ここ数週間、ひとりで食事をとることが多くなった。
 それでも、いつもなら合間を縫って彼が夕食を作り置いてくれ、空腹を感じたら暖めて食べるようにと言い含められるのだが、最近はその余裕もないのか、朝の慌ただしい時間に、悪いけどデリバリーで、と言い残されるだけだ。
 その朝だってトーストをかじりながら意識を失いかけてのどに詰まらせたり、ダイニングテーブルにコーヒーをこぼし着替えたばかりのジーンズを使いものにならなくしたり、とにかく彼らしくない行動に、本調子でないことはよくわかる。
 端末で会話をしたビリーも目の下に濃いクマを作っていたから、きっとあの基地全体が多忙なのだろう。このデータを検証してみて、と言って送りつけられたメールに、彼が好きなドーナツショップの地図が添付されてきたときはどうしたらいいのかわからなかった。
 とりあえず、あそこのドーナツの味は悪くない、とだけ返信しておく。今回は地図という他愛もないものだからよかったものの、疲労のあまりデータ流出のようなことをやらかさないものかと少し心配になった。
 ―――友人として忠告する。今日はもう寝るべきだ。
 それだけメッセージを送信してから端末の電源を切る。時間を見ればもう十時を回っていて、常ならばロックオンはとうに戻っているはずの時間だった。しかし家はしんと静まり返っていて、耳が疼きそうだ。ひとり家にいないだけで、こうも空気はつめたく重くなるものだと実感する。あと一時間もすればロックオンは戻ってくる。わかってはいても、さみしい。昔のように、混乱して痕跡を探して泣くといったことはなくなったが、それでもこの心にぽっかり穴が空くような気分には慣れない。
 二人掛けのソファに腰掛ける。無意識に横にひとり分のスペースをあけてしまう。肘掛けの部分にぴったりと身を寄せ、ぽつりと名前を呼んだ。
「…ロックオン」
 呼ぶ声が思った以上に部屋に響き、空虚感に耐えきれなくなって買い換えたばかりのテレビをつける。電器店の店頭に置かれていたそれの、高画質なデジタル映像に心を奪われてその場で購入した。その鮮明さを眺めていれば少しは気分が落ち着くだろうか。
 そう思って電源を入れたのに、思い出すのは、ちっとも違いなんてわからねえけど、と笑った彼の姿ばかりだった。その言葉を聞いたときは、万死に値すると思い、三日は口を利いてやるものかと思ったはずなのに、今は会いたくて仕方がない。朝、顔を見たばかりなのにどうしてこんなにも恋しいと思うのか、自分でもわけがわからなかった。
「まさに男の夢! 究極の癒し空間です」
 深くついたため息を、遮るように明朗な男のナレーションが部屋に響く。思わず画面を注視すると、電器店で見た通りの鮮やかな映像が飛び込んでくる。ソファから飛び降りていざりながら、食い入るように画面を見つめた。ナレーションが更に続ける。
「仕事に疲れたあなたも、すべて忘れて癒されること間違いなし!」
「これだ…!」
 無意識に、呟いていた。
 仕事に疲れきった彼を癒すには最適だ。さらにはこの空虚な気分も埋められるかもしれない。なにより、このソファとちょっとした道具さえあれば簡単にできそうなことも魅力的だった。
 思いついたら最高の手段のように思え、いそいそと救急箱を漁って準備をし始める。彼が戻る一時間に、完璧なまでの癒し空間を作り上げねばなるまい。
 彼が友人のように濃いクマを作らなくていいように、ジーンズにコーヒーをこぼしたり、トーストを落としたりしないように。疲れたパートナーを優しく慰撫するのも、僕の務めなのだ。寂しがっている暇などはない。
 以前は友人を癒そうとして失敗してしまったが、今度こそ成し遂げてみせる。ティエリア・ストラトスの名にかけて。
 手を動かせば、空虚な気持ちも忘れられるのだ。彼の帰宅を指折り数えて待つ必要もなくなる。それはきっと、いいことだろう。







 結局、自宅に戻ってこられたのは日付が変わってからだった。演習の時間が押して、報告書の提出が間に合わなかったのだ。明日でもいい、と隊長は言っていたが、明日に回していたら明日の仕事が回らなくなることは目に見えている。なによりこちらの判断で提出が遅れることで、カタギリさんたちの睡眠時間は更に削られるのだ。俺たちは自宅に戻れる時間に解放される分まだマシだと、彼らをみて思う。
「ただいま…」
 玄関のドアを開け、喉からでた声にも力がない。今にももつれてしまいそうな足をなんとか奮い立たせて、のろのろとリビングへと向かうが、よろけた拍子に壁に肩を強打した。骨にじわりと響く痛みに泣きたくなる。
 連日演習やらその合間の書類仕事やら検査やらに追いつめられ、そろそろ限界も近い。過労死、という言葉が頭をよぎり心臓が冷えた。妻子、というか妻兼子どもがいる身としてまだ死にたくはない。しかし、働いても働いても終わりの見えない今の状態では疲れがたまる一方だった。
 痛みの残る肩を押さえてため息をつき、再びリビングへと歩みを進めようとしたところで明かりがついていることに気がつく。この時間にリビングに彼がいるのは珍しい。彼が夜更かしをするときは、大抵自室の端末の前を陣取っていることが多いから。
 テレビを見ながらソファで眠ってしまったのだろうか。ティエリアの行動パターンをもとに推測しながら、リビングのドアを開ける。
 ―――その瞬間、鈍った頭が処理落ちした。
「ようやく帰ってきたか、ロックオン」
「…お前、なに、やってんの」
 見慣れたリビングのソファには、見慣れたティエリアがちょこんと座っていた。なぜか、隊長にプレゼントされたという特注の看護服を着て。
 カタギリさんの誕生日に色々あって我が家に来たこの服は、特に使い道があるわけでもなく、たまに夜のプレイの一環として俺がティエリアを言いくるめて着せるくらいだ。ゆえにティエリアが自分からこれを着ることは滅多にない。そして着るときは、大抵ろくなことがない。
 その格好がマニア向けである自覚も全くないくせに、相変わらず適度に肉の付いた足を包むストッキングまで完璧だ。ガーターベルトも付属でプレゼントしてくれた隊長には心より感謝する。短めのタイトスカートからのぞく膝のまるみに妙なときめきを覚えながらも、明日も残業だということを思い出し、理性を総動員させる。
 しかし、そんな俺の努力を鼻で笑うように。
「さあ来い、ロックオン」
 まるでブシかサムライのような勇ましさで、ティエリアが自分の太股をぺちりと叩いた。俺は所詮俗物なので、叩いた反動で白い太股がふるりと揺れたところまでばっちり見入ってしまっていた。しかし持て余す欲とは裏腹に、その行為の意味がわからず、来いと言われてもどこへ、と問わずにはいられない。
 立ち往生していると、じれたティエリアが眉間にしわを一本刻みながら、しぶしぶと言った様子で補足した。
「横になれと言っている」
「…そのソファに? 俺が?」
 唐突な据え膳に戸惑いながらも、身体はいそいそとソファに近づいていく。真意はよくわからないがティエリアの白い太股は疲れた俺にはひどく魅力的だった。本人がこの服を癒しのプロフェッショナルの制服だと言っていたことを思い出す。今だけは彼の勘違いをうれしく思った。
「おじゃまします…」
 高鳴る胸を押さえておそるおそる太股に頭を乗せる。基本的にどこも肉の薄いティエリアだが、この部位だけはやわらかく心地よい。まさに至福といえる感覚に、思わずため息をついた。できることならほおずりをして匂いをかいで更に堪能したいところだが、それはさすがに変態臭いのでやめておく。
「癒されるか、ロックオン」
「最高だ…ありがとな」
 くりくりと俺の毛先を指でもてあそんでいたティエリアに礼を言うと、薄い唇が満足そうに笑みをかたどる。その慈愛さえ含まれそうな笑い方に、今ならば匂いをかいでも許されるのではないかと思ってしまう。
 頭を傾けてこちらをのぞき込むティエリアを見ようとするが、強い力で押し戻されて前にあるテレビをあてがわれる。膝枕の上で見つめあうのはロマンだろう、と少し残念に思っていると、更にティエリアは言葉を重ねた。
「僕が、更にあなたを癒してみせよう」
「…え?」
「痛くはしない。力を抜くといい」
 まるでいつか俺が口にした言葉のようで、嫌な予感が胸をよぎる。そういう予感はたいがい当たるのだと、ティエリアとの短いが薄くはないつきあいの中で重々承知していた。
 ―――次の瞬間。
 さくり、とためらいなく耳の奥まで刺さる感触。激痛。俺、絶叫。
「思ったよりとれないな…」
 俺の耳を貫く綿棒は中耳をまんべんなく抉った後、更に奥へと歩みを進めていく。これが世間一般で耳掃除、と呼ばれるものだとはとても認めたくなかった。耳を乱暴に陵辱していく綿棒を振り払おうと頭を振るが、ティエリアの手ががっちりと固定していてかなわない。
「痛い痛いティエリア痛い」
「おとなしくしていろ。徹底的にやらせてもらう」
 女装しているにも関わらず、ティエリアの口調はやたら男らしい。どうやら俺の乾いて粘膜にはりつく頑固な耳垢が、彼の掃除魂に火をつけてしまったようだ。ぐりぐりと乱暴に粘膜を荒らされて思わず声をあげる。
「ひぎいいいっ」
 もはや柔らかい太股の感触すらわからなくなっていた。
 あまりの痛みに、奥はらめえええ、突くのらめえええ!と三流ポルノのようなことを叫んでいた気がする。俺の膜がかろうじて純潔を保てたことだけは救われた。
 貫かれる側の痛みがよくわかったので、夜はティエリアにもう少し優しくしようと思った。
 そういう意味ではなく、きっと心からの善意で、俺の耳を貫いたから、この子はどうしようもないのだが。
 彼が、癒しのプロフェッショナルになる日はまだ遠いようだった。