春が近いとはいえ、夜はさすがに冷え込む。腕についた爪痕を、長袖越しに冷気が刺した。


「また会おう! ティエリア・アーデ!」
 高らかに再会を宣誓するエーカー中尉に、俺が背後に隠したティエリアはただ無言だった。
「まるで威嚇する猫のようだねぇ」
 歯を食いしばり、睨み付ける様を見て、カタギリさんはそう評す。間違いではないだろう。敵意ムキだしのティエリアの爪は、俺の二の腕にざっくりと食い込んでいたのだから。
 二人を見送ってなお毛を逆立てているティエリアを散歩に連れ出したのは、単純に気分転換のためだった。あのまま部屋にいたところで、ティエリアはパソコンルームに閉じ籠り、しかも苛立ちは消えることない。キーボードを叩き付ける音が聞こえてくるのは時間の問題だった。ならば、少しでも外に出た方が健康的というものだ。日光にも当たって欲しいところだが、彼は人目と紫外線を嫌う。
 本音を言うと、それに少し安心していた。白昼堂々日の下を歩いたら、この美貌が人目を引いてしまう。一人で出歩くなど、心配でならない。もっとも、ティエリアはそんな俺の複雑な胸中もどこ吹く風と、俺が強く促すかパソコンのパーツを買うため以外に出かけようとはしなかった。


 郊外の緑豊かな住宅街は、夜ともなれば家々の灯りと街灯、それに星くらいしか灯りがない。世界でも群を抜いた発展を誇るユニオンだが、都市部から離れればまだそんな環境はあるものだ。
「案外、星って見えるもんだなぁ」
 足を止めて見上げる。背後からぽとぽとついてきた足音は、少し緩んでからまた速度を上げた。
「ティエリア、見てみろよ。綺麗なもんだぜ。月がでかい」
「資料映像なら戻ってから山程見せてやる」
 言い捨てて、そのまま俺を追い越そうとするティエリアの手を捕らえた。無理矢理着せた俺の上着は彼には大きく、指先しか見えない。細いそれを確かに、かつ慎重に握り締めると、俺よりも少し低い体温を感じた。
「そういうのじゃなくて、実物をさ」
「より鮮明な映像が見られる。わざわざ肉眼で確認する必要性を感じない」
「折角の夜の散歩だろ?」
 握り締めた指を、肌に馴染ませるように親指の腹で撫でる。形の良い爪は、先端に噛んだ痕があった。突然の、そして初めての来訪者はやはり相当不快だったらしい。
「だから歩いているだろう」
 明らかに苛立っていたティエリアだが、どうやらピークは過ぎたようだ。語尾は落ち着いているし、街灯に照らし出される眼光は鋭くない。もう一度、親指で手の中にある指を撫でると、目尻が緩んだ。逆立てられた毛が宥められていくようだった。
「散歩って、歩くだけじゃねえんだよ。歩きながら何か見たり、話したりするのが楽しいんだ」
 指を捕らえたまま、足を進めて隣りに並ぶ俺たちの間を、風が擦り抜けていく。春先の少し冷たいそれは、どこかの庭で咲いているらしい花の香りを孕んでいた。
「この辺はガーデニングに凝ってる家が多いんだよな。何て花だろ」
「なら、」
 再び歩き出した俺に、半歩下がって続くティエリアが言う。
「ん?」
「何か話せ」
 そうは言いながら、俺のついさっきの言葉は綺麗に無視して見せるのがティエリアだ。思わず振り返ると、ティエリアは視線を逸らした。その態度を照れだととるなら、どうやらこれは彼なりのおねだりらしい。不慣れなために、言うだけで精一杯だったということか。
 ぷっ、と噴き出すと、手に爪が立てられた。どこまでも不遜な態度のくせに、やることなすことがあまりに可愛過ぎて、俺はいつでも従うしかない。
「昔々、ある国の王様が、女を信じられなくなってな。毎晩毎晩、妻を娶っては殺したんだそうだ」
「なら妻など持たなければいい。無駄な労力だ」
「そういうこと言わない。んで、ある大臣の娘が言った。私が王の妃になります」
 今度は黙って聞いていた。まあ聞いていなくても構わない。お伽話をするという経験も、夜気に混じる花の香も、手に握り込んだ温もりも、そう悪くはないものだ。
「王はその娘も殺そうとした。しかし娘は王に物語を話し始めたんだ。盗賊の話、立派な王様の話、魔法のランプから出てくる妖精の話」
「妖精?」
「そ。ランプを擦ると現れて、願い事を叶えてくれる」
 いつの間にかティエリアは半歩後ろではなく、隣りに並んでいた。見上げてくる視線はいつもより幼く、初めて聞く物語に無垢な興味が刺激されたようだ。
「王はたちまちその物語に夢中になった。けれども娘はいつも物語を途中で止めちまう。王様、また明日に致しましょう、ってな」
「それで命を長らえたわけか」
 ティエリアは内容の批判ではなく予測をし始めている。物語に入り込んだ証拠ととっても良いだろう。
「ああ。だがそれだけじゃないさ。物語の夜はついに千夜も続き、やがて二人の間には子供も生まれた。さらに王は物語を聞くうちに猜疑心を捨て、名君になったんだそうだ」
 話す間にも歩みは進んで、次の角を曲がれば俺たちの家が見えてくるところに来ていた。
「なるほど。物語を統括するための物語、か」
 俯いて形の良い顎を摘むティエリアは、彼らしい感想を漏らす。そしてしばらく黙り込み、再び口を開いたのは最後の角を曲がったところだった。
「ロックオン、その妖精というのは」
「残念、時間切れだ」
 顔を上げたティエリアに、間近に迫った家を示す。言葉を遮られたティエリアの不服そうに噤まれた唇に、俺はそっと囁いた。
「王様、また明日に致しましょう」
 そのまま口づけると、不満の色をしていた瞳は、やがて長い睫毛に縁取られた瞼で閉ざされた。夜風が二人の間を擦り抜ける。花の香が春を告げていた。