―――ロックオンに殴られたい。
 僕の密かな欲求は二人を見るたびに増していった。別に被虐趣味があるわけでもないのだが、やはり彼らのやりとりを見ていると、羨ましい、という感情が抑えられなくなる。
 ライルが来るまで、比較的ロックオンは穏やかな性格だと思い込んでいた。波風を立てるのを嫌い、いつも笑っている。弱音も不満も愚痴も、追い詰められるまでは口にしない。それを指摘したら、だって大人だからな、と微笑と共に言われた。僕にはよくわからなかったけれど、大人とはそういうものなのか、ととりあえず頷いたのを覚えている。
 しかし、今の彼らはどうだ。
「…ライルてめえ、俺のプリン食っただろ!」
「食って……ねえけど」
「だったら、その口にくわえてるスプーンはなんだ?」
「ほら、アレ、禁煙中で口淋しくって」
 へらっと笑ってみせるライルの頭にチョップを食らわすと、いてえ!と叫んだライルの口からスプーンが落ちる。フローリングに金属が転がる澄んだ音が響いた。密かに僕もロックオンがしたように、自分の頭に立てた手のひらを軽く乗せてみるけれど、二人の目にはとまらないまま、やいのやいの口論を始める。
「いってえなクソ兄貴! おもっきり殴りやがって」
「その程度で済んだことを幸福に思えよ、プリン泥棒」
 唾を飛ばし合って怒鳴り合う二人を横目で見る。どう見ても二人は双方に腹を立て、喧嘩をしている筈なのに、どうして羨ましいと思ってしまうのだろう。
 たとえば僕がロックオンのプリンを無断で食べたとしたら、ロックオンは少し哀しそうな顔で笑って―――たまに拗ねたような表情を見せて、それで終わるだろう。こんな風にあからさまに不満を示したりはしない。それは彼が大人だからだと、思っていた。
 けれどライルといるときの彼は、本当に子どものような理由ですぐに腹を立てる。それにライルが噛みついてきたかと思うと、突如激しい喧嘩が始まり、そして、何もなかったように仲良くなるのだ。
 僕への接し方とは明らかに異なる、ライルへの態度。どちらが本当の彼なのだろう。たまに分からなくなる。
 ぎゃんぎゃんと喚く二人を横目に冷蔵庫を開け、まだ冷蔵庫に残っていたプリンをおもむろに口に運ぶ。ちらちらと二人を眺めながら。
 兄さんこそオレの服勝手に着まくって自分のもんみてえなツラしてただろ、服はなくなんねえけどプリンは消えるんだよ、オレがあのコート買うのに何個プリン我慢したか知ってんのか…終わりの見えない口論を前に、プリンのカップの底が見えてしまった。
 舌先にじんとにじむ甘さに浸りながら、ひとつ、ため息をついた。なめらかなプリンでも満たされない、焦げ付いたカラメルのような粘ついた感情。これはきっと、淋しさだ。家族に見せる姿と、僕に見せる姿が違うのは当たり前で、それを羨むなんて違うのだと、分かってはいるのに。
「…ロックオン」
 口論に熱くなっている彼に、声をかける。振り向いた彼が目を丸くした。食べかけのプリンカップを差し出して、無理矢理に笑う。彼がなるべく苛立つような表情を、わざと選んだ。意識しなければ作れない自分に驚いた。彼の前では妙に気を許して笑ってしまうから。
「おいしいな、このプリンは」
「…ティエリア」
 あからさまな落胆を浮かべられ、胸が痛む。けれどここで折れるわけにはいかなかった。一度だけでも良い。僕だってライルみたいに叱られてみたい。不機嫌な顔で睨まれても、怒鳴りつけられても、罪悪感の伴わない関係に憧れていた。
 どうすれば手に入るのかわからない。怒らせるのが正解だとも思えない。けれど、血のつながりも記憶もない僕には、かたちを真似るしかできない。どくどくと心臓が跳ねた。
「ちょーだい。ティー」
「…え?」
 唐突に、ぬっと伸びてきた腕が、僕の手をとる。握りしめたスプーンがライルの口元に運ばれ、そのまま、白い柔肌のようなプリンがぱくりとライルに飲み込まれた。
「これって、間接ちゅー?」
「…ライル、てめえ!!」
 ライルの軽薄に見える笑顔にロックオンが噛みつく。プリンを主に食べていたのは僕なのに、たった一言で、場の空気ががらりと変わってしまった。ライルのこめかみに容赦なく拳をぐりぐりと押しつけるロックオンをさすがに止めようとしたとき、ライルが密かにそれをとどめた。痛がっているそぶりを見せる彼が、僕を止める理由がわからなくて、目を見開いていると、彼は痛みに眉を寄せながら、それでも笑って口にした。
「無理すんな」
「…え?」
「お前は、お前のやり方で。役割ってもんがあんだよ」
 ちいさく、そう呟いた後、大げさに痛い!兄さん痛い!と叫んだ。僕は何も言えないまま、そっと唇を噛む。見抜かれていたことが悔しく、少し恥ずかしかった。僕の幼い羨望など気付かないで、二人だけでいてくれればよかったのに。
 ばっちいからそのスプーン捨てなさい、と叫ぶロックオンに、なんだか悔しくなって、ライルが口を付けたスプーンでプリンを食べる。
「ティエリア!?」
 あからさまに動揺したロックオンの方へと歩み寄り、彼が食べたかったプリンをキスで流し込んだ。ロックオンは目を見開き、ライルもまた同じような表情を浮かべ、そして彼だけが笑った。悔しくて僕はライルを睨みつけた。これがたぶん、僕の役割なのだろう。
 甘いはずのキスは、カラメルのせいで少しばかり苦かった。