はじめは、ティーの狂った金銭感覚を是正するために持ち込んだものだった。



 通販番組の口車に乗せられては、綱も簡単に切ることができる果物ナイフ(果物の皮を剥くだけのものに、そんな切れ味があってどうするのか)やら、電源を入れるだけでネズミがあっと言う間に駆除できるというネズミ避け(あいにく我が家ではネズミを見たことがないのだが)やら、次々と無駄なものを買おうとする。そして届いて、しばらくいじったら満足して放置を決め込むのだ。
 おかげで、冷凍肉も粉砕してみせるミキサーも、労せずキャベツを簡単に千切りにできるスライサーも、今ではすっかりオレの家事のお供になっている。義理の息子を絶賛溺愛中の家長は、便利になっていいじゃないか、などと寝ぼけたことを抜かしているが、この家に買うだけ買って使わずに積んである家電製品が、どれだけあるのか分かっているのだろうか。
「ティエリアが自分で稼いだ金なんだからいいじゃねえか」
「そういう問題じゃねえ! お前がそうやって甘やかすから、あんな金の使い方を…、」
 オレの言葉を、ティーの端末から鳴り響くアラート音が遮る。ホロモニターに映った折れ線グラフが急激な上昇を見せ、その頂点へいくかいかないかの瞬間に、ティーの眼鏡がきらりと光った。
 この瞬間、ティーがキーボードを叩くだけで、数千万単位の金が動く。端末に表示された現実味のない桁数の数字にめまいを覚えながら、オレはようやく兄さんの方へと向き直った。
「…で、なんだって?」
 兄さんも同じ、感情のない表情を浮かべている。一瞬で兄さんが一年間汗水垂らして働いて稼ぐ以上の金額を得られては、言葉もでまい。顔を見合わせて、ため息をつくばかりだ。
「うん、でも、オレは大事だと思うぜ…金銭感覚」
 なんとなく負けた気持ちでいっぱいになりながら、それでも一応は提案する。兄さんも今度は力なくだがうなずいて、端末をじっと見つめているティーを見やった。ティーはひとしきり儲けて満足をしたのか、オークションで数年前に生産中止になったレアパーツを落とそうとしていた。そこに並ぶ数字の桁数に、オレは今度こそ倒れるかと思った。確かにこんなものを毎日見ていれば、通販の品物を買う買わないで悩むのもばかばかしくなるだろう。
 しかし、そこで折れては親馬鹿兄貴と同レベルだ。そう思い、なんとかティーの崩壊した金銭感覚を是正すべき方法を模索する。真剣に悩んでいるオレの横でティーは、この僕に対抗するなど万死とか何とか言いながら、さらにオークション価格をつり上げていた。





 結論から言うと、一週間考え続けても名案は思いつかなかった。
「…なんだこれは」
 それは、犬をかたどったおもちゃだった。一昨日オンラインのギフトショップで偶然見かけたものだ。苦し紛れでひねりだしたアイデアを前に、ティーがいぶかしげな表情を見せる。それに説明を加えるのも今更恥ずかしく、かといって黙っていても話は進まない。半ば捨て鉢になってティーの肩を掴み、勢いに任せて口にした。
「きょ、今日からお前がこいつの世話係だ、ティー」
 オレがそう言うと、目を丸くして怪訝そうな色を強くする。当たり前だ。年齢一桁のガキじゃあるまいし、おもちゃの犬の世話係などバカにしているにもほどがある。しかし相手がそれ以上の反応を示さないために奇妙な沈黙が生まれ、冗談だと笑うタイミングすら失ってしまった。
 あまりに間が持たないせいで、ポケットから小銭を出して、茶番を強引に続けようとする自分を恨んだ。引っ込みがつかないとは、まさにこのことだ。おもちゃの犬の口に小銭を数枚ねじこむと、犬の瞳がチカチカと光ってアラーム代わりの鳴き声が響く。
 わんわん、と元気のいい鳴き声が響いたとき、ティーの肩がびくりとふるえた。驚いたらしい。
「…こんな感じで、小銭を入れて、」
「硬貨が、動力源だと…!?」
 ティーのレンズ越しの瞳が明るさを増した、気がした。てっきり不機嫌になったティーに、バカにするなと怒鳴られることばかり想像していたから、予想外の食いつきの良さに動揺する。
 言ってしまえば、動力源などない、ただの犬型の貯金箱なのだ。
 金銭感覚の崩壊した彼に、どんな形でも貯金をするという習慣が身に付けばいいと思ったのだが、小銭をためる以前の問題だし、なによりも対象年齢が幼すぎる。
 まるまるとした犬の貯金箱を箱から出した瞬間、オレはティーをいくつだと思っているのか、と自問自答した。ゆえに堂々とこれを使って教育しようとする気になれず、かといって黙って返品するのも躊躇われて、内心途方に暮れていたのだ。
 しかしティーは、そんなオレの思惑など全く知らずに、自分の財布からありったけの小銭を持ち出して、次々と犬の口へと入れていく。
 わんわん、わんわん、と何度も鳴き声をあげながら、差し出す小銭を飲み込んでいく有様を見て、ティーはひどく満足そうに何度もうなずいていた。
「…ふふ、」
 どうやら、信じられないことに、彼はこれをとても気に入ったらしい。小銭をひとつ飲み込むごとに笑みが深まる。犬の目がちかちかする様をいつまでも眺めている。
「めずらしいものをありがとう、ライル。僕が徹底的に世話をしてみせよう」
「おい、ティー」
「なんだ?」
「…なんでもねえや」
 それは唯の貯金箱で、おもちゃなのだと。わかっているのだろうか。そんな恐ろしい考えがふと頭をよぎる。いくらティーでも、そこまでズレてはいないだろう。そう思いたかった。にこにこしながら小銭を犬の口に運ぶ横顔を眺めながら、祈るような気持ちになる。
「高い硬貨を入れれば芸がしこめるだろうか」
 ぽつりとつぶやいた言葉に、オレの祈りはあっさりと潰えた。しかし訂正する気になれないでいた。サンタクロースは実はいないんだと告げるようで心苦しかったから。それは勝手なエゴであり、唯の臆病なのだと分かってはいたのだけれど。







 しかし、彼と犬の貯金箱との蜜月はわずか一週間ほどしか続かなかった。
 彼が飽きて放り出したのではない。それどころかティーは、朝目覚めたら真っ先に犬の前へと向かい、小銭を押し込み、食事時も向かいに座っては小銭を押し込み―――とにかく24時間つきっきりでかいがいしく面倒を見ていたのだ。
 しかしその深すぎる愛情が悲劇を呼んだといってもいい。最近のティーは、庭にある「いぬ」とだけ素っ気なく書かれた一本のアイス棒に祈るのが習慣になっている。彼なりの真摯な弔いの気持ちに滑稽さを通り越して哀れになり、罪悪感すら覚えてしまった。そうこぼしたら、兄さんは残酷にも笑い飛ばしてくれたのだが。



 その兄さんは、深夜三時にティーにたたき起こされ、犬が動かないんだ、とぼろぼろ泣き出す彼を、兄さんらしい適当さでなだめていた。そして、寝る前に食べたアイスの棒をゴミ箱から引っ張りだして墓を作ってやったそうだ。
「あんだけいっぺんに金詰めりゃ壊れんだろ」
 翌日、オレを目の前にからからと笑いながら、ティーの寝ているすきに地面に埋めた犬を解体して、はちきれんばかりの小銭を取り出していた。ティーにとってはかわいい犬でも、オレがそれによって複雑な気持ちになっても、兄さんにとってはただの貯金箱だった。
 兄さんのそういう妙な現実主義の部分は尊敬すべきだと思った。ティーが一生懸命手をあわせている墓の下には、恋人によって解体されたバラバラ死体が眠っている。
 世の中には、知らない方が幸せなこともあるのだとつくづく思った。