『自分を探しに行く。捜索禁止』

 テーブルの上にそんなメモが残されるようになったのはいつからだろう。たぶん、十日ほど前に二人で見た映画が原因だ。その映画の主人公は最愛の妻と子どもをなくし、職を失い、行き詰まったあげくに妻の使っていた古い自転車で自分を探す旅にでる―――といったような筋だった。
 俺は横で眺めていて、妻役の女優の清楚な色気に鼻の下を伸ばしていただけだったのだが。ティエリアはいつになく真剣な面もちで画面を見つめ、主人公の男がゴール地点の海にたどり着いて号泣するところでは、一緒に泣いていた。
 黙って手元にあったタオルとティッシュを手渡してやると、泣いてなんかいない、と聞いてもいないのに嗚咽混じりに答えたので、なんだか可愛くて優しく頭を撫でてやった。黙って俺の肩口に頭をもたげてくるティエリアを横目でみながら、つい、
「こういうのも、悪くねえもんだな」
 と、つぶやいてしまった。俺は、泣いたティエリアをなだめるシチュエーションのことを言ったつもりだったのだが、彼は別の意味にとったらしい。
 映画にこんなに影響されるなんて、純粋というべきか単純というべきか。とにかく、彼はしばしばこんな手紙を残してふらりといなくなるようになった。最初はそれなりに動揺して、部屋の中で手がかりになるようなものを探したり、カタギリさんに相談したりもしたのだが、6回目となっては慣れたものだ。もとより衣服も下着も端末までも家に転がっていて、財布だけを持って着の身着のまま飛び出したような有様だった。近所の買い物だってもう少し準備するだろう。そう遠くには行けないはずだ。
 軽く時計を見やり、それから今日の夕飯である、鍋の中のポトフの煮え具合を調べる。あのポトフが煮えるまでに帰ってこなかったら、約束を破ることに決めた。






「…なぜ来たんだ」

 そう冷たく言い放つティエリアは、近所のカフェでお気に入りのミルクココアを飲んでいた。テーブルに並べられた空きカップを見るに、相当長居していたようだ。本当に自分探しをしたい相手は、こんな近くでのんびりココアを飲んでいたりはしない、とツッコみたい気持ちをぐっとこらえて、口の端をつり上げた。
「自分、見つかったか?」
 そう問うと、ティエリアはレンズ越しの目を見開き、それから考えるようなそぶりで視線を逸らしてから、カップの底に残っていたミルクココアをあおった。上唇にココアの茶色を残したまま、淡々と口にする。
「何杯か飲んでみたが、この店のものよりもあなたの作るココアの方が好きだ」
 嗜好についての新たな発見も確かに「自分」を形成する一部だろう。そんなことをカフェで真面目に考えていたのかと思うと少しおかしいが、そういったことも含めてティエリアらしい。上唇のココアをそっと指で拭ってやってから、反対の手をそっと差し出した。
「作ってやるから帰ろうぜ」
 そう言うとティエリアは形のいい眉を寄せる。これもいつものやりとりだった。
「あなたはいつも僕を迎えにくるが、捜索禁止という字が読めないのか? 僕は自分探しの旅にでるんだ」
「だから、分かっただろ? 俺のココアが好きって」
 俺の切り返しに相手が言葉を詰まらせる。それから不満そうに唇をとがらせ、あの海まで自転車で…とぶつぶつとつぶやいていた。どうやらティエリアは本気であの映画と同じことをやるつもりでいるらしい。軽装で飛び出したのも、ティエリアがうっかりしていたわけでも、旅をなめているわけでもなく、映画の主人公がなにも持たずに飛び出したからなのだろうか。放っておくとまずは妻子を作らねば、と言いかねない。
「それともココア、いらねえのか? 残念だ」
 そう言ってわざときびすを返してみせる。とたん、背後でイスの動く音が聞こえ、うなじのあたりのシャツの襟元を捕まれて引き留められた。乱暴な所作に少し驚きながらも、ゆっくり振り向いてやる。そこには、うつむき加減のティエリアがいた。乱暴に引き留めてみせたくせに、視線ひとつあわせられない態度にほほえましくなる。
「…欲しい」
「よくできました」
 にこにこと笑って頭を撫でてやると、子ども扱いが不服なのか、ふるふると頭を振って拒まれた。しかしそれにもかまわず頭をかき回す。こうなれば、短いティエリアの自分探しの旅も終わりだ。
 旅に出るといって、実は探してもらうのを待っている。手紙まで残しておいて、カフェに長居をしておいて、自覚ひとつないのがおかしい。しかしそれを指摘してしまえば、むきになったティエリアは本当に遠出をしかねないのでやめておく。
 それに彼が気づく前に、自転車の乗り方でも教えてみようか。そして覚えたら、二人でサイクリングをして海を見に行く。たぶんそれは、映画で見たものより何倍も美しいだろう。