夕飯の買い物から戻って早々、オレは自分の目を疑った。もしかしたら帰ってくる家を間違えたのかもしれないとすら思った。しかし家に戻る途中にみた家は確かにオフホワイトの壁のいつもの家で、今では希少価値となったランチアまでとまっていたのだから、間違いはないはずだ。おそらく。
 しかし帰宅したオレを出迎えたのは家族ではなく、フリルをふんだんに使った、フランス人形のような格好をしたガタイのいい男と、スカートの短すぎるナースだった。それが我が兄とそのパートナーであることを認めるのに少しの時間を要した。
 しかし、だとしても信じられず、もう一度プレートを確認したものの、残念ながらここがオレの家であることに間違いはなかった。いったい何の悪ふざけだろう。これもよく考えたならおかしな話だが、ティーのナース服をみるのは初めてではない。彼ではなく彼のパートナーの趣味で、時折着せられているのを呆れや怒りをもって眺めたことがある。
 しかし、まさか兄さんまで女装に目覚めるとは思わなかった。ティーに着せるだけでは飽きたらず、自分まで着るようになってしまったなんて。呆れや怒りを通り越して、絶望すら感じていた。オレはこんな奴のためにアイルランドからはるばるユニオンまで来たのだろうか。
「あ、おかえりライル」
 そんなこちらの気持ちなど知る由もなく、フリルを着た男はにこにこと笑ってオレを出迎える。どこからツッコむべきなのかわからず、げんなりとため息をつくしかできないオレをよそに、ナースとフリル男はじゃあ続きからな、と言い合って、ミュージックプレイヤーの電源を入れた。
 それは例のごとくティーが通販で買った高音質かつ最軽量が売りの新機種なのだが、一ヶ月ともたず埃をかぶって家の片隅に捨てられていた。オレすら忘れていたものを、一体どこから見つけてきたのだろう―――などという、どうでもいい考えと、甘ったるい声のアイドルポップスが重なる。
「1・2・3・4、左、右、ターン」
 兄さんのテンポのいい声とともにくるりとフリルの裾が回転した。その軽やかな動作に再び呆気にとられる。メロディーにあわせてフリルを身にまとった我が兄がくるくると舞うシュールさにあてられたのかもしれない。目眩を起こしそうな光景に、思わず持っていたままの荷物を取り落とした。
「ティエリア、また遅れてるぞ。もう一回な」
「すまない。止めてくれ」
 軽快なメロディーの中、真剣な顔で話す二人をみて限界を感じた。ツッコんだら負けだとは思うが、ここは潔く敗北を認めるしかできない。ことの次第によっては荷物をまとめてアイルランドに帰ってしまいたい。場末のゲイバーで楽しそうにアイドルポップスを踊る兄さんを想像し、受け入れられるかどうかを自問自答する。どんな姿であれ兄さんは兄さんだと、思いたい。思えるはずだ、オレは。
「…ライル、どうした? 顔色悪いぞ?」
 フリルの裾をひらりとさせながらオレを真剣に案じてくれている兄の姿が、正直言って怖かった。人間、自分の経験の中にないもの、得体の知れないものが一番怖いのだ。追いつめられたオレは、らしくもなく荷物を放り出したまま後ずさり、心配そうな顔をしているフランス人形のごとき兄さんを目の前にして―――絶叫した。

「来るなぁぁぁっっっ!!!」





 床に散らばった荷物をひとつひとつ拾い上げながら、傷んでいないかを確かめる。動揺のあまりずさんに扱ってしまったが、幸いトマトも卵もつぶれておらずに安堵した。
「…忘年会の出し物かよ。人騒がせな」
「人騒がせはお前だろ? まるで幽霊でも見たみてえに大騒ぎしやがって」
 近づいてきた兄さんめがけ、手近に転がっていたジャガイモを片っ端から投げつけながら絶叫したのはオレだった。思い出すことさえ恥ずかしく、顔から火が吹き出そうだ。照れ隠しに早口で反撃する。
「帰ってきたら女装兄貴と美人ナースがダンスの練習してンのを見たら、誰だって動揺するだろ。帰ろうかと思ったぜ」
「…帰るのか?」
 隣で聞いていたティーが不安げな表情を見せたので、あわてて頭を撫でてやる。そこがちょうどイモをぶつけてできたたんこぶの位置だったらしく、痛みでびくりと身を震わせた。
 一番の被害者はおそらくティーだろう。別にユニオン軍主催の忘年会にでるわけでもないのに、ダンスの練習につきあわされ、兄さんの女装につきあわされ、おまけにイモの集中砲火を浴びそうになった兄さんを身を挺して守ったおかげで頭にたんこぶを作った。最後のひとつはオレが悪いのだが。お詫びの意味も込めて、ティーが持っていた氷嚢をあてがってやる。
「帰らねえって。兄さんの女装ダンスなんておもしれえモン見ずに帰れるかよ。天使様も人が悪いっつーか、なんつーか」
「バカ、隊長も踊るんだよ。しかもセンター」
「…………マジ?」
「マジマジ。むしろつき合わされてんのは俺。そこんとこ誤解してくれるな」
 スポットライトの下、桃色乳首をさらして華麗にアイドルポップスを踊りきる天使様ことグラハム・エーカーを想像して、ようやくなりを潜めた目眩がよみがえった。
 まったく、兄さんの職場は公務員という堅さからはあまりにもかけはなれている。オレも忘年会の出し物で悪ふざけを要求されたことはあるが、それでも長が自らステージに上がることなど滅多にない。しかし、彼ならば充分にありえるし、納得も想像もできてしまうのが恐ろしかった。
「隊長がバカみてえにやる気でさ。適当にやれもしねえから、こうして自主練してるわけだ」
「そりゃー、ご愁傷様だな…」
 ひらひらのスカートをつまんで、動きにくいとぼやく兄さんを見て哀れむ。聞けば、この衣装も兄さんの体型にあわせて作られた特注品らしい。ティーのナース服も特注だというから、あの隊長の本気は恐ろしい。まさか下着までつけていないだろうな、と聞こうとしてやめた。頷かれたら立ち直れないので。
「…ロックオン、練習の続きはいいのか」
「ああ。ティエリアは休んでろよ。頭痛いだろ? 誰かさんのせいで」
「心配には及ばない。僕もつき合う」
 冷却剤を頭にはりつけて、満身創痍のナースはすっくと立ち上がる。その顔つきは真剣そのもので、改めて罪悪感が滲んだ。イモも凶器になりうるのだとまざまざと実感する。
 ティーがミュージックプレイヤーの電源を入れたので、兄さんもあきらめたのか小さな動きで踊り始めた。こういうときのティーの頑固さはオレも身にしみて知っているので、止めることもしない。
「1・2・3、左、右…」
 ―――止めるつもりは、なかったのだが。
「ちょ、ちょっと待て!」
 反射的にミュージックプレイヤーの一時停止ボタンを押していた。明るいメロディがぴたりと止まり、居間にオレの声が響きわたる。先ほど呆然と眺めていたときは、フリルの兄さんばかりが気になっていたのだが、改めて見るとさらに酷いのが隣に存在した。
「ティー、振りちゃんと覚えてるか?」
 タイミングが遅れているとかそういう次元の問題ではない。音感というのを持ち合わせていないのか、まるでロボットダンスと見紛うばかりのティーのぎこちない動きをどうしても見過ごすことができなかった。
 兄さんが、とうとう言ってしまった、というような、諦めと哀しみと憐れみの入り交じった表情で、オレとティーを見比べる。隣でずっと踊っていて、あのひどい動きに感づかないはずはないのだ。それでも踊らせ続けるなんて、人が悪いのは兄さんの方ではないのか。
「無論だ。ボックスの後、右を向き、左を向き、腕も同じ方向に向けてからターンする」
 口頭で述べる動きは正しいように思えた。しかし、試しに音楽を流して様子を見ると、やはり全く違う振り付けのロボットダンスが繰り広げられる。音感なのか、反射神経なのか、それともセンスの問題なのかはわからない。確かなのは、ティーに全くダンスの才能がないということだけだ。
 絶句してぎこちない動きを見守っているしかできないオレに、フリルの兄さんがそっとささやく。
「あれでも真剣なんだよ。真剣にやってるあいつを、止められるか? お前」
「……無理だな、いろんな意味で」
 顔を見合わせてため息をついたとき、ティーは全く振りにも歌詞にもない、ヘイ!というかけ声とともに手拍子を叩いた。眉間に皺を寄せ、心の底からまじめに叫んでいた。受け狙いでも悪ふざけでも照れ隠しでもないのに振り付けが原型をとどめていない理由を、誰か教えてほしい。





 それから一時間ほど兄さんのダンスの練習と、ティーの奇怪な動きにつき合った後、三人で遅めの夕食をとった。
 女装していようがロボットダンスだろうが、身体を思い切り動かすと腹は減るらしく、珍しく明日の分の作り置きまで食べ尽くしていた。朝飯の手を抜けなくなるのは手間だが、たまにはいいだろう。空になった鍋を洗いながら、流れていたアイドルポップスを小さく歌う。さんざん流れていたからかいつの間にか覚えてしまった。
「なに? 見てたら踊りたくなったか?」
「ならねえよバカ。オレは兄さんみたいな女装癖も女装させる変態趣味もねえもんで」
 鍋についた泡を流しながら毒つくと、背中を軽く蹴られる。あまり痛みのない悪ふざけのようなそれに口の端をつり上げた。自然に流れる穏やかな空気に、つい言葉も軽くなる。
「ほんと、ティーを踊らせる必要性なんて全くねえくせに。そんなにナースちゃんが好きなのかよ?」
 下世話に笑い肘でこづくと、兄さんはほのかに頬を赤らめてうつむく。その少年のような有様と、恋人にコスプレをさせるという変態性とがかみ合わなくて少し戸惑った。
「言っておくが、あれを着るっつったのはティエリア。俺が女装なんて嫌だっていったら、僕も着ればあなたも恥ずかしくないだろう、とか変な理屈こねてきて、引くに引けなくなっちまって、」
 てっきり兄さんが悪ふざけで言いくるめたのだとばかり思っていたから、意外な言葉に驚いた。そんなオレに気づかず、相手はさらに続ける。
「たかが隊長の付き合いだし、最初は忘年会の出し物なんて適当にやりゃいいって思ってた。けどあいつ、何を勘違いしたのか、ステージに上がるなら真剣にやるべきだ、って。女装ダンスをだぜ?」
 うすく笑って、指先だけでもう着替えてしまったスカートをつまむ真似をする。同時にオレにも、熱っぽい目で主張するティーの姿も思い浮かべることができた。変なところまで真面目で、ズレていて、それでも一生懸命な姿は、短い付き合いの中でもそれがひどく彼らしいものだとわかる。ティーにとってみれば、兄さんがスポットライトを浴びて踊る姿はそれがどんな服装であれ、どんな状況であれ眩しく輝くのだろう。そういう兄さんを、見たいと思ったのだ。
「ステージの上で踊るあなたを見てみたい。きっと素晴らしいだろう、って目を輝かせて言われたら、女装だろうが隊長のおまけだろうが、頑張ってやろうって思っちまった。笑われてもいいって。隣で、失笑するような踊りをクソ真面目に踊ってるのを見せられたら尚更だろ」
 ロボットダンスに呆気にとられて、笑うタイミングを失ったことに感謝した。たぶん、笑っていたらこの男にフリルのままぐーで殴られていただろう。イモどころではない痛みで。
 ティーにとって女装ダンスが素晴らしく輝くものであるように、兄さんにとってもあのぎこちないダンス未満の動きは、この上なく大切なものなのだ。それが一般的な尺度で見て美しいか否かは関係ない。不格好でもかまわないのだ。この二人に関して言えば。
「…バカ二人」
「何とでも言え」
 甘ったるいアイドルポップスよりもばかばかしい愛に苦笑しながらも、窓際に目を向ける。相変わらずぎこちない動きを繰り返しながら、それでも一生懸命ダンスの練習を続けているティーを眺め、思わず笑みが深まった。きっと彼の目には、スポットライトを浴びてひらりひらりとフリルを翻す兄さんの姿が映っているのだろう。振りにはない手拍子をぱちん、と鳴らしながら、眉間に皺を寄せながらそれでもなぜかうれしそうに見えるのは、そういうわけだ。