その日、記録的な猛暑のおかげでビーチには多くの人が押し掛け―――その影響もあったのだろう。小さなレストハウスは、閉店まで賑わっていた。
 普段と味の違う焼きそばや、大味のポテト。見目麗しい美少年の素早い配膳はすばらしく、酔っぱらってセクハラを働いた男性客が、キッチンスタッフに襟首を捕まれたり捕まれなかったり。全く問題がなかったわけではないが、なんとか、無事に乗り切ったといえよう。



「…こちらは問題ない。そうか…しっかり休んで欲しいと伝えてくれ。僕もまた様子を見に行く……ああ。明日、また聞かせてくれ」
 後かたづけも終わって閑とした店内で、店主を見舞いに行ったライルと連絡をとっていたティエリアが、ぱちりと端末を閉じる。そのタイミングを見計らって、後ろからまるい頭を撫でた。
 一日中海にいたせいだろう、太陽と潮の香りがする。慣れない香りを悪ふざけで追おうと肩口に顔を埋め、すんすんと首の匂いを嗅いでいると、ティエリアがくすぐったそうに身をよじった。
「…ロックオン」
「ちょっと、灼けちまったな。赤くなってる」
「ひっ…」
 ちょっと首筋の赤くなった皮膚をなぞると、びくりと身体が跳ねる。それを逃すまいと抱き寄せると、最初は緊張気味に身体を強ばらせ、それから、次第におとなしく腕の中に収まった。外でこういうことをするのに慣れていないのだろう。照れくさそうな様がかわいらしい。ティエリアが渚のメロンおっぱいにたぶらかされてなくて良かった。本当に良かった。
「今日、お前…がんばってたな」
「そう、だろうか」
 人のいなくなったテーブルや、すっかりきれいになった調理場を一瞥して、もう一度頭を撫でる。いつくっついたのか、小さな砂粒がぱらぱらと落ちてきて、後で髪も洗ってやらねば、とぼんやり思った。夏の夜はまだ熱が凝っており、肌に触れるとじっとりと汗ばんでいるのがわかる。わかっていて、そっと口づけた。いつもはつめたい唇が、ぬくい。
 触れるだけのそれを離して、ちいさな声で囁く。
「怒っていいのか、誉めていいのかわかんねえ」
「…怒っているのか?」
 また、何もわかっていないように目を見開くから嫌なのだ。嫉妬とか、独占欲とか、そういうものをはっきりと飲む前の相手が悔しい。俺がどんな思いで車を飛ばしてきたのかも知らないで。
 悔しくなって、もう一度抱きしめる。今度はティエリアも身体を強ばらせず、受け止めた。熱を持った肌がぴたりと吸いつく。水着と、パーカー一枚の無防備すぎる姿が心許ない。抱きしめたまま、そっと臍から肋骨の辺りをなぞると、びくりと身体が震えた。指先の体温が上がっていくのと裏腹に、つとめて冷たい声音を押し出す。
「恋人に浮気されて、怒らないでいられるほど心広くねえし」
「浮気など…、!?」
「ナンパってのはさ、ビーチで女とセックスするために声かけることなの。知らなかったのか? ティーちゃん」
 意地悪く問いかけると、弱い照明に照らされたティエリアがみるみるうちに色を失う。案の定というかやはり、知らなかったのだろう。
 わかっていて声をかけた弟にも、無知で純粋な相手にも腹が立つ。浮かべた笑みに酷薄なものが混ざるのを自覚した。ああ、良くない。
「ひっでえの」
 本当は知っている。ライルが本気でそういうことをティエリアにさせるわけがないし、ティエリアだって生ぬるい誘惑を拒むくらいの強さは持っている。実際には何もないどころか人助けまでした、自慢の家族だ。
それでもなんとなく、冷たく爪を立ててしまう。多分―――淋しいのだ。彼らが二人で、俺の知らないところで世界を広げていくのが。
 俺だけがひとり、置いていかれるような気がして。
「ひっでー…」
 抱きしめたまま、力なく囁くと、もぞもぞとティエリアが腕を抜き出して、頭を撫でてきた。その不器用な、だかやわらかい触れ方を受け入れるうちに、ささくれだった心が少しずつ解れていく。やばい。少し泣きそうだ。
「……無職になりたい」
「何を今更」
「働いたら負けだよな…」
「僕があれだけ言っても、辞めなかったのに」
「だってだって! お前らばっか遊んでずるい! 俺だって海で遊びてえよ! 焼きそばとか食べてえ!」
 一気にぶちまけてから、まるでだだっ子のような台詞を口にしてしまった自分に頬を赤らめた。恥ずかしくなってこちらを見ようとするティエリアの頭を強引に肩口に押しつける。できるなら数十秒前に巻き戻ってなかったことにしたい。浮気もの、とか罵りながら勢いにまかせて抱いてしまった方がまだ格好がついた気がする。瞼の裏に隊長の土産物リストがちらついた。渚ではしゃぐ水着姿の隊長まで浮かんでくる。頭が混乱しきっていた。
「ふっ…」
 腕の中のティエリアが小さく肩を震わせる。笑いをこらえているのだと分かり、死にたくなった。けれど、目をそらそうとした瞬間に口づけられて、そのまま顎をとられる。視線をはずすことも許されないような真っ直ぐな視線にたじろいだ。透き通った紅茶の色。ごまかしがたい。
「今、あなたは暇か」
「…は?」
 そして、反応に困るような台詞を突然浴びせかけられ、思わず目を丸くした。
「その服、とても似合っている。ずっと気になっていて目で追っていたんだ。遠くからでも、…その、目を引いた」
 回りくどく意図の読めない言葉と、ぎこちない口調に何を言っていいのかわからなくなる。ティエリアもだんだん気まずくなってきたのか、白い頬を赤く染めて、あれこれ思案するように視線を動かした。何かを必死で思い出そうと、時折ぶつぶつと何か呟いている。ライルはもっと、とか、笑顔が足りないのか、とか。
 唯、ティエリアの謎の言動を待つしかできないでいる俺の前で、しばらく押し黙っていたティエリアは、意を決したようにこちらへ向き直って、きっぱりと口にした。
「……セックスをしよう」
「何でそうなる!?」
 思わずツッコんだ後に吹き出してしまった。ぎこちなく外見を誉めたかと思えば、突然ベッドに誘われるなんざ、据え膳というより電波だ。普段から理解できないような言動は多いが、ここまで吹っ飛んでいるのは久々だろう。
 しかし、彼の中で一応の理屈は通っているのか、平然と言葉を付け加えられる。むしろ、よくぞ聞いてくれたという風に得意げな気さえするのは気のせいか。
「ビーチでセックスの誘いをかけるのがナンパなのだろう? ライルのようにさりげなくはいかないものだな」
「…………まじで」
 どうやら俺は、このお兄さんに口説かれていたというわけなのか。どんな女も裸足で逃げ出す破壊力の台詞に返す言葉がなくなった。
 この素っ頓狂な美少年をフォローできていたらしい弟を少しえらいと思ってしまった。海に連れ出したことは許す気はないが。
「ライルはなんつってた」
「何もいわず、黙って頷きながら笑っていろと」
「…なるほどな」
 小さく笑った後、何度目かわからずティエリアを抱きしめて頭を撫でた。どうしようもなく不器用な彼が、無理に作った口説き文句がおかしくて、いとおしくて仕方がない。淋しさもこうやって簡単に吹き飛ばしてくれるからかなわないのだ。
 俺に抱きしめられながら、ナンパの反応を伺っているらしいティエリアを、少し焦らした後にキスをした。
「んっ…ぁ」
 触れるだけのものを何度か繰り返した後、なまぬるい唾液を交換し合う。遠くから響く波の音と、近い唾液の絡む音が混ざって、妙な気分を呼び起こした。
「…誘われてたンだ、俺」
 唇を離した後、ぼんやりと俺を見つめてくるティエリアの耳元に、むずがゆくなるくらい甘い声を囁いた。いつも嫌と言うほど口説いているというのに、彼自身のそれは全くうまくない。もっと身体に覚え込ませてやらなければだめだろうか。
「…返事は?」
 一丁前に聞いてくる彼に返事をする代わり、もう一度深く、深く、キスをした。身体の奥がじわりと熱くなってきて、じりじりと身体を灼く。
 夏はまだまだ、終わりそうにないのだ。