動物は冬になったら冬眠をするというが、ティエリアは気温の上昇と共に極端に動きが鈍くなっていくようだった。冷房の設定可能な温度のギリギリまで下げることなど日常茶飯事で、自宅に戻るたび二重の意味で背筋が寒くなる。何時の間にくっついていた部屋のロックのように、自分のいいように冷房を改造してしまうのではないかというのが、最近の懸念事項だ。いくら気温が上昇していくばかりの季節とはいえ、冷蔵庫のような自宅はごめんだ。健康だとかエコだとかそういうものとは最も縁遠いところにいる電子の申し子を、何とか宥めすかしては冷房の温度を上げる日が続いていた。
懸念事項はもう一つ。最近のティエリアは、暑くて何もする気が起きないといって薄着で一日中フローリングにへばりついてばかりいる。体温が移った床を憎々しげに見つめてはごろごろと転がり、涼しい場所を求めて家中をうろつく姿には、人間の尊厳とか何かについて語ってやりたくもなるが、元々家に引きこもって何もしない性分なので、何も言わずにいよう。しかし、この一週間、俺の用意した昼食に全く手をつけようとしないのは流石に放置してはおかれなかった。朝も朝で、これから気温が上がるのだとため息を吐いてばかりで、レタスとトマトをいくつか咀嚼して終わってしまう。
 ここのところの暑さのせいもあって、ティエリアは完璧に憔悴していた。嫌がる彼を抱き上げて強引に体重計に乗せたとき、その数値に俺は絶望しかけた。俺が彼に為してきた半年以上の努力(つまり餌付け)が、一夏で無に帰そうとしていたからだ。薄着なのでその痩躯が余計に痛々しい。





 そんなわけで、俺の思いついたのは単純なショック療法だった。一日中冷え切った室内に閉じこもっていては、体温調節機能も落ちるばかりだ。強い日差しに身体を晒し、思い切り汗でもかけばまともに戻るのではないかと思った。
 しかしながら。
「嫌だっ、いやだ、いやだぁっっ!!」
 日差しを肌に感じた途端、反射的に冷房の利いた車内に戻ろうとするティエリアの腕を掴んだ。こんなギズギズとした身体によくも、というほどの力があって、押さえつけるのに苦労する。こんなに動揺したティエリアは久しぶりに見た。あのときは確かこの一帯が停電したときだった。もしも天変地異でも起こって自然の中に放り出されでもしたら、彼はどうやって生きていく気なのだろうかと疑問に思う。
 暴れた拍子に落ちそうになった麦わら帽子を被り直させて、家から持ってきた保温ジャーを頬に宛ってやる。キンキンに冷えた保温ジャーは彼の混乱を落ち着かせるのに一役買ったようで、ひったくるように奪われて中身の紅茶を飲み始めた。いつもは濃い苦い甘すぎると文句を垂れるのも忘れないのだが、今の彼にとっては何よりも冷気が勝るらしい。上下する白い喉を眺めて、こっそり安堵の息を吐いた。
「外で飲むのもいいもんだろ?」
 コップから唇を離して、息を吐く姿に声をかける。いつもは室内でミネラルウォーターのボトルを、卵を温める親鳥のように抱きしめては飲んでいたからだ。麦わら帽子の下でティエリアは端正な顔を歪め、ゆっくりと頭を振る。むき出しの肩からは早くもうっすらと汗が滲んでいた。
「日差しが、暴力的だ」
「そりゃ、夏だからな。夏が暑いのは自然の摂理だ」
「その自然を屈服させるために科学があるのだろう」
「科学だけじゃ人間は生きてけないってことだ。人間はナマモノだからな」
「……煩わしい」
 それだけ吐き捨てて、彼曰く暴力的な日差しに目を細める。ようやく諦めてくれたのか、もう押さえつけなくとも車内に戻ろうとはしなかった。慣れないサンダルと石畳から伝わる熱気が落ち着かないのか、何度も裸足を動かしているだけだ。その足指は驚くほど白い。
 足を進めるついでに宙に浮いている手に自分の手を絡めた。暑いと振り払われるかと思ったが、黙って受け入れられたのが意外だった。最近になって少し痩せた指は、うっすらと汗が滲んでいた。そこに力を込めて、ゆっくりと歩く。鋭い日差しが作る濃い影の下を選んで、ゆっくりと。
「暑いか?」
「当たり前のことを聞く」
「そうかそうか」
「嬉しそうに、言うな」
「嬉しそうじゃなくて、嬉しいんだよ」
 木陰を縫って進むと、やがて日差しに溢れて開けた場所へとたどり着く。何も守るものがなく、躊躇して足を止めるティエリアを一瞥した。不快そうにこちらを睨めつける相手に、笑いかけて木陰を出る。肌を炙る日差しはティエリアの言う通り確かに暴力的で、しかし俺は不快ではなかった。後ろで小さくなっている麦わら帽子の少年の手を離し、背後に立って肩に手を置く。痩せて薄くなってしまった肩にも、首筋にも、頬にも汗が滲んで温かくて、ビニールかむき身の卵のように作り物めいた美しい肌も確かに生きているのだと感じた。
 たかだか太陽の下に放り出されただけで、迷子になったような目をするのは止めて欲しい。可愛くて、少しからかいたくもなるから。言うならば嗜虐心なのだろうか。もう少し幼い気もする。
「ティエリア、」
「何だっ!」
 日差しの厳しさ鋭さ容赦なさに、苛立ちと困惑が最高潮に達しているようだった。無理矢理に出された不遜な声がおかしい。笑いをかみ殺しながら、肩にやった手を顎に移動させて、上を向かせる。太陽が目に入らないように角度を調整してから、麦わら帽子をずらしてやった。
「ほら、あの雲。とびっきりでけえやつだ」
 日差しの強さに伴う濃い青。そこに勢いよく沸いた積乱雲を見せてやると、彼は抗いもなくそれに見入った。空を見入る機会も滅多にないのだろう。その青さも雲の白も初めて知ったと言わんばかりに、飲み込むように眺めている。
 そういえば今まで、あまり昼間に外に連れて行ったことはなかった。こうして本人の嫌がることを敢えてしようと思えるようになったのも、最近だ。そうしなければ分からないこともあると思ったし、分からせたいと思った。色々なものを知っていく彼を見たかった。そんな彼とこれから、歩いていこうと思った。
「もうすぐ嵐が来るかもな」
「なぜ」
 こちらを振り返る頬から、汗が一筋流れる。しかしそれをもう不快に思ってはいないらしい。好奇心の強い子どもには、こうやって気を紛らわせてやるのが一番だ。
「あの雲が出るのは、嵐の予兆なんだとさ」
「それでは分からない。もっと具体的に、」
「えーっと……座学で習ったけど忘れちまったよ。続きはお前の仕事。よろしく!」
 掴んでいた細い肩をぽん、と叩くと、ティエリアの眉間に皺が寄った。忘れてしまったのは本当なのだが、彼には俺がわざととぼけていると思ったらしい。しかし、それ以上追求することはせず、黙って携帯端末で積乱雲の写真を撮影する。気に入ったのか、と問えば、資料に使う、と素っ気ない答えが返ってきた。研究熱心なことで何よりだ。
「さて、嵐が来る前に戻るか」
 戻る、という一言に険しかったティエリアの表情が緩む。やはり太陽の下は彼にとって相当のストレスだったらしい。残念ながら、俺は今日で終わらす気はなかった。それは黙っておいたけれど。



 そして、予告通り嵐が来た中で、俺は延々とティエリア先生の雲の発生から始まる気象の講義を聞かされるはめになった。最後まで聞かずに難解なことを言う唇を塞いでしまったら、家の中でも嵐が起こった。しかし、それはまた別の話だ。