大きすぎるバスローブの裾を摘まんでベッドに腰掛けた。丁寧に洗われた身体はシャワーの熱以上に火照っている。温いシャワーを浴びながら泡立てたボディソープ越しに感じるロックオンの手のひらを思い出すと、今でも頬に血が昇った。
 けれどもその動作に性急な素振りは一切なく、小さな口づけを額に落とされ先に出ているように促されても抵抗は感じなかった。耳を済ませれば慌ただしい水音が聞こえる。大慌てで自分の身体を洗っている彼の姿を想像すると、少しおかしい。そして同時にほっとする。それは自分が知るロックオン・ストラトスらしい姿だった。
「ニール」
 小さく呟いて、どうにも馴染まない響きに眉を顰める。
 彼はあの店ではそう呼ばれていた。モーテルで彼に抱かれた女たちも、ベッドの中でその名前を叫んだのだろう。
「ニール」
 もう一度、その名前をなぞってみる。唇にホットミルクの膜が張りついたときのような違和感があって、思わず指先で拭った。口元に馴染んだボディソープの匂いが漂い、それに混じってロックオンの指先を思い出して、違和感でぐずついた胸の中心が少し温かくなる。
「…ロックオン」
 そう呟くのは、指で拭うより効果があった。唇や咽喉の振動がするりと胸まで落ちてくる。そんな感覚があった。
「呼んだ?」
 静かな声に顔を上げると、肩にタオルを引っ掛けたロックオンがいた。あの名前を呼ぶのを聞かれはしなかったかと心臓が震えたが、ロックオンはまだ濡れた毛先を揺らして小さく首を傾げるだけだったので、聞こえなかったのだろう。しかしその表情が曇り、こちらに慌てて駆け寄ってきたので、もう一度その心配をする羽目になった。
「やっぱり、どっか痛いとこあるのか?」
 バスルームでもしつこいくらいに繰り返された問いに、安堵するのと同時に少しうんざりする。手酷くされる前に、こう表現するのが正しいかはわからないが、彼は正気に戻ったし、アルコールに浸った彼の腕にそこまで強い力はなかった。
「大丈夫だ。どこも痛くないし傷もない。さっき確かめただろう」
「でも痛かっただろ。ごめんな」
 ベッドの傍らまで来たロックオンは、顔を情けなく歪めて跪いた。うなだれた首にかかったタオルを掴み、濡れた髪を包むと少し強張る気配はしたが、彼は大人しく従う。
「大丈夫だ。あなたが一人で痛いより、よほど良い」
 この発言は、あるいは彼の傷を抉るものであったろうか。膝の上に彼が顔を伏せる。バスローブの合わせが割れて震える吐息を内股に感じたが、性的な感覚は薄かった。心から思ったことだったが、言葉を回収できるのならそうしただろう。
 無論、それは叶わなかったので、代わりに膝に落ち着いた頭を普段彼がしてくれるように丁寧に拭ってみた。だが、やはり彼のようにうまくはできない。ぎこちなくタオル越しに彼の頭を撫でることしかできなかった。
「あなたに、私を傷つけることなんてできないんだ」
 言葉を使うのは苦手だ。いつだって彼は言葉より先に体温をくれた。彼が紡ぐ煙に撒くような沢山の言葉よりも、抱きしめてくれる腕や触れる唇の方がよほど雄弁だった。言わなくても与えてくれる彼に慣れてしまった自分の言語能力を、あまり信用はしていない。
 それでも必死に言葉を探して口にする。そうしなければロックオンはいつまでも私を理由に傷つこうとする。
「なんで、そんなふうに」
 膝の上の頭が伏せたまま横に振られ、バスローブに皺が寄る。それとは裏腹に彼の腕は伸びて腰にしがみついた。水気を吸いきったタオルを床に落とし、まだ少し湿っている髪ごと頭を抱く。髪は冷たかったが、その奥にある頭は温かかった。
「あなたが好きだ。だから」
 伏せられた頭にキスをして、ぐしゃぐしゃになった髪を何度も手で梳く。そのたびに腰にしがみつくロックオンの腕に力が込められ、そのたびにより丁寧に繰り返した。
「私はあなたが好きだ。…あなたは違うのか」
 答えはない。それは質問の意図が正しく理解されていることを意味しているのだが、どうしようもなく哀しいことのように感じた。
「ティエリアが好きだ」
 彼の答えは、逃避のそれだ。しかしそれを糾弾する資格が自分にあるとは思えなかった。
「ティエリアが好きだよ」
 伏せられていた顔が上がり、青みの強い淡い緑の視線が向けられる。優しくて愛しくて、弱さを隠したそれに、うまく笑いかえすことができただろうか。
「知っている。それくらい」
 頭を屈め、耳の後ろに手を添えて促すと彼は心得て背筋を伸ばした。唇が重なる。唇だけが触れる。
「ん、」
 舌先を挿し入れると、すぐに応えてくれた。一人残ったバスルームで歯を磨いていたのだろう、ミントの香料が舌を刺激してむせかえりそうになるが、離すまいと強く口を吸った。跪いていた彼が立ち上がり、膝をベッドに乗り上げる。それはバスローブを割り、背中に回っていた手は簡単にベルトを解いた。


 乗り上げてきたロックオンに対して、こちらの身体は自然にベッドへ倒れ込む。彼は腕を器用に使い、倒れた衝動で互いの歯がぶつからないよう、しかし唇は離れないよう加減した。
 ベルトを解かれたバスローブは簡単に肌蹴て、露出した肌に彼が触れる。ベッドに乗り上げたとき、彼が腰に巻いていただけのバスタオルは床に落ちていた。
 明るい部屋の中、彼の瞳はいつもの淡い色から少し濃いそれに変化して見える。色素でも偏光の具合でもないそれを感じ、背後に後ずさった。捕らえようとする彼の腕を笑いかけながら取り下げ、枕のある位置まで下がり、そのまま仰向けに身体を倒す。後ずさったせいでバスローブはとうに脱げて腰の下に敷かれていた。視線を感じすぎて疼く中心を隠したがる足を、何とか押しとどめて両手を彼に向けて伸べる。
 なぜか戸惑ったように固まる彼に声をかけようと思ったが、その言葉に迷う。普段こんなとき、ロックオンは何と言っていただろう。来て欲しかった、それが許されているのだと伝えるには。
「…おいで」
 ぎこちなさが伝わったのか、ロックオンは少しだけ笑った。そして足を跨いで身体を重ねる。直接触れ合う胸と、ずしりとかかる重みに身体の芯が熱くなる。
「ふっ、んん……」
 身体と一緒に重なった唇から舌を挿し入れればすぐに応えてくれるので、夢中で与えられるものを啜った。ロックオンの手は胸の隙間に入り込み、固くなったしこりを指先で摘みあげ、もう片方の手も腰骨を辿って足の付け根を撫でている。
 その動きに身体がますます熱くなり、性的な快楽を感じる器官は甘く痺れてくるが、かまわず唾液も粘膜も吸い尽くすように唇を食み、舌で舐め回した。
「ん、ふっ、う……」
 すると彼は苦しげに鼻で鳴く。身体を這っていた手の動きは止まり、背中にしがみつかれていた。それでも止められずに身体ごと唇を前に押し出すと、二人の身体は上下が逆転する。
 上になると、思うままに口づけられるし触れることができた。舌を絡め、肩を撫で、胸を通して鼓動を掴む。隠しようもなく立ち上がった中心の輪郭を指先でなぞると、それは大きく脈打って指先を押し返した。
「あんまり、急かさないでくれよ。優しくしたいんだ。いつも本当はそう思ってる。傷つけてばかりだけどな」
 全身をなぞる手を窘めるように緩く掴まれる。そこに口づけを落とすロックオンは、少し困ったように眉を寄せて笑っていた。彼に何かを与えようとすると、彼はいつもそんな顔をする。好きな表情だと思う。ロックオンらしいそれだと感じる。なのに今は少し胸の内側を、かり、と引っかかれたようだった。
「私はあなたに傷つけられたことなんてない。あなたに私を傷つけることなんて、できない」
 寄せられた左右の眉に手を添えて伸ばす。閉じられた瞼の丸みと睫毛の感触は指先に淡く、おぼつかなさにまた苦しくなって口づけた。角度を変えて舌を抜き差ししながら、足を広げてロックオンの身体を跨ぐ。腰を浮かせて位置を後ろにずらすと、ひたりと熱いものが中心に触れて背筋が震えた。
「優しく、させてくれよ」
「え、……あっ、」
 唇が触れそうな距離でロックオンが囁く。張りつめて濡れ始めていたこちらのものに触られて、それだけで声が高く溢れた。ロックオンに優しくしたかった。一方的に優しくされて指で触られて、また自分だけ達してしまうのは今は嫌だと思った。
 ロックオンの胸に手をついて身体を起こす。唇や胸は離れてしまったけれど、彼の濡れた指を容易く取ることができた。
「ティエリア?」
「さわる、なら」
 手をさらに奥まで誘導すると、ロックオンは驚いたのか優しく細めていた目を見開く。ぬめる彼の両手を背後に回し、左右から少しずつ中心に向けてずらした。
「ん……」
 弾力にめり込みながら熱く疼く場所に指が近づいていく。自分でしていることであっても、指が動くたびに身体が震えた。
「ティエリア」
 声と共に、されるがままだった手が後ろを包むように馴染む。閉じかけていた目を開けると、見上げてくるロックオンの視線と行き合った。明るい部屋の中、緑が柔らかく湛えられている。
「抱いていい?」
 ふわりと、目から溢れたものがある。それは温かいようでもあり、冷たいようでもあった。涙腺から分泌された液体であるはずなのに、枕から零れた羽毛のように柔らかく音もなく落ちてロックオンの頬で弾ける。
「な、いい?」
 瞼で受けとめきれない涙の粒がぽろぽろ零れた。夢中で頷いて溢れた涙が飛び散る。後ろを包む指が挿し込まれると、抑えることもせずに声を上げた。
 ロックオンの言葉は、ただ行為を求められるのとは違うように思えた。あの店で、過去の名前とアルコールに浸ることで繕おうとしていた何かを、これによって彼なりに昇華しようとしているのかも知れない。
 ロックオンが好きだった。それ以外の名前では彼を呼べないほどに好きだった。だから名前を呼ぶ以外の全部は、しようと思った。


 彼が下肢から手を離してそうするより前に、目元を自分で拭う。腕を下ろして、ぎこちないのを承知で笑ってみせた。彼が苦笑気味に笑うのと同時に、下肢に指が入り込む。両手で押し広げながら中でも指が動き、体温の上昇と共に緩んでいくのがわかった。
「んっ、…あ、あっ」
 ロックオンの胸に手をついて、背中を反らす。甲高い声と、髪と汗と涙が散った。ぐずぐずと前から滴ったものがロックオンの腕を伝ってそこを濡らし、粘性の高い水音がする。気づけばそこにベッドの軋みが混じっていた。指の動きから逃げるように、追いかけるように、腰が無我夢中で揺れている。
 ずる、という音と空虚感で指が抜かれたのがわかった。次にくるものがわかっていても、脱力感と満ち足りなさに身体が崩れそうになる。それを腕で支え、震えて萎えそうになる膝に力を込めて腰を上げた。
 ロックオンは腹の上に溜まったものを掬って、自分のものにこすりつける。その手が腰骨に添えられて、促されるままに腰を落とした。
「ああっ…」
 濡れそぼり、熱で緩んだそこを最初の衝動が襲う。指よりもはるかに高い温度と存在感に、入り口から一気に痺れが押し寄せ、耐えきれずに放ったものがロックオンの胸元にまで散った。
 淡く白いそれを見て視界が滲む。宥めるように背を撫でられ、涙が零れた。全部忘れるほどの強い快楽よりも、ロックオンそのものを感じていたかった。ロックオンが求めたものは、多分こういうことではない。
 吐き出したものを腕で拭い、再びロックオンの腹に手をついて腰をゆっくり落とす。腰は動かさずに、ただ内壁に密着する輪郭を、目を閉じたまま懸命に辿って感じた。
 濡れた音と荒い息遣いが、なぜか穏やかなものに聞こえる。ロックオンの長く吐き出された息を聞くまで、一番奥まで繋がったことにも気づかなかった。
「…ロックオン…」
 薄く目を開けて上気した彼の頬に触れると、ロックオンは余裕があるのか口の端を吊り上げて笑う。足の間にある身体に力が入るのを察し、彼の腕を撫でてそれを宥めた。両手を取って、指先に甲に手のひらに手首に、何度も何度も口づける。
 もっとずっと繋がって、彼を抱いていたかった。人間の一番深い接触でも足りない。抱ききれないもどかしさにまた泣きたくなる。
「…ティエリア!」
 不意にロックオンが叫んだ。動じる間もなく身体が反転し、背中にシーツとベッドの弾力を感じた。繋がったままのそこが少し抜けて捻れて、ぴりっと痛んだが、唇が塞がれ舌が絡みとられ抗議のしようもない。
「はっ、…なんで、こんなに、かわいいんだよっ」
 唇の唾液を舐めた様は、舌なめずりに見えた。その顔の両脇には担がれた足があり、思わず両の股をきつく合わせる。中にあるものが大きくなった。輪郭を感じるどころか圧迫感に視界が明滅する。見えない中で腕を伸ばせば、彼の手が首に抱きつけるよう導いてくれた。
「ロックオン、ロックオン、ロックオン、」
 必死に感じまいと思った場所を何度も突かれて、弾けてしまいそうなのを堪えながら、自分が呼べるただ一つの名前を叫ぶ。しかしそれは次にくる激しい動きに、やがて嬌声と混じって部屋に響き、やがて霧散した。




 もう吐きだすものもないのに衝動だけ達してシーツに身を委ねると、すぐ隣にロックオンが倒れ込む。最後に彼が放ったもので濡れた太腿をすり寄せると、身体ごと抱え込んでくれた。
 明かりがついたままの寝室はひどく白々しい。胸の前に回ったロックオンの手が離れないよう押さえながら、ベッドサイドのスイッチに手を伸ばすと、抱えたこちらの身体ごと彼が起き上がる気配がした。
「風呂入らないと。ほら、ティエリア」
 抱き上げようと背中と膝裏に回された手を捕らえ、それに抗う。動かした内股からねちゃ、と濡れた音がして彼の視線がそこに集中するのは、いい気味だと思った。
「いい、このままで」
「良くないだろ。気持ち悪くないか?」
 視線を無理やり顔に戻した彼を笑ったことには、彼は気づいていないようだ。入浴を主張する、少し困った顔がかわいいと思った。
「へいきだ、きもちよかった。どこにもいくな、いかないで、」
 腕を首に絡めて半身を起こした彼を再びベッドに引きずり込む。簡単に腕の中に収まってくれたのは、彼にもそこまで強い意思はなかったということだろう。
 いつもは彼の肩に頭を委ねるが、引きずり込んだ頭をそのまま胸に抱いた。少し驚く気配はしたが、彼は黙って溜め息をつく。
 撫でた髪の温かさに微睡みが引き出される。腕の中の身体からも力が抜けて、その重さが愛おしかった。
「あなたが好きだ」
 抱いた彼の名前一つ、呼ぶことのできない自分にあるのは、それだけだった。彼に対してもつものは、本当にそれだけなのだ。腕の中の身体がもぞもぞ動き、腕を伸ばす気配がする。部屋の明かりが消えた瞬間、彼を抱きしめたまま意識も落ちた。