ティエリアはどうやら寒さに弱いようだった。気温の低い朝などは、彼の腕が体温をまさぐる感触で目が覚める。ぴったりと密着してくる身体を確かめながら、肌を苛む冷気に感謝する。冷え込みやすい辺境の家を選んで良かったとすら思う。食事の支度をする際の水の冷たさもこの体温には代えられない。
寒い、と彼は決して口には出さないが、いつも家の中で暖かい場所を探して迷子になっている。朝に限らず昼も夜も。そのせいだろうか。出会った頃、他人の体温に触れるたび身を竦ませていたのが嘘のように、肌と肌が触れあう機会が多くなった。
 普段は床に座るのを好む彼も、最近はさすがに毛足の長い絨毯の上で大人しくしている。それでもまだぬくもりが足りないのか、気がつくとこちらの背中や肩を背もたれにして本を読んでいたりする。最近買ってきたばかりの厚手の冬用カーディガンから、じんわりと伝わる熱が心地よい。
 そんな些細なことに幸せを感じたり、していた。冬という季節の素晴らしさに齢24にして、俺はようやく気づいたのだった。
 しかし――その矢先だった。ティエリアが通販で奴を買ってきたのは。
 それは東の経済特区で広く流通していた暖房器具だった。長時間当たっていても体温が上がらず、乾燥もし辛いものを、と探し出して購入したらしい。小さなテーブルには暖房器具がついており、表面の板から毛布が生えているという奇妙な外見だった。名前はこたつというらしい。しかしその可愛らしい響きと反して、これでなかなか凶悪な存在なのだ。
 奴を買ってからというものの、俺のささやかな幸せは見事に破壊されてしまった。ティエリアはすっかり奴に夢中になり、俺の方を見向きもしない。こたつの中から殆ど出ようとしないのだ。辛うじて食事と風呂、睡眠のときはしぶしぶながら出てくるが、それだって煩く繰り返さなければ動かない。就寝時刻は日々遅くなるし、昨日だって食事をここで食べる食べないで喧嘩になったばかりだ。
 カーディガンを羽織った薄い背中はもう見飽きたのだが、固定カメラの映像を見ているように先ほどからそれしか与えられない。整った卵形の輪郭や紅茶色の切れ長の瞳、形の良い薄い唇が恋しくなって正面に回ると、思いきり不機嫌な顔で睨まれた。
「ロックオン、邪魔だ。見えない」
 夕飯後から、数時間ぶりに聞いたティエリアの声だった。しかしそれを噛みしめる暇もない。飛んできたオレンジ(に似た東の経済特区の果物らしい。これも通販で購入したそうだ。)をすんでのところで避ける。橙色の弾丸はテレビのモニタに直撃し、映っていたニュースキャスターの顔を歪ませた。次のニュースです。イリノイ州でピーチパイの早食い大会が行われました。優勝者は地元出身のケヴィン・ホフマンさん。なんと記録は五分間ににじゅ、
 ぶちり。
 リモコンで強引に電源を落とすと、ティエリアの双眸に剣呑な光が宿った。つくりが丁寧なので妙な迫力を生むが、怯まずにこちらも睨み返す。しかしいまいち場の空気は緊張感に欠けてしまう。それもこれも奴のせいであり。
 にらみ合っていると、下から足先を蹴られる感触がする。それを避けようと足を浮かすと、テーブルに備え付けの暖房装置に触れて鋭い痛みが走った。思わず足を引っ込める。その拍子に毛布の隙間から冷気が入り込み、向かい側にいるティエリアが身を震わせた。奴に半日近く甘やかされていたせいで、不意打ちに弱いらしい。
 口の端をつり上げて毛布を持ち上げる。その奥にあった白い足が逃げを打とうとするのをすかさずつかみ取ると、向かい側の細い肩がびくりと大きく跳ねた。洗い物をしてきたばかりの手のひらに、暖房に溶かされた足先の熱が浸透する。その逆も然り。
「ン…っ」
 細い足指の輪郭をなぞるとくすぐったいのか息を詰める。拒否するように引かれる足首を強引に掴んで、素足の皮膚の薄い部分を撫で上げた。出会った頃に比べれば大分人肌に慣れたとは思うが、基本的に感覚が鋭敏なのだろう。少し触れ方を変えるだけで過剰と言えそうなほどの反応が返ってくるのが楽しい。
 足指の付け根の辺りをこしょこしょとくすぐると、ティエリアは顎をテーブルに埋めて身を小さくする。必死に耐えているような有様だった。細い見かけによらず力はそれなりにあるのだから、その気になれば俺の手など簡単に振り払えるだろう。それなのにされるがままになっている。そんなにこたつから出たくないのだろうか。
「かわいいなぁ」
 我ながら頭の悪い台詞だと思ったが、事実なのだから仕方がない。こんなに想っているのに、彼は俺よりもこたつが愛しくて仕方がないのだ。すこしだけ妬ける。そんなぬるい頭で更に素足を責める。ひぅ、と裏返った呼吸音がして、分厚いウールを被った肩が笑った。
 顔を伏せているため、どんな顔をしているのかまでは分からないが、それがかえって切迫感を伝えている。端正なつくりの顔も、身を縮こめる様も可愛いが、意地を張る様はもっと可愛い。もっと見ていたくて、指を止めることが出来なくなるくらい。
 のろのろともたげた頭の、こぼれる前髪の隙間から見える恨みがましい視線に笑いかける。それが相手の神経を余計に逆撫でするのだとも知っていた。それでも敢えてこの表情を選びとるくらいには、頭の中身はぬるかった。きっと足先からじんわりと温められる、この暖房器具のせいだ。このぬくもりは、頭をぼうと弛緩させる。ティエリアが夢中になるのも、今更ながら分かる気がした。
 しかし、それが凶器にもなりうるのだということを、次の瞬間に思い知る。
「…………ッ!!?」
 冷たく細い指が俺の足首を絡め取り、赤く腫れた部位を塗りつぶすように、再度暖房装置へと押し付けたのだった。
 じっくり十秒。世界で一番長い十秒だった。見かけによらず力のある細い腕が、必死の抵抗を試みる俺の素足を押さえつけていた。喉からにじみ出る意味をなさない濁った叫びを聞いて、ティエリアの薄い唇が歪む。彼はあまりに可愛くて、その苛烈さを時折忘れかけるからいけない。
 爪を立てるような優しさはもとより持ち合わせていない。初めからのど元に牙を沈めて喰い千切る。それが、ティエリア・アーデという存在だった。





 何が哀しくてこんな寒い日に足先に氷を宛わなければならないのか。きんと冷え切った足先が鋭い痛みだけを拾う。それが冷気による痛みなのか、火傷による痛みなのかも最早わからなかった。
 目の前でティエリアが不器用にオレンジ(の亜種)を剥いている。方法が分かっていないのか、剥くというより破るといった方が正しいような様子で、紙片のようにちぎれた皮が気の毒になった。相変わらずこたつの中から動こうとはしない。心地よさそうに細められた赤い瞳は、先ほどの鋭さ残酷さの片鱗を少しも残さない。しかしそれは確実に在るのだ。素足に残された特大の水ぶくれが証明している。
「淋しかったんだよ」
 剥くのに飽きたのか、中途半端なところで放置してテレビのスイッチを入れる。なんとこの高枝切りばさみに中型ばさみと、脚立も2個おつけします! お値段はなんと――、
「高いところが切れる…」
 俺の弁明をするっと無視して通販番組に夢中になっている。どうせ着く頃には飽きて箱も開けないか、開けても一度しか使わない癖に。揶揄したいが資金源は彼の口座なので、最終的には何も言えない。仕方なしに弁明を続ける。
「だってお前がこたつからすこっしも動かねえから…距離を感じたっていうか、ねえ、聞いてる? ティエリアー!?」
 携帯端末を取り出して申し込みを始める横顔に声を掛ける。商品番号を押して、送信した後に面倒そうに顔を上げた。そして何も答えず、黙って剥きかけの果物を指さした。意図が読めず、眉を寄せる。ティエリアは、芸の覚えの悪いペットに呆れるような目をしてから、これまたゆっくりと口を開いた。こたつの中にいる彼は、いつもよりも仕草が緩慢だ。じわじわとスポイルされていくのを客観的に見せつけられるのは、自分のやってきたことを突きつけられるようで胸が痛い。
「ナイフが無いから剥けない」
「…わーったよ」
 けれど、結局は皮を剥いてやる辺り、俺も学習していない。実際に剥いてみるとナイフなど必要ないほど薄く脆い。一体どう剥けばあんなぼろぼろになってしまうのだろうか。これもある意味才能といえる。
 ティエリアが、指先についた果汁を舐め取りながら、繊維も取れと注文をつけてきた。通販番組はロープを使って何でも切れるというナイフの実演販売を始めていた。見て下さいこの切り口、少ない力でこれだけのものが、
「何でも切れる…」
 純粋な瞳で画面を見つめる横顔を見て、そろそろ命の心配をした方がいいのかもしれない、と思う。果物を投げられているうちはまだいい。なにせもうすぐ凶器が二つほど届くのだから。