「ティエリア、俺は淋しいよ」
 切実な声は、皮肉なことに切実であればあるほど届きにくい。どんなに心を込めても、それが無碍に振り切られた時には同じだけの虚しさと痛みが返ってくるのだ。ティエリアはキーボードを叩くのに似た音を立てて、俺の心を冷たく弾いた。その音と共に、ホロモニターには凄まじい勢いで文字が並んでいく。
 それがプログラムでも論文の類でもなく、チャットだと言うから、すでに俺の干渉可能域どころか想像の域すら絶していた。相手が彼の唯一の友人だということは先刻確認済みだ。
 電話じゃだめなのか? と尋ねたことがあったが、「音声では添付ファイルが送れない。リンクも貼れない」という回答だった。専門的、学術的な討論をするなら、文字媒体が最適なのだと言うが、生憎俺には理解不能だった。そこに並ぶ文書の読解すらも。
「ティエリア、そろそろ寝よう。な?」
 そろそろと後ろから手を伸ばし、小さな尖り気味の肩に触れる。指先から掌へとその丸みを滑らせ、包むように懐柔を試みて―――払われた。虫でも払うかのように冷たくぞんざいな手つきだった。
「今のはちょっと傷ついたー」
 返答? 無論、ない。
 酷い話だ。俺が本やテレビに夢中になっていると、その間に形の良い頭を入り込ませて俺の意識を全部虜にして、中断を余儀なくさせるくせに。
 しかしこれ以上の干渉はティエリアを怒らせることも俺は経験上知っている。以前、深夜二時を過ぎてもパソコンから離れなかったときに、強制的に電源を落としたことがあった。電子情報など、ハード面から叩き斬ってやれば手も足も出ない、とは隊長の受け売りだ。彼の言う親友たる技術顧問にもっとも効果的な自己アピールなのだそうだ。
 結果は成功と言えなくもないかも知れなくもない。ティエリアは俺に全注意力を向け、そして三日間口を利いてくれなくなった。あんなのは二度とごめんだ。溜め息を一つ吐いて、俺は諦めることにした。それ以外に為す術はない。叶うものならハイテクの一切ない無人島にでもティエリアを攫って行きたいものだと、時々本気で思う。
「先に寝るぞー」
 リアクションを期待するような未練たらしい気持ちをてんこ盛りにしたが、もちろん反応はない。ちょっと泣きたくなりながら、俺はティエリアのホビールームから寝室へと引き上げた。この小さな部屋をティエリアに与えたのが、そもそもの失敗だったかもしれない。






 セミダブルのベッドは、俺の体格から言えば決して広すぎるはずもないのだが、酷く広く空虚で寒々しく感じた。習慣で、半分のスペースを空けて横になるが、睡魔はこんな時にはなかなか訪れてくれないものだ。暗がりの中、手を伸ばしてもう半分のスペースを撫でてみる。返ってくるのは糊の取れた柔らかな、けれども冷たいシーツの感触ばかりだ。
 諦めの溜め息をまた一つ、独りきりの寝室に吐き出してから空虚に背を向けて伏せた。ティエリアはよく俺をずるいと詰るが、俺からしてみればティエリアだって相当のものだ。一ミリの隙間も一秒の時間も疎んじて、病的なまでに俺を離すまいとするくせに、こんな時には俺が触れることも許してくれない。彼はいつだって自分の淋しさを埋めるのに必死だ。それに使うのが俺か趣味かは気まぐれで選ぶ。


 ―――ああ、そうか。


 暗闇の中、一人きりで二人のベッドで俺は気づいた。俺が感じている理不尽と淋しさは、ティエリアは俺が不在のとき抱えているそれなのだ。身勝手な話だが、ティエリアが淋しいと言って泣く度に、俺はささやかな優越感と喜びと、無限の愛情を抱いており、その淋しさを共感あるいは理解したことはない。きっと、ただの一度も。
 今この時感じている想いでさえも、きっとティエリアのそれとは異なるのだ。
 暗闇の中、一人きりのベッドは俺が思っていたよりも遙かに重く冷たく、淋しかった。


 だから、廊下に響く足音が聞こえたときには、罪悪感と淋しさがないまぜになって沈みきっていた俺の心臓は飛び跳ねた。淋しいから抱きしめたいし、抱きしめてもらいたい。でもそれを今さら求めるのはあまりに我儘だと、今さら思う。
 ベッドに身を縮めている俺に、躊躇している暇などなかった。ティエリアは柔らかい足音と共にベッドに近づく。そこに何の疑念も躊躇も拒絶もない。そう、何もかも今さらだったのだ。
 体温が移って温くなった毛布を跳ね上げると、ティエリアが息を呑むのがわかった。翻った毛布の陰から、暗がりの中でも目立つ白い肌と見開かれた目が見える。そこに俺は手を伸ばし、咄嗟に腰のあたりに持ち上がっていた腕を掴んで一気に引っ張った。ティエリアの軽い身体は簡単に俺の腕の中に収まって、自分がどこにいるのかを理解すれば抵抗もしなかった。ティエリアを上に、俺はごろんと天井を仰いだ。まだ少し、淋しい。
 そんな弱音だらけの俺の耳に、くすくすと笑い声が聞こえてきたときには、見透かされているのかと思った。
「ティエリア?」
 枕から頭を持ち上げると、ティエリアの嘲笑というには柔らかすぎる微笑とかち合う。
「ふふ、」
 吐息を洩らすような笑い声が、俺の唇に吹きかかった。胸の辺りで畳まれていた腕が伸びて、俺の前髪を優しくよける。かすかな触れ方がこそばゆく、ぴくりと動いた俺の眉に、身を乗り出したティエリアの唇が触れた。俺の淋しさや躊躇や弱さなどどこ吹く風とばかりに、ティエリアは上機嫌のようだ。そんなにチャットは楽しかったのだろうか。
 少し悔しくて拗ねたくて、唇のすぐ上にあった頬に吸いついた。唇を押しつけて吸ったあと、口元に引き寄せた肌に軽く歯を立てる。そんなに豊かな頬ではないので、滑らかな肌はするりと歯の間を滑ってしまった。それがまた悔しくて淋しくて、今度は音を立てて幾度も幾度もキスを打ち上げる。唇が離れる度にティエリアはくすぐったそうに顔を動かすので、頬骨の上、鼻の脇、目元、唇の端と、顔中にキスをした。ティエリアのかすかな笑い声と、唇の吸着音と、衣擦れが寝室に響く。
 そんなシチュエーションでは、俺の躊躇など障害にも歯止めにもならない。くすぐったさに身を捩ったティエリアの太腿が俺の腰の辺りでうねり、硬くなった中心を挟み込んだ。シャレにならない俺の反応に、ティエリアもシャレにならない応じ方をする。肉体的な愉悦やテンションの上下には不慣れだったが、知性豊かな彼は学習能力も高く、無垢な少年は熟達した妖艶な仕草も見せるようになっていた。ああ、困ったものだ。本当に何もかもが今さらなのだけれど。
 キスは続けた。このまま子どものじゃれあいのような雰囲気でいたかった。いつの間にかティエリアの身体は俺に組み敷かれ、枕に広がった乱れ髪の中でティエリアはまだくすぐったそうに笑っている。まるで弄ばれているように振る舞っているが、毛布の下で俺の腰回りを寛げる手は、無邪気に笑うティエリアのものだった。どうやら俺の意図は正しく受信されているらしい。
 キスを頬から顎の先、そして咽喉元へと移す。暗がりでも器用な俺の指先は、唇に先立ってティエリアのシャツのボタンを上から順に外していた。滞ることなく滑るキスは音を立てて、けれども痕をつけない浅いそれは刺激としては弱く、無視するには強い。すでに反応していた胸の先端がそれを如実に物語っていた。そこを同じように軽く吸って音を立てながら、シャツを肌蹴た指先をティエリアの中心へと持っていく。
「く、はは、」
 臍の回りや、浮き出た肋骨の隙間にキスを送ると、ティエリアは本気でくすぐったいのか一層強く身を捩った。眼尻に涙まで浮かべているが、笑っている顔には余裕が見える。それを突き崩してやろう、などという嗜虐心がないとは言えない。下着ごとズボンを引き下ろし、緩く立ち上がったそこを咥えこんだとき、顔の両側でつっ張った白い内股に口の端がつり上がった。滑らかに張ったそれを腕で抱え込むように引き寄せ、中心を咥えたまま頬を当てる。肉づきの薄い身体だが、指先に少し力を込めると浅くたわんだ。
 すると突然、抱えていた足が暴れだし、指を内側に折り曲げた爪先が宙を掻く。その勢いで踵が背中をどんと叩いた。視線を上げると、赤い瞳が怨みを込めて俺を睨み、それでティエリアへのサービスが疎かになっていたのだと気づく。膨らんだそこからは俺の涎とティエリアの先走りがだらだらと溢れていた。零れそうになるのを反射的に啜う。
「ひぁっ、」
 粘膜に包まれていたまま放置されていたそれが、突然の刺激に弾けてしまうのは無理もない。口の中に溢れていた唾液と混じって薄まっていた所為で、大して苦もなくするりと咽喉を通るそれを、俺はそのまま嚥下した。まさか太腿の感触に夢中で忘れていた、なんて言うわけにもいかない。
「っきまで、」
「へ?」
 無邪気に笑っていた声は、熱っぽい吐息まじりの艶のあるそれに変わっていた。一方で上々だったご機嫌は一変、うっすら涙の滲んだ瞳で思いっきり睨まれる。
「さっきまで、拗ねてたくせに」
 俺が声も出せずにいると、肩の上に乗っていた足を下ろし、今度は脇の下から入り込んで腰に絡ませた。そのまま引き上げられ、胸と胸が重なる。
「……ばれてた?」
「俺が、気づかないと、思われていたことが、屈辱だ」
 肩で息をしながら見上げてくるティエリアは、厳しい表情を崩して笑った。不敵な形に唇がつり上がり、濃さを増した赤い瞳が熱を送り込んでくる。
 やはり手遅れだ。今さらだ。互いの抱える淋しさを理解や共感は出来なくても、気づけるくらいには傍にいた。淋しさを埋められるくらいには傍にいたし、彼がいれば淋しくないと思うくらい好きで、彼がいなければ淋しいと思うくらい愛していた。
「そいつは失礼しました」
 お詫びのキスを、本当は唇にしたかったが、まだ舌の根に粘ついた感覚が残っていたので頬にしてから、開いて折り曲げられたままの足の間にそろりと手を伸ばす。心得たティエリアが爪先で身体を支えてわずかに腰を浮かした。その隙間からしなやかな背筋の中心に中指を当て、そのまま下へと引いていく。中指が尾てい骨を捉え、滑らかな弾力の谷間の奥でその入口を探った。
「あ……」
 指先でくるりと入口の円を描くと、抱き込んだ腰が震えてか細い声が漏れた。クライマックスも良いが、こういう瞬間が一番可愛いと思う。そのままゆるゆると浅く刺激してやれば、快楽とじれったさに表情はもっとしどけなく、肢体はぐずった。
「ロックオン、もう、」
「だめ。もうちょっと」
 互いの中心はさっきから何度もぶつかっている。先走りで濡れたそれがぬるりと擦れる度に、ティエリアは泣きそうな顔で懇願した。俺とて早く、と思わないではないが、無防備に仰向けて与えられることを待っているティエリアを、もう少しだけみていたい。何しろ、俺はさっきまで恋人に構ってもらえずに拗ねていた男なのだ。
「ずるい、」
「ティエリアだって」
 詰る声はお互い様だ。つらいのも、淋しいのも。その原因は互いにあって、けれども互いに理解はできない。けれども多分それでもいい。淋しさが埋まれば、二人の間には何もない。距離はゼロだ。
「んんっ」
 ティエリアの片足を持ち上げて肩に担ぎ、もう一方の足はまっすぐシーツの上に伸ばす。ティエリアは意外と柔軟性が高く、縦に開くようにしてゴムに包まれた先端が押し入っても、痛みを訴えてくることはなかった。担いだ足を抱え込むようにして小刻みに腰を揺らすと、同じリズムで声が漏れるのが嬉しい。
「あ、ああ、んっ、ん」
 勢いでベッドに引きずり込んだ割に、俺は勢いだけでことを進める気分じゃなかった。もっとじっくり、いくらでもこの顔を見ていたいと思う。モニターに向かっている時の怜悧な表情とはかけ離れた、俺しか知らないティエリアの顔だった。
 しかし、やや緩い刺激の繰り返しでは、一度達したティエリアの方は苦しいばかりだろう。震えて濡れそぼっているそれに掌を当て、指を折り曲げてしっかりと包むように握り込む。腰の動きに合わせて指の輪を上下させてやれば、同じリズムを刻む声は一層高くなった。
 俺を締めつける力もそれに合わせて収縮する。いい。これならきっと。
「ああ、ひっ、あああっ」
 ティエリアが腰を大きく、自分の意思によらず震わせたとき、俺の下半身も俺の制御下を遠く離れた領域に達した。二度三度、続けて放たれる熱が窮屈なゴムの中で暴れまわる。身体から離れた熱が維持されるのは一瞬で、薄いゴムの中でさえ、それは例外ではなかった。自身にまとわりつくのは、ほんの少し前までその中で燻っていたものなのに、もう生温くて他所のものという印象を受ける。
「んー、」
 倦怠感を堪えながら引き抜き、根元に指を引っ掛けてゴムを外した。枕元に完備しているティッシュを数枚まとめて取り、こぼさないよう口を縛ったそれを包んでダストボックスに丸めて捨てる。この手間がなければ最高なのにと思うが、薬品の類でどうにかなる問題でもないし、ティエリアに薬を服用させるのもごめんだった。これくらいは仕方ない。
「もう、淋しくないか?」
「え?」
 ティエリアはセックスの後はなるべく身体を洗いたがる。だが今回はその素振りも見せずにベッドに伏せていたので、とりあえず濡れた下肢を拭っていたら、声と微笑がかけられた。意図も意味もわからず聞き返すと、ティエリアは仰向けに枕に広げていた髪をひるがえして、枕に肘をついて状態を起こした。
「淋しいと言っていた。さっき、パソコンルームで。もう淋しくないか?」
「あ、ああ」
「もう、傷ついてないな?」
「ああ」
 賢いティエリアは俺の言葉を一々拾っていたらしい。事務的な、項目を埋めていくような質問はその拙さと幼さを露呈して、俺はいつもティエリアのそういう要素に罪悪感やそれに類する感情を抱くのだが、今回はそれにこそ救われた。質問を一つされるごとに、確かめるように埋まっていく。
「もう拗ねていないな?」
 淋しさは埋まるのだ。刹那的で強烈な接触で。あるいは時間で。ティエリアの確認事項のように、一つ一つ埋めていけばいい。その為の時間は、すでに約束されている。回答を促す大きな瞳に、俺は満面の笑みを浮かべて答えた。
「ああ、最高だ」
 答えと共に、手に持っていたティッシュの塊をダストボックスに放り投げる。白く歪な塊は緩い軌道を描いて、ダストボックスに収まった。隙間を埋めるように。