まず手始めに、メールの送信者名を変えてみた。

 本名でやりとりをするアドレスの送り先はそう多くない。下手をすれば片手でも余るだろう。けれどそれで多分、良いのだ。自分の変化を知る人間は少なくて良い。
 キーボードで打ち込んだ名前にはまだ不慣れでこそばゆさを伴う。何か特別な言葉のように外耳を熱くさせ、モニターに映ったそれをしばらく眺め続けていた。
 こんなものは形式上のことに過ぎない。ここで終わりなのではない。ここから始めなければいけない。そう分かっていても、興奮で胸がふるえるのを抑えることができないでいる。
 たったの一歩。それだけでも、とりあえずは前に進んだ。提案したのは自分で、受け入れたのは彼だった。彼が受け入れてくれた。そのことは喜んでも良いはずだ。
「帰宅早々メールなんて、おとーさん寂しいんだけど」
「……ッッ!!!」
 思わず息を呑んだ。突如肩口から彼の頭が生えてくきて驚いたからだ。肩甲骨が彼の胸に触れるほどに近いのに、今まで気づくことができないでいた。モニターに映る名前は、それだけの効果があったらしい。
 反射的に強張った身体を強引に動かし、視界に入りきらない彼の顔を伺おうとする。しかし彼はそんな私に構う風もなく、画面へと視線を注いでいた。一方で背後から彼の手のひらが覆いかぶさるように私の手ごとマウスを包む。何かを操作するのかと思えばいたずらに指の輪郭をいじるだけだ。欲を煽るような触れ方ではなく、唯ただ優しいだけのそれが好きだった。
「カタギリさんに言うのか? 俺たち結婚しましたって」
「結婚ではなく養子だろう。それに、これは別件だ。論文への感想と考察をまだ送ってない」
「ちぇー」
 あやすような触れ方をしたかと思えば、子どものように唇を尖らせてみせる。よくわからない男だ。彼の長い指先が指輪に触れて心臓が跳ねたことに、気づかれなければ良いのだけれど。
「俺は自慢の息子を紹介して回りたいくらいなんだが。ちいと引きこもりがちでわがまま傲慢甘ったれ。包丁握れば指を切る」
「…自慢、という意味を履き違えているようだな」
 私は彼ほど言葉の使い方はうまくないが、それでも意味は把握している。一瞬でも跳ねた胸を呪いながらうまく焦点の合わない男を睨みつけると、彼が喉だけで笑った。身体が触れているせいでその振動までもが伝わる。
「それと、金持ちですげえ美人。おまけに、こっそり新しい名前使おうとするくらい可愛い」
 画面の隅にあった送信者名は彼の目に留まってしまったようだった。機械に疎いくせに変なところで目ざといから嫌になる。送信者名に見とれていた自分さえ見透かされたような気になって、外耳どころか頬まで熱くなる。そんな私を見て彼はますます笑みを深める。うれしいのかおかしいのか、私には判別がつかない。
「…何か問題でも?」
 開き直ることでしか抵抗もできない。笑ってばかりの彼に腹を立てても、結局彼を楽しませるだけなのだ。ただ事実として、当たり前にこの新しい名前を受け入れられればいいと思う。家族とはきっとそういうものなのだから。
「何もないよ。この名前はお前のもんだ。強いて言や、ちと語呂が良くないけどな。相手の苗字が残念なせいで」
「いいんだ。あなたがくれたものだから」
 頭だけ傾げ、肩に乗る彼の頭に自分のそれを重ねる。こつん、と頭がぶつかる軽い音がして、彼のあいたほうの手のひらが私の頭を撫でてくる。その優しい触れ方に目を細めた。苗字だけではなく、私は彼に多くのものを与えられすぎた。どう返せばいいのかもわからず、とりあえずと自分を彼に与えてみたけれど。自分の領域に入れた途端にまた彼は与えようとする。限りなく、惜しみなく。
「…私は、あなたに与えられてばかりだ」
「ギブとテイクが釣り合わなくてもいいの。おとーさんだから、俺」
 彼が言葉を発すると、その声帯の震えが伝わる。ひどく近い距離に驚いても、頭を撫でていた手がいつの間にか頭を固定してしまっていて、離れることもかなわない。それをいいことに体温に甘える。引きこもり。わがまま。傲慢。甘ったれ。言われた言葉を反芻しても、離れたいと思えない。たぶん、その証明なのだ。私のこの新しい名前は。
「…パパ」
 ほんの気まぐれの、思い付きだった。子どもの浅知恵にも近いものだ。
 でき得る限りの甘ったるい声でそう囁いてやると、視界の隅の白い肌が瞬く間に紅潮していく。てっきり頭を撫でられて終わるものだと思っていたから、意外な反応に目を見開いた。ば、と勢いよく身体がはがされ、距離をとられる。向かい合った彼の頬はまだはっきりと悟られるほどに赤く、視線だけがせわしなく動く。
「ロックオン?」
 その反応に追いつけないでいると、空回りしていた唇がようやく声をつむいだ。
「やばい。それ、やばい。ダメ、俺…」
 一瞬何を指しているのかわからなかった。順を追って彼の行動と、自分の言葉とを追いかけ、ひとつの単語に行き当たる。単なる呼称に過ぎないそれを、私と同じように彼はひどく大げさに捉えるのがおかしかった。口の端を吊り上げながら追い討ちをかける。
「……おとーさん?」
「いや! だめ! こそばゆいー!!!」
 何が彼の琴線に触れたのかわからないが、ソファに寝転がって悶絶する相手を見ると胸がすく思いがした。私が新しい名前に反応したのを見て笑った顔を思い出す。たぶん、今の私も同じ顔をしている。血の繋がりなどないが、こんなところばかりは似るのだ。つまらないことを繰り返して、フリをし続けて――いつか本当になるのだと、友人が言ったように。

『Tieria Stratos』

 昨晩から長々と綴った感想と考察の最後に、ひどく浮いた署名を付け加える。
 彼がソファから立ち上がらないうちに送信ボタンを押してしまおうと思った。自分の変化を知る人間は少なくて良い。けれどいなくていいとも思わない。
 これは証明で、誓いだから。
 血の繋がりがなくとも、共有した記憶が少なくとも、彼とずっと生きていくという。