十四で家族を喪い、この国に渡って十年になる。幸い自分の技能を活かす仕事に就き、年齢の割には良い収入を得ている。軍人などという堅苦しい職業、とても向いているとは思わなかったのだが、この年齢この出自で少尉にまでなれたのだから、適性はあったのかもしれない。同僚や上司にも恵まれていて、本当に、素晴らしい環境で俺は生きていた。




 先日など、翌朝早くに出勤しなければならないと愚痴を零していたら、直属の上官であるグラハム・エーカー中尉が、自分の家に泊まっていけと行ってくれた。彼は俺が所属するMSWADの隊長で、その住まいは俺より遥かに基地に近い。
 まあ、俺の家が職場から遠いのは、さる事情から公園や緑が多い閑静な区画を望んでのことなのだが、この際は彼の言葉に甘えることにした。
「ご武運を」
 隊長は、俺と同じく早朝出勤のビリー・カタギリ技術顧問にも声をかけたが、彼はトレードマークの微笑を浮かべて断った。その彼が俺に小さく呟いた意味を俺が理解するのは、もう少し先の話だ。


 当然というか何というか、彼の家では酒を勧められたのだが、飲み過ぎて寝過ごしでもしたら意味がない。俺はそこそこで遠慮し、確か日付が変わって少ししたくらいで床についたと思う。
 そして翌朝、持参したシェーバーやら使い捨ての歯ブラシやらを持ってバスルームに行く途中、何やら鼻孔をくすぐるものを感じた。早朝の寝ぼけた頭では確信がないが、フレグランスが匂っているようだ。俺のものでも、彼が使うものでもない、甘いフローラル系の匂い。残り香。
 ―――まあ、あの人にもいるよな。
 金髪碧眼。少し幼さの目立つ精悍な顔立ち。加えてMSWADのエースという好条件。女が放っておくわけもない。苦笑しながらシェーバーを水に晒した。家主は貸すと言ってくれたが、こればかりは親しさや信頼とは別次元のマナーだ。
 身支度を終えて、俺が出かける時間になっても、寝室の隊長が起きる気配はなかった。彼の出勤時間にはまだ余裕があるが、オートロックとはいえ勝手に出て行くのは憚られ、俺はやや躊躇いがちにドアを叩く。
「隊長?」
 動く気配があり、返事があった。だがどうにもくぐもっていて、意思の疎通は困難だ。
「開けますよ?」
 なんで、俺は開けてしまったんだろうな。一応声はかけたのだから、ドアは開けずにメールの一通でも送っておけば良かったのに。日頃からなるべく直接、電子媒体を通さずにコミュニケーションを取ろうと心掛けているくせが災いしたのかもしれない。
 ドアを開けた俺が見たのは、グレーのシーツに映える白く滑らかな肌と、波打つ金髪をまとった美女の裸体だった。俯せにシーツから抜け出た、ウェストから脇までのラインがなまめかしい。豊かなバストから目を逸らしても、くっきりとシーツに浮かんだヒップラインが視線を捕らえる。伸べられた腕は劣らず白く、また鍛えられた肩に絡んでいた。
「ん、……ロックオンか?」
「……一晩お世話になりましたロックオン・ストラトス少尉、現時刻をもって出勤いたします」
 一息で言い切った俺はコートも着ずに、不貞を暴かれた間男のように慌だしく基地に向かった。出しうる限りの全速で。




「リアルタイムで聞いたりするよりは良かったんじゃないかな。ほら、声とか」
 事の次第を説明して最初に言われた言葉に絶望した。コーヒーを啜り朝食代わりのドーナツを摘みながら、優しく微笑みかける彼の眼鏡には、一体どれだけのフィルターがかかっているのだろう。
「普通、部下を泊めた隣りの部屋で……」
「君がまだ彼を普通だと思っていたことが僕には意外だよ。彼の特技は友人のパートナーと寝ることだって話は、」
「聞いてませんよ!」
「そう? でも事実だよ。被害者が証言してるから間違いない」
 混乱を極めた思考がフリーズする。俺の叫びは悲痛だったが、彼の言葉は酷薄だった。続けて鼓膜に入力されたグラハム・エーカー中尉の戦歴には言葉を失う。これからは俺を芋臭いアイリッシュと罵るジョシュアにも、優しくできそうな気さえした。
「……一度や二度はレイプしてんじゃないか、あの男」
「大丈夫だよ。事後承諾でも最終的には和姦だから」
 胸中で呟いたつもりだったが、声に出ていたらしい。やはり彼のリアクションに救われることなどなかったのが哀しいところだ。本当に哀しい。ああ、それにしてもシェーバーや歯ブラシを持参して本当に良かった。もはやそういうところにしか救いがない。
「カタギリさんは、平気なんですか」
「もういいんだ、彼がフラッグの中でセックスをするようなことがなければ、なんだって許すよ」
「俺にはそんな達観はできません……」
 頭を抱えて故郷を思った。意を決してバレンタインのカードを贈ったエレメンタリーの先生が懐かしい。あの頃に帰りたいと心から思う……のは、脳裏に再生された憧れの先生が、今朝見たブロンド美女に変換されたところで止めた。
「でも僕は嬉しいんだ。君のような理解者に会えて。ここにはなぜか彼の信奉者ばかりだったから」
 頭を抱えていた手をとられ、ぎゅうと握られる。手の体積と弾力を考慮された力加減で、痛くはない。手袋越しにやわやわと揉みしだかれる触感に、不吉すぎる警鐘が鳴り響いた。
 お父さん、お母さん。今俺は、無性にあの頃に帰りたいです。




「そんなに嫌なら辞めればいい」
「仕事上じゃ尊敬に足る相手なんだよ!でなければあんな奴!」
 だん、とテーブルを叩くと俺の紅茶とティエリアのココアが撥ねた。経済的に問題はないのに、と呟くティエリアは気にせずココアを口に運ぶ。仕方なく俺は台布巾を手繰り寄せてテーブルの木目から撥ねたココアと紅茶を拭き取った。
 そう、仕事において彼らは本当に素晴らしい。俺がこの年齢この出自で今の地位にいるのは、俺の長所を把握して狙撃ポイントを確保してくれる上司がいるからだし、長所を活かせるのは狙撃に特化したフラッグをチューンしてくれる技術顧問のおかげだ。
 戦場において隊長ほど頼もしい前衛もいない。カタギリさんほど信頼に足るメカニックもいない。彼らなしで戦場に出ながら生還し、あまつさえ武勲まで立てられると思うほど、俺は自惚れていない。
 そう、俺は素晴らしい上司に恵まれている。
 けれども、俺は絶対に同居人を彼らに引き合わせまい。カタギリさんが今日別れ際、俺に告げた言葉を思い出す。


「とられないコツは、見せないことだよ。もっとも、彼は君のことが大好きだから、いずれ気付くんじゃないかな」


 俺が入れたココアを無表情に啜る美貌の同居人を、俺は断固として守らなければならない。