「23回」

 唐突に口に出された数字は、無論思い当たるものなどなかった。きょとんと目を丸くすると、苛立った赤い双眸にきつく睨まれる。追って飛んできたクッションをすんでのところで避けた。
「貴方が今日俺に『可愛い』と言った回数だ」
 一日でそんなに言っていたのかと驚くより前に、一つひとつをわざわざカウントしていたティエリアに驚かされる。呼吸をするように口にしているから回数など意識したこともなかった。俺が『可愛い』という言葉を安売りするたびに、彼は極めて冷静に客観的に指を折っていたのかと思うとおかしかった。口の端をつり上げて、投げられたクッションを抱きしめる。上目遣いで睨み付ける赤い目を覗き込む。
「……可愛いって罪だな」
「そのぬるい頭をどうにかしろ」
「えー、だってぇ」
「気持ちの悪い声を出すな!」
 怒鳴りつけて、つり上がった目尻まで端正だ。整った顔立ちというのはどこまでもお得だと実感する。怒った顔も可愛いよとテンプレートにはまった台詞を口にして、更に相手を苛立たせても良いのだが、不満そうに突き出た唇を見て、もっと愉快なことを思いついてしまった。
 クッションを手放し、視線を虚空に放り、こちらから目を逸らしているティエリアの顎を掴む。強引にこちらに引き寄せて視線を重ねた。首を動かして抵抗を試みているが、手でがっちりと固定されているせいで上手くいかないようだった。笑みを深めて、続ける。
「可愛いっての、嫌なのか」
「嫌に決まっている。今すぐ撤回しろ、ロックオン」
 観念したように真っ直ぐこちらを見据えてそんなことを命じる。そんなに嫌なら23回も言われる前に制止すればいいのに、こんな回りくどいことをするから可愛いなんて言われるのだ。俺は大げさにため息をついて二度、頷いた。ちょっとした悪戯だった。
「……わかったよ。言わない」
 こちらを睨むティエリアの頬を軽くつまむ。肉が薄いせいで物足りなくはあったが、頼りない柔らかさは心地良い。不意を突いたお陰で抵抗はされなかった。なるべく真剣に見えそうな表情で、続ける。
「わがまま」
 今度はティエリアの紅茶色の双眸が丸く見開かれた。反射的に笑いそうになるのを堪えるのが大変だった。
「自分勝手。頑固モノ」
「……あ、貴方こそッ、」
 虚を突かれて消えていた表情は、あっという間に怒りに染められる。つまんでいた手を乱暴に払われ、食いつくように怒鳴り返された。
「優柔不断!」
「冷血」
「八方美人!」
「ごーまん」
「変態ッ!」
「お、嬉しいな。褒め言葉だ」
 堪えきれずに笑みを浮かべると、その顔が気に入らないのか、すかさず拳が飛んできた。すんでのところで受け止めたものの、それはフェイクで、もう片方の拳がみぞおちにたたき込まれる。
 鈍い痛みに喉が啼く。倒れそうになる身体を必死で支えながら、ソファに半身を預けた。スプリングが軋む音がして、その後に容赦のない舌打ちが被さる。ああ、短気という表現もあったかと今更になって思った。
「たまには趣向を変えてみようと思ったのに」
「………腹が立つだけだ」
 俺の悪ふざけに心底苛立って、こちらをきつい目で見下ろしている。ちょっとした悪戯のつもりが、やりすぎてしまったようだ。どうにかこの場を宥める言葉を探すが、ありふれた言葉しか浮かばない。己の語彙の貧困さに頭痛がする。それでも、続く沈黙の気まずさよりはマシだと思い、口にしてしまった。
「えーと、怒った顔も可愛い、な」
 にっこりと笑って続ける。24回目の言葉は、ティエリアの眉間の皺をまたひとつ増やした。結果は分かり切っていた。けれど口にしてしまうのは、惚れた弱みということにしておこうと思う。
「可愛いって言うな!」
 苛立ちと動揺が混じった声もやはり可愛いので、恐らくその言葉も聞けない。なので、謝る代わりに抗議をする唇にそっとキスをした。