めた。それは逃避だ。目の当たりにした自分の知らない俺からの。ティエリアは俯いたまま、長めの髪で表情を隠す。しかし、メトロの窓ガラスには、眉間に皺を寄せてもなお美しい顔が克明に映っていた。
「懐かしくなってさ。なんか、急に」
 俺はそこに追い打ちをかける。無垢なものに何かを、善でも悪でも正でも負でも、感情でも行為でも、教えることは恐怖だと思った。
「なつかしく?」
「そう、なつかしく」
 理解できないことを忌んだ響きでなぞる言葉に、俺はあてつけがましい声を重ねる。白々しいと我ながら呆れた。故郷と呼ぶべき国は、俺にとってもはや彼の国と成り果てている。思い返して胸を突くのは、郷愁などといったロマンチックなものではなく、肋骨の隙間から刺し込むような鋭利な痛みであり、被災したドサクサで捨てた名前で呼ばれる度に、内臓から血が滲むようだった。それでも故郷の匂いを探して見つけたのが、あの店だ。やはり、我ながら呆れてしまう。
「随分、親しいようだった。ビリーや、あれよりも」
「んー、ま、表面的なもんでもあるけどな。大体一、二時間飲み食いするくらいしかいないし。あと、あれって言わない。あれ一応上官だから」
 駅が近づき、メトロが制動をかける。ティエリアの身体が僅かに傾き、また小さな尖った肩が俺によりかかった。俺はそれを抱きしめる代わりに、店でそうしたように隣でうつむくティエリアの手を、彼の膝の上で握りしめる。列車が停止し、エアが抜ける音と共にドアが開いた。斜め前の席でうたた寝をしていたサラリーマンが慌てて降りるとき、ちらりとこちらに視線を寄こしたが、ティエリアは気づかず俺は気にしなかった。
 プシュ、と音をたててドアが閉まる。緩やかな加速に揺れるガラスの中で、ティエリアの薄い唇が動いた。
「ロックオン、」
「ん?」
 顔を上げたティエリアの、美しい顔が俺を見つめる。何か決意めいたものをその赤い双眸に滲ませて見上げてくるティエリアに、俺は微笑をもって応じた。本当はいつだってこうしてティエリアに答えてやりたい。けれどもそれではティエリアは失うまいと必死になるだけなのだ。
「あなたは、……いや、いい。何でもない」
「そうか?」
 言い澱んだティエリアは、何を問おうとしていたのか、見当はついた。だがティエリアは今、問うことを止め、俺もせき立てることはしない。ただ代わりに、強く握り返してきた必死な掌に応え、言い澱んだ臆病な唇をキスで塞いだ。
 寝ぼけ眼の学生がぎょっとして、顔を赤くする。彼らには悪いが、しないわけにはいかなかった。何しろ俺も、淋しくて不安で仕方なかったのだ。ティエリアの変化も。変わっていくティエリアに、知らない俺を露呈することも。
 空いている手でティエリアの襟元を探ると、指の下で身体が緊張で強張った。俺はその懸念を拭ってやることもせず、皮膚を直に指先で探り続ける。シャツの二つ目のボタンを外した先、鎖骨の少し下に、目的のものはあった。細い鎖に指を引っ掛け、素肌とシャツの間から引き揚げたその先に、俺たちが一緒にいるという約束が小さな輪の形でぶら下がっている。
「指に、つけてくれないの?」
「……キイを叩くときに邪魔だ」
 半ば圧し掛かるような俺の身体の下で、ティエリアは身じろいだ。居心地が悪そうに視線を逸らす様子を、可愛いと素直に思えたのは、指輪があるからだ。こんなちっぽけな輪っか一つで、そのくらいは安心できる。だから、ティエリアもそれくらいは安心してくれて良いのだ。
「妬いてくれた?」
「一体あなたは何の話がしたいんだ」
 苛立たしげな声に、口の端は自然とつり上がった。ティエリアが抱いているのが淋しさか嫉妬か、不可解な俺への苛立ちかは知らないが、そんなものはいらないのだ。俺はティエリアが好きだった。
「俺は妬けるよ。ときどきな」
「あなたはときどき、わからないことを言う」
「わからなくてもいいんだ。これがあれば、少しは安心できるから」
 引き出した鎖を指先に絡めて示してみせる。ティエリアは首を縮めて顎の下にあるそれを見ようと必死になっていた。俺はその俯いた額に唇を寄せる。滑らかな前髪ごと白い額にキスをして、小さな耳元で囁いた。
「だからティエリアも、少しは安心してくれていいから」
 四方に馴染んだ友人がいて俺との再会を喜んでくれていたのに、俺の意識は結局隣にいるこの絶世の美少年に向いてしまう。お前だけが俺のものではないのだと、教えるために行った場所で、結局俺は手放すことができなかった。つまるところ、ティエリアだけが俺のものではないが、ティエリアは俺のもので、俺はティエリアのものなのだ。
「だから、一緒にいような」
 



 言葉が足りないのは分かっていた。けれど言葉だけでも足りなかった。ちっぽけな輪っかだけでも足りない。何もかもが足りなくて、不安から逃れようと模索して、失敗することを繰り返しているのが俺たちだった。
 それでも俺たちはお互いが好きで、こればっかりはどうしようもない。俺はもう諦めた。さしあたっては、指が収まる程度の小さな安心を繰り返してやっていこうと思うのだ。
 メトロが郊外の小さな駅の名を告げ、俺はティエリアの手を引いて立ち上がる。繋いだ左手の指を探ると、薬指に金属の繊細な細工に触れた。それが俺たちのちっぽけな約束だった。