「ただいま…」
 声を出しても勿論、返答はなかった。ある筈もない。時計を見れば長針と短針が見事に直角を作り出している。AM3:00。常人ならば深い眠りについている筈の時間だ。
 同居人はパソコンにどっぷりになるとこちらの声も聞かなくなるから、もしかしたらと仄かに期待してはいたものの、残念というべきか幸いというべきだろうか。パソコンルームでは蛍のような電源の小さなライトがいくつか光っているだけで、メインの機器の電源は落とされていた。
 当たり前といえば当たり前だった。彼を夢中にさせるチャットの相手は、つい先ほどまで俺と地獄を見ていたし、その前に夢中になっていたデイトレードは「儲けすぎて足がつく」という素晴らしい理由で休止中だ。
 かくして暇つぶしの手段を失ってしまった彼は、大人しくセミダブルのベッドの中で丸くなって眠っている。無防備にすやすやと眠る姿は愛らしく、意図せず口角がつり上がった。出来ることなら部屋の照明を点けて、その可愛らしい寝顔をじっくりと眺めたいが、眠りの浅い彼にそんなことをすればすぐに目覚めてしまいそうだ。
 仕方なく、手元のライトスタンドだけを点けて、オレンジに照らされた寝顔を目を細めて見つめる。起こさないように慎重にベッドの中にもぐりこむと、鼻にかかった吐息がぐずるように鳴った。ベッドの上の自分のスペースを確保してから、柔らかく細い髪に指を差し入れた。さらさらと撫でつける。眠りを妨げぬよう、控えめに。
「本当、可愛いな」
 最小限にボリュームを抑えて、呟きを漏らした。普段の硬質な美貌も捨てがたいが、こうして眼鏡を外した無防備な有様は、彼が必死で隠そうとしている幼さが顕れてたまらなくいとおしくなる。そういうものを見たいと言って晒してくれるような相手ではないから、こうして盗み見るしかない。罪悪感と、幸福感。矛盾しそうな二つのものごと、体温を抱え込んだ。仕事の疲労がやんわりと溶かされていくのを実感した。
 きっと、仕事帰りに娘の顔を見た父親というのはこんな感じなのだろう。小さな温もりを身体に馴染ませながら、明日もこれのために頑張ろうと決意する。そんなありふれた幸福だ。
 今まで一緒にいたどんな相手よりも手が掛かって、恋人というよりは大きな子どもが出来たようだ。つくづく不思議な存在だと思う。こちらも知らないような難解な理論をその道のプロと夜通し語り合っているかと思えば、フットボールを見て、これが旧世代の狩りというものか?と真顔で俺に問いかけてくる。常識や社会性といったものが極端に欠如して、知識ばかりが肥大した子どもだった。
 自分の感情すらまともに掴むことができない。たまに爆発して分からないといって泣く。そんな相手に、ひとつひとつ教えていくのは煩わしくもあったが、楽しかった。彼の澄んだ紅茶色の瞳には、俺がとうに失った無垢なものが宿っていた。彼の姿が美しいのは、そのつくりが整っているだけではないのだ。俺が惹かれてやまないのも、きっと。
「ん…、」
 まどろみと思考の間を行き来していた俺の前で、閉じられていた目蓋が僅かに押し上がる。長い睫毛の隙間から赤い目が覗き、規則的な寝息を吐き出していた唇が音を紡いだ。
「ロック、オン?」
 輪郭のはっきりしない声音がやさしく耳をくすぐる。寝ぼけきった頭を引き寄せて、今度は感触がしっかり伝わる程度の強さで撫でつけた。さらさらと髪が指の間をこぼれ落ちる。
「ただいま。ゆっくりおやすみ、ティエリア」
 髪の間から覗く耳に囁くと、頭がちいさく頷いて、また眠りに落ちていく。寝起きの悪い彼のことだから、きっと目覚めたときには覚えていないだろう。だから俺は、素知らぬふりをして、いつものように食事を作る。この時間まで粘った分、出勤時間は遅い。午前中はゆっくりと、二人で過ごすことが出来るだろう。
 その時間を大切にするためにも、今はひとまず眠ることにした。無意識にしがみついてくる腕を感じながら、こちらも背中に腕を回す。滲む体温が優しい。明日も頑張ろうと、思った。

「おやすみ、ティエリア」

 言葉の後、吐き出した息は寝息になって重なった。