昨日、ティエリアと喧嘩をした。
 きっかけは些細なことだったように思う。単なる意見の行き違いから始まった筈が、ひどい口論になり、平行線をたどったまま寝室に鍵をかけられてしまった。
 渋々居間のソファで一晩を過ごすはめになったのだが、目覚めた途端、あちこち身体が痛くて思わずため息を吐いた。以前、ここを寝床にしていた我が弟を尊敬したくなるほど寝にくい。
 一人で寝たというのに、あちこち身体が痛い。しかも眠りが深くなかったせいか、寝不足で頭がぼんやりしている。折角の休日なのだから、しつこく惰眠をむさぼろうかと目を伏せてみるが、窓から差し込む朝日がじわじわと瞼を灼くせいで、それも敵わなかった。
 仕方なくのろのろと身体を起こし、睡眠欲も性欲も満たされないならせめて食欲を満たそうと、冷蔵庫を開ける。ベーコン数枚に、卵、野菜も少し残っている。適当な朝食を作り、腹を満たしてついでに匂いに釣られてティエリアが出てきたりしないか、なんて、淡い期待を抱きつつ、最後にパンが入っている戸棚を開いた。
「…あれ?」
 昨日、買っておいたフランスパンがあった筈なのに。固くてすかすかしているから嫌だ、と主張し続けるティエリアをさらりと無視して、まるまる一本持ち帰った。棚に押し込むのにサイズが合わず、少し苦労したから覚えている。確かに買ったはずだ。
「おっかしいな…」
 棚の中に頭を突っ込んで探すが、フランスパンは影も形もない。もしかして食べられたのかと思うが、あんなに買うのを渋っていたティエリアが、一晩で完食する筈もない。食べたくなくてどこかに隠したのだろうか。
 まさかそんな、子どもみたいなこと、と頭を振るが、一方で、暑いと言っては冷房の温度を極限まで下げ、そのくせ部屋の中央で毛布にくるまってぶるぶると震えていたり、体脂肪率が軍属の俺よりも低いくせに「なんだか格好よさそうだった」という理由だけで通販のダイエットマシーンを見境なく購入しては三日で飽きて放り出したり、という彼の所業を思い出すと、あながち笑ってばかりでもいられなくなる。
 まぁ何にせよ、このまま冷戦状態を続けるわけにもいかない。なんでもいいから話すきっかけが欲しいのもあり、空腹を抱えたまま寝室に向かった。
「ティエリア、寝てるのか?」
 固く閉ざされた寝室のドアを叩き、声をかける。その向こうには確かに人の気配があり、ほっと息を吐き出した。
 なんとなく切り出すのも気まずいくだらなさにためらって、口にしかけたフランスパンの件をぎりぎりで飲み込む。代わりになる言葉をしばらく模索し、結局口から出たのは無難としか言いようのない話題だった。
「いつまでも寝てねえで、メシ、食おうぜ」
「…いらない。腹は減っていない」
 小さく答えが返ってきて、目を見開いた。そんなに俺と顔を合わせたくないのだろうか。何度目か分からないため息を吐き出し、気まずさに耐えながらも更に言葉を重ねた。
「そんなこと言わずにさ。もう二人分作っちまったし…」
 勿論嘘だった。先程、冷蔵庫の中身を確認しただけだ。しかしここで引き下がってしまっては、せっかくの休日を気まずい思いで過ごすはめになる。それだけは避けたかった。
「…朝食の、パンは?」
「ああ、それなんだけどさ、」
 言葉を続ける前に唐突に部屋のロックが解除された。そして、もたもたとドアが開かれ、その隙間から赤い瞳が覗く。ドアを開けているというよりは、もたれかかっているという方が正しいような重たい開け方だ。何故あんなことをしているのか不可解だが、その鈍い所作が見ていられなくて、代わりにドアを開けてやる。すると、突然支えを失った身体が急にぐらりと傾いた。
「、ッ…!」
「危ねえ!」
 思わず手を伸ばし、身体を支えてやる。ティエリアの身体がすっぽりと腕におさまり、ほっと息を吐き出した。
 しかしティエリアは腕の中で息をのみ、身じろぎをした。あからさまに動揺している有様を怪訝に思い、視線の先を追うと―――そこには、棚から消えた筈のフランスパンが無残にちぎれて転がっていた。彼が手を使ってドアを開かなかったのは、きっとあれを持っていたからだ。
 何故、棚にあったはずのフランスパンが床に転がっているのだろうか。理解できず、朝日に照らされて、フローリングの上で淡い影を作っているパンと、ティエリアをじっと見比べる。
 ティエリアはいたずらが見つかった子どものように、ばつが悪そうに目を逸らした。そして、小さな声で呟く。
「今日の僕の、朝ご飯だ」
「……フランスパン、すかすかして不味いんじゃなかったっけ?」
 パンを買うときに散々言われた言葉を反芻し、口にしてやると、ティエリアはぐっと唇を噛んだ。カロリービスケットのみの食事は基本的に禁じているものの、彼が自室に食事を持ち込むことがないわけではない。
 今はあまりないが、チャットやデイトレード、オークションに夢中になっているとき、ほとんど要塞となった彼の私室に食事を持ち込んでやったこともある。
 しかし、それらと今のフランスパンは全く性質が異なる。まだカロリービスケットを朝食にする方が健全だ。俺はフランスパンが好きな方だが、それでもまるまる一本食べ続けろと言われれば断固拒否する。最初の三分の一で飽きるだろうし、喉に詰まらせてしまいそうだ。
 実際、床に転がったフランスパンは四分の一も減っていない。しかも、あちらこちらにかじった痕がある。見るも無惨にレイプされたフランスパンは、少しでもやわらかく、食べやすいところを探す努力の跡が見えてなんだか涙が出そうだった。
 ティエリアは俺の目を見ないままフランスパンを睨みつけた後、ようやく聞き取れるか否かの低い声で言葉を口にした。
「…むしゃくしゃしてたんだ」
 そう言うティエリアの口の端に、パンの滓がついていたのを見つけて黙ってぬぐってやる。よく見れば襟や腹の辺りにまでパンくずがぽろぽろとついていて、彼の不器用さに少し笑った。
「やけ食いなんて、珍しいな」
 そもそも、食に興味の薄そうなティエリアが、やけ食いというストレス解消法を知っていたことに驚いた。その対象に特に好きでもなさそうなフランスパンを選ぶズレ方が彼らしいとは思うが。
「最悪だった。固いし、すかすかしているし、滓は落ちてくるし…」
「俺の朝ご飯もなくなるし」
 胸についたくずを払ってやりながら続けると、相手がぐっと押し黙る。食事を奪った罪悪感が少しはあるらしい。少し動揺した有様がおかしくて、笑みを深めると、不満そうに唇をとがらせてみせた。やはりパンがついているせいで、あまり迫力はなかったけれど。
「…テーブルで、食事がしたい」
「パンはないけど許してくれよ」
 彼の静かな停戦要求に頭を撫でて応えてみせた。あちこちについているパンくずを払った後、床に落ちたフランスパンを回収する。二人でのろのろと居間に向かうと、眩しい朝日が瞳を灼いた。
 眠るのも、食事も、たぶんひとりよりは二人でする方がいいのだ。少なくとも、俺たちに限っては。