辛いときの夢を見るのと、幸せだった頃を夢で見るのはどちらが辛いのだろうか。

 酔っぱらってフローリングに倒れ込んだ弟の顔を眺めながら、ふとそんなことを思う。ライルは酒癖があまり良くなく、酔っぱらって床で爆睡ということがままある。この前ティエリアに股間を踏まれて絶叫したこともあるというのに、未だ学習しないらしい。
 しばらく悶絶していたライルの横で、不思議そうに立っているティエリアになんとなく感想を聞いてみたら「ふにっとした」そうだ。そのときはライルに心底同情したが、床で寝息を立てている弟をみるとやはり呆れが先に立つ。
 ため息をついて毛布をかけてやろうとしたときだった。目尻に浮かぶ涙と、小さな声でつぶやかれた妹の名前に気がついたのは。それしか言葉を知らないように、ごめんなさい、と何度も謝りながら涙を流す弟を眺めていると、なんとなく離れがたく、哀れにもなって、床に転がっている弟の頭を膝に乗せる。ティエリア以外に膝枕をしてやるなんて初めてだ。男の膝枕なんてうれしくも何ともないとは思うが。
 そっと目尻に手をやって拭ってやっても、じわりとまた涙があふれでる。それをぼんやりと見ているうちに、そういえばもうすぐ11年目になるのだと、気がついた。
「……長いなぁ」
 低くつぶやいたのと、ライルが瞼を押し上げてとろんとした目で俺を見返したのは同時だった。目を開けた拍子に大粒の涙が流れた。それに気がついたのか、同じ色をした瞳が大きく見開かれる。涙がたどったあたりを指でなぞりながら、深くため息をついてつぶやいた。
「兄さんの膝で目覚めるなんて…」
「なんだその絶望的な目は」
 悪かったな、と小さく呟くと、相手がそろそろと身を起こした。ふわりとアルコールの臭気が鼻孔をくすぐる。まだ酒は抜けきっていないようだった。
 なんとなく涙の理由には触れづらく、その代わり、強引に笑みをかたどり茶化すように声をかける。
「こんなところで寝てると、またティエリアに踏まれるぞ」
 俺の声に振り返るライルの目はまだ据わっている。寝起きだからか、まだ酔っているのか、おそらく両方だろう。乱暴にばりばりと頭を掻いた後、自分でジーンズの胴回りを引っ張り、その中身を確認する。突然の弟の所作に軽く驚いていると、彼は大まじめな顔で俺に応えた。
「大丈夫。キンタマケースつけてる」
「…守ってるのか」
「おうともよ」
 ライルが胴回りを引いたまま、こちらに見せようとするのを丁重にお断りして背を向ける。黙って二人分のコーヒーをコーヒーメーカーで淹れてやると、泡沫のはじける音に混じり、低い声で相手が呟いた。子どもみたいにフローリングの上でごろりと丸くなっているのを、咎めるべきか少し迷う。
「エイミーに、怒られた」
「………そっか」
「私たちを忘れて、お兄ちゃんたちばっかり幸せで……ずるいって」
「そっか」
「もう、11年目になんだな」
「…ああ」
 彼の哀しみと淋しさのこもった声音に胸が痛む。改めて口に出してみると、遥か遠く昔の出来事としか思えなかった。こうして、夢にまで出るほどに鮮明な筈、なのに。
 引き金を引き、敵を討った。出来事自体は偶然に近いものだったとはいえ、生きている俺たちが、それ以上にしてやれることなど何もない。
 ライルにアリー・アル・サーシェスのことを話したとき、彼は表情ひとつ変えずに、そうか、とだけ呟いた。さして動揺していない彼の横顔をみて、軍人でもテロリストでもない、一般市民なんてこんなものかと思い、すぐに思ってしまった自分を恥じた。目の前で涙しているライルの感情と、引き金を引いたときの俺の感情の、どちらが重いかなんて考えるだけ無駄なのだ。
 落ちきって、音のやんだメーカーからマグカップへとコーヒーを移す。元々ティエリアがコーヒーを飲まないため、しばらくの間埃をかぶっていたのだが、ライルが来てからは二人でコーヒーを飲むのが習慣になりつつあった。そんな俺たちが羨ましいのか、最近はティエリアまでミルクと砂糖をたっぷり入れ、ちびちびとコーヒーを嘗めるようになった。その横顔に、死んでしまった妹の姿を見るときもあった。あの子もいつも、双子の俺たちを羨んで、同じようにしようとしていたから。
「ずるい、って言われてもなぁ…」
 マグカップを口元に運びながら、ライルがちいさく呟いた。俺はそれに苦笑することしかできず、こちらも黙ってコーヒーを舌で転がしていた。
「………」
 そうして、お互いに黙り込んでしまったせいで空気が重たくなる。しまった、と内心で思ったとき、ライルが場違いなほど明るい笑顔でマグカップを置き、戸棚をおもむろに漁り始めた。
 何事かと視線で伺うと、いつの間に買い揃えたのだろう、そこにはビールやワインをはじめ、シャンパンや、ユニオンでは滅多に見ることもない異国の文字が印刷されたラベルの瓶まで、ありとあらゆる種類の酒が並べられていた。その種類に俺が圧倒されているうちに、ライルはその中の一本を手に取り、乱暴にテーブルに置く。
 ガシャンという音と、ライルの笑い顔に目を見開いていると、グラスを出すのも面倒だったのだろうか、なぜかその場にあったマグカップに瓶の中身を注ぎ始めた。その有様を見て、彼がまだ酔いから醒めていないことを知る。
「ライル、もうそろそろ…」
「飲もうぜ、兄さん。飲むしかねえ!」
「は?」
 目を丸くしているこちらにマグカップを突き出した後、自分もまたコーヒーの入っていたカップをあおる。さきほどまでの重苦しい空気を振り切らんばかりの、強引な所作に圧倒された。
 一気にマグカップの半分ほどを胃に流し込み、気持ちよさそうに息をつく弟を眺めて、こちらもついカップに手が伸びる。ちびちびとカップの端を嘗めていると、不意にカップが乱暴に捕まれ、傾けられて強引に流し込まれた。あはは、と愉快そうに笑う弟の横顔を見て、安心したような、哀しいような複雑な気持ちになる。けれど、それはきっと相手も同じだろう。
 夕飯が終わった後、父さんがテーブルで美味しそうに酒を飲んでいる姿が羨ましかった。ライルと二人でねだったら、いい香りのする紅茶を淹れてもらい、二人で揃いのティーカップで少しずつ飲んだ。何度思い出したか分からないその光景を、また反芻して胸がちくりと痛む。けれど笑った。笑い続けた。色々な感情を伴う痛みを、塗りつぶすように笑った。





 妙な時間に目覚めてしまった。
 そもそも、前の日の晩ろくに眠れなかったのがいけない。久しぶりにライルがいないからといってロックオンはいつまでも続けたがるし、こちらが眠い疲れたと訴えても、しつこく弱いところに触れて強引に感覚を引きずり出す。
 そういうことを何度もやられたせいで、身体は一晩経ってもぐったりと疲れきっていて、朝食に起こされてもまたベッドにもぐってしまった。一応目覚めてからも活動する気になれず、ベッドの中でノート型の端末に向かって一日を過ごしていた。何度かうたた寝を繰り返して、気がついたら日付も変わってしまった。いっそ朝まで眠ってしまおうかと何度か試みたが、短い眠りを何度も繰り返していたせいで、うまく寝付けなかった。
「無駄な一日を過ごしてしまった…」
 ちいさく欠伸をしてから、もぞもぞとベッドから這い出る。服を着るのも面倒で、その辺りに転がっていたシャツを羽織っていただけだったのだが、起きあがって初めて着ているものがロックオンのものだと気づいた。裾が余るし、丈も長い。一応袖口に鼻先を埋めてみるが、一日着て過ごしたせいで自分の匂いしかしなかった。
「…なんだ」
 小さく呟いてから、期待した自分を恥じる。誰に聞かれたわけでもないのだが、ごまかすように前のボタンを閉めた。そして、昨晩脱がされてベッドのそばに丸一日放置されていた、哀れな下着とスラックスに足を通す。ロックオンに見つかったらクローゼットから新しいものを取り出せと怒られそうだ。
「そういえば、遅いな」
 この時間になってもロックオンが寝室に来ないというのも珍しい。仕事で夜勤かと思ったが、今日が休日だから彼はあんなにもしつこかったのだ。
 それに彼が黙って出かけて、遅くまで帰ってこないということも滅多にない。色々なところが大ざっぱだが、妙なところでマメで過保護なのがロックオン・ストラトスという男だった。
 ―――もしかして、居間でライルと話し込んでいるのだろうか。
 あの兄弟は十年も離れていたとは思えないほど仲が良く、遅くまで二人で盛り上がっていることもよくある。そういうときのロックオンはとても楽しそうで、それを嬉しく思ったり、時折淋しく思ったりもした。
 最近は、淋しく思うなら混ざれば良いと思うようになり、慣れないコーヒーを片手に三人で話している。話の内容はよくわからなくとも、ライルが気にして色々と補足をしてくれるし、楽しそうなロックオンの顔を見ているだけでも幸せだった。
 一日寝室に引きこもっていたとはいえ、一度も誘いの声がかからなかったことを不満に思いながら居間を覗く。

 しかし、ドアを開けたとたん鼻を突く臭気に、自分が呼ばれなかった理由を理解した。
「アルコール臭……いくらなんでもこれは、」
 思わず余る袖口で鼻を押さえながら、テーブルの上に転がっていたり床に並べられた瓶の数を数えてしまう。平均はよくわからないが、成人男性二人といえどもこの量は度を超えているのではないか。アルコールの癖のある匂いが、体中の粘膜に張り付いて空気だけで酔えそうだ。
 そして、二人はフローリングの床の上で仲良く並んで眠っていた。普段の抜けるような白い肌を真っ赤にして、大きな身体を胎児のように丸めている。その姿は子どものようで、思わず苦笑をにじませてしまった。
「…全く、手の掛かる家族だ」
 小さく呟いて寝顔をのぞき込んだとき、僕は思わず息をのんだ。窓から差し込んでくる冴えた月明かりに照らされ、ロックオンも、ライルも、涙をにじませていた。眉間に刻まれた皺を見るに、笑いすぎて思わず涙がこぼれたというわけでもないようだ。
 胸からじわりと痛みがにじんで、そっと二人の癖のある髪を撫でる。
 きっと辛いことが、あったのだろう。そういうときに、一人で苦しむだけではなくなって、良かったと思う。
 本当は僕も混ぜてほしい、分かち合いたいと思わないでもないけれど、それではこの手の掛かる家族の面倒を見る相手がいなくなってしまうのでよしとする。
「そうだ、風邪を引いてしまう…」
 アルコールが抜けず、体温の高いうちはいいが、フローリングに直接眠っては次第に体温が奪われてしまうだろう。日差しに暖められたフローリングの床が心地よくて眠っていたはずのに、目覚めたときには太陽が移動しており、ひんやりと冷えていて後悔した。そんな経験は僕も幾度となくある。そのたびに、ロックオンが気にしてどこかから毛布を持ってきてかけてくれるのだが、生憎僕はその所在を知らなかった。
 寝室にあるものを持ってくることも考えたが、色々なもので汚れている気がして、ロックオンはともかくライルに使わせるのは忍びない。
「む…」
 少し考えた結果、ホビールームに走る。そこには通販で購入してため込んであった未開封の商品が積まれており、ライルにいい加減どうにかしろと再三言われていた。いい加減使わねえんだから通販なんてやめちまえ、と馬鹿にする彼に、目にものを見せてやるいい機会だ。そう考えると少し楽しくなって、箱から商品を引きずり出す手に力が入る。
 僕が、子どものように床で眠ってしまった二人の面倒を見るのだ。彼らを風邪の病原菌や床の寒さから守れるのは、この僕しかいない。
 そう考えるといい気分だった。いつも面倒を見られる側だから、よけいにそう思ったのかもしれない。商品を手にしながら、鼻歌まで漏れて、それが二人が家事をするときによく歌っていたものだと思い出した。
 原曲のタイトルも知らないのにうつってしまった。けれど、仕方ない。家族なのだから。





 目を開けると、目の前に緑色の巨大な芋虫がいた。
 思わず目を凝らして見つめているうちに、それが兄さんであることに気づく。膝枕をしたり芋虫になったり大変だ、とまるで人事のように思っていたのだが、四肢が自由にならないのに気づき、自分もまた芋虫になっていることに気づかされた。
 目の前の巨大な芋虫がのそりと瞼を押し上げ、さきほどのオレのように現状に戸惑い始める。同じ色の視線が絡み、どことなく気まずい思いをしながら、それでも現状を認識しなければならないと思い―――意を決して、声をかけた。
「なぁ兄さん。オレたち、なんで寝袋に入ってるんだ?」
 昨日は二人で酒を飲んで、兄さんを潰したところまで覚えている。二人でぐでんぐでんになって、フローリングに転がったはいいが、それ以降の記憶が全くない。
「さぁ…」
 兄さんが透き通った瞳で首を傾げる。しかし寝袋なので僅かな動きにしかならなかった。
 となると、消去法で犯人は一人しかいないのだが、それはどこかから漂ってくる焦げ臭い匂いと関係があるのだろうか。胸に不吉な予感が掠め、思わずため息を吐き出した。

 寝袋に入ったのは初めてだったが、派兵や何かで何度か入ったことがある軍人さんがいたおかげで、出るのはそれほど苦労しなかった。唯、出してもらう前にごろごろとオレを足蹴にしてフローリングの上を転がしてくれた、どこかのガキみたいな軍人さんを恨んでも許されると思う。
 とりあえず、おはようのキスの代わりに一発お見舞いしてやったおかげで、右頬を腫らした兄さんと一緒にキッチンへと向かう。アルコールの臭気に焦げ臭さが上書きされて大変なことになっているその場所の中央で、もう一人の家族がせわしなく動いていた。
「おはよう、ティエリア」
「おはよう……ロックオン、その頬は!?」
「ちょっとしたスキンシップだよ。それより、朝っぱらから焦げ臭えんだけど、大丈夫なのか?」
 兄さんが口を開いて面倒なことになる前に先回りして問いかけると、ティーが俯いて頬を染める。皿の上に幾重にも積まれた炭―――ではなく、きっとパンケーキになりたかったものたちを見て、思わず兄さんと顔を見合わせて苦笑した。寝袋といい、パンケーキといい、彼はどこかずれている。
「二人に、朝食を用意したくて…でも、」
 恥ずかしそうに弁解を始めるティーを無視して、兄さんがどっかと皿の前に座った。真っ黒なパンケーキ未満をかき分けて、焦げの少ない部分を乱暴にむしって食べる。普段なら顔をしかめられそうだが、今は彼のその大ざっぱな様に安心した。
「ライルライル、けっこう美味いぞ、ここらへん」
「全部食うんじゃねえぞ、今、バター出すから」
「ロックオン! ライル!」
 あわてて制止しようとするティーを無視し、二人で丸焦げのパンケーキを囲む。確かに悲惨な部分もあるが、焼きムラも多いおかげで食べられる部分もそれなりにある。大量に失敗してくれたから、二人分の朝食にはなりそうだ。
「妙な気遣いはやめろ! こんな朝食では…」
 興奮して上擦った声で訴えるティーの頭を、兄さんがそっと撫でた。それを横目で見てしまってから後悔した。どのタイミングで見ない振りをすべきか迷う。このバカップルどもめが。
「ティエリアこそ、気遣ってくれたんだろ? 寝袋もありがとな」
「でも、うまくいかなくて……俺は、僕は、私は…」
「いいんだよ。俺たちが嬉しかったんだから。な、ライル」
 突然話を振られ、逸らした視線をあわてて戻した。健全な部分のパンケーキをかじりながら、何度かうなずいてみせる。
「まぁな。最悪な気分が、芋虫兄貴のおかげで笑いに変わったし」
「地べたを転がる芋虫ライルもなかなかのもんだったぜ? ティエリアにも見せてやりたかったくらいだ」
 ティーが通販で買ってきた(形が気に入ったらしい)寝袋が、こんな形で活用されるなんて思いも寄らなかった。うつむき、落ち込んでいたティーの顔がぱあっと明るくなり、つられてこちらも笑った。
 幸せになってずるい。夢の中で、エイミーがそう言った。
 けれど、どうしたって幸せと感じてしまうのだ。そう感じさせてくれる相手がいる。家族がいる。罪悪感を覚えながらも、この温かい気持ちに嘘はつけない。
 ―――ごめんな、エイミー。
 死んだ家族に心中で謝って、それから全力で笑ってみせた。嘘くさいくらいの笑い顔は、それでも確かに笑顔だった。兄さんはそれを横目で見て、同じように笑ってみせた。きっと同じ気持ちだった。
 幸せなのだ、オレたちは。
 不意にそう思って、笑っているはずなのに不思議と泣きたくなった。涙の気配を、焦げたパンケーキで押し込めてまた、笑った。