ビルの隙間から降り注ぐ雨が、にわかに途切れた。臑や踝は変わらず滴に叩かれているが、鬱陶しく髪を重くし、頬を滑っていたそれは何かに遮られている。傘が差しかけられたのだとわかって視線だけを動かすと、見えたのは手のひらだった。
 目の前に差し伸べられたその手の意味が、わからなかった。わからないまま、視線だけで見上げていると手の持ち主は眉をひそめる。
「動けないのか?」
 その言葉の意味するところが理解できず、思考するのも面倒だったので今度は視線すら送らなかった。前髪がこぼれて視界が二つに分かれ、コンクリート剥き出しのビルの外壁も斜めに切れる。
 動けないわけではなかった。四肢のどこにも損傷などなく、ただ動く必要性を感じなかったのでそうしていただけに過ぎないし、そしてその必要性はおそらく未来永劫発生しないものと思っていた。
 そんな無為の腕に、何かが触れた。触れた場所からじわりと熱が伝わり、内側の血の流れが重くなっていく。なのに腕は重力に反して地面を離れ、持ち上がっていった。
 反射的に顔を上げる。そこで初めてその人間と視線が合った。街灯からも外れた薄暗い裏路地で、その双貌は深い緑の色をしていた。
「お前、家は?」
 Home、と問われてその意図をようやく察する。常識的に考えれば路地裏に落ちている人間に関わろうとするものはいないと思っていたのに、ごく稀に、それを積極的に行う人間もいるという。見たところそれを義務とする職の人間でもなさそうなのに。
 面倒なことになった。本当に面倒だった。だから何も答えなかったし何もしない。
「行くあては? 保護者は?」
 通俗的な、一般的な良識を身につけて実践するのは勝手だが、それを押しつけられるのは面倒でしかなかった。さっさとどこか、この狭苦しい視界から出ていってくれれば良いと思うのに、なぜかこちらからは目が反らせない。眼球運動すら面倒なのかと思ったが、それとも違った。
 深い深い緑のせいだ。見たこともないような深い色だった。逆光を受けて小さく光る一点以外は、青いような黒いような、不思議な色をしている。どこかガラス玉めいた透明感があるようで、底が少しも見えない重さもあった。
「名前は?」
 吸い込まれそうな色だと思った。事実、そうだったのかもしれない。そのせいだろう、この口は初めて男の言葉に答えた。
「ティエリア」
 目が眇められる。睫がかげった瞳は濃さを増したのに、やわらかい印象を与えた。
「それじゃあティエリア、怪我はしてないんだよな」
 そんな瞳とは裏腹に、それまでの緊張や静寂を突き破るような無遠慮さで突き出された腕に、脇腹や背中を乱暴にさすられ、叩かれる。それだけでも予想だにしなかったのだから、その男の次の行動などどうしようもなかった。
 捕まれた腕は男の肩に下ろされ、くるりと振り返った男の背が晒される。地面に屈み込んだ背中は丸められているにも関わらず広く大きく、深い暗がりをのぞき込んだときのような目眩を覚えた。
「大丈夫だから。俺ン家、行こうな」
 肩越しに振り返った男がなぜ笑っているのか。なぜ自分に背中を晒しているのか。思考が追いつこうと足掻いているのに、男はそれ以上の強引さで腕を引いた。前のめりに引き起こされた身体が男の背に密着する。心臓が跳ねて、皮膚越しにその背中を叩いた。
 浮遊感があり、ずるずると引きずられそうだった足が力強い腕に拾われる。大きく開かされた足が落ち着かなかったが、閉じようにもそこには男の腰があった。
「っ…う」
 慣れない感覚に背筋が粟立ち、喉の奥から拒絶の声が漏れる。引き離そうと上体を捩ると、男が器用に手に持っていた傘が揺れて、端から垂れ落ちた雨が頬に跳ねた。
 ずっとそれを浴びていたはずなのに、冷たさに身体がびくりと竦む。対照的に、男に触れた場所からじわりと生温い体温が染みた。濡れそぼった身体がぬるくなっていく。身体が冷えきっていたことに、それでようやく気づいた。だらりと男の腕からぶら下がった足はずっと強ばっていた。雨も地面も冷たかった。
 じわり、じわりと染みていく。感覚が戻ってくる。自分が濡れて、冷えきっていたことがわかる。そう理解した途端、身体が震え始めた。寒いのではない。それは嫌悪に近かった。背中を晒されたときと同じか、それ以上のものだった。
 暗がりをのぞき込んだような恐怖。暗がりから何かが伸びて、この四肢を絡めとって飲み込んでいくような感覚だった。
 こわい。反射的にそう思った。心臓に直接ぬくもりを注ぐような背中がいとわしく、温まっていく己の身体を嫌悪した。
「っ、」
 気づけば目の前にある肩に噛みついていた。男の顎がぴくりと震え、男性らしい喉仏から押し殺した振動が伝わる。
 顎が震えるほど強く噛みつくと、怖さは少しだけ和らいだ。だが、今度は歯や舌にまで体温が浸透し、舌先にはじわりと生臭い血の味がする。やはり気持ちが悪い。あの冷たい地面を冷たいとも感じなかったときまで時間を戻したい。何も感じることのないゼロに戻りたかった。今の自分には、五感も四肢も不要なのだ。男に問われた、名前さえも。
「ティエリア」
 なのに男はそれを呼んだ。危害を加えたことを、咎める気配は少しもない、その背中の温度に酷似した声だった。
「大丈夫、何もしない。大丈夫だからな」
 冷たい雨は彼の傘が遮り、寒さに震える身体は彼の体温が宥めた。そして得体の知れない感覚におそわれる嫌悪と恐怖を、その声が撫でる。言葉の意味は少しもわからないし、もしかしたら意味などないのかもしれない。
 だが、身体の震えは止まったし、顎からは力が抜けていく。やがてどうでも良くなって、四肢をだらりとその背に預けた。どうせもう不要のものだから、どうなっても構わない。そして僕は意識さえも投げ出した。



 濡れ鼠を背負ったので、背中はびっしょりと濡れていた。防水仕様ではない、ごく普通のジャケットを着ていたせいで水は素肌にまで浸透しているが、仕事帰りに軽く飲んだビールがまだそこそこに体温を高めているので寒くはない。
 少なくとも、今バスルームを使っている人物が出るまでの間に風邪を引くようなことはないだろう。そんなことになれば、あの強引で独りよがりでそのくせお節介な上官に何をされるかわかったもんじゃない。
 とりあえず濡れて張りついたシャツを脱ぎ捨て、イスにひっかけた。何かTシャツでも着ていようとチェストを漁ろうとした俺の後ろで、がちゃりと音がする。バスルームのドアが開いた音だ。
 タオルも着替えも置いておいた。幸い、長期任務に備えて服のストックは多い。まだ封すら開けていない下着もあった。
 これで実は女の子でした、なんて事実がありでもしたら、俺は即刻彼女を元通りにして交番に届けなければならない。あるいは、すでに身の破滅が始まっているのかもしれないが…などと考えながら振り返ると、良かったというべきなのだろう。そこには紛れもない少年がいた。ちょっと信じられないくらい綺麗な顔立ちと、四肢の持ち主だった。
 日焼けなど少しもしていない。肌のどこもかしこも均一の色合いをしていた。すんなりと伸びた手足は骨ばってギスギスした針金のような印象だが、少し肉がつけばぴんと張りつめた美しい曲線を描くだろう。
 脇の下からぎゅうぎゅうと締めつけられるように細くなっていくウエスト。突き出た腰骨と、青い血管が浮き出る太股の中心にある、少年のそれ。
「…っておいおい」
 一応お湯を浴びてきてはいたようだが、髪や指先からはぽたぽたと滴が垂れてフローリングにいくつもの水溜まりを作っている。身体も拭かず、服も着ずに出てくるなんて、本当に子猫か赤ん坊のようだった。
 いささか強引に背負ったとき、警戒する獣そのままの態度で噛みつかれたので、バスを使うのは本人に任せたらこれだ。
 自分用に出していたタオルをひっつかんで頭から被せる。視界が覆われて引き剥がす素振りを見せた頭ごと、上からごしごしと擦ってやった。みるみる湿っていくタオルを持ち変え、少しでも乾いた部分を使って水気をふき取る。
 あまりにも綺麗な生き物なのでつい拾ってしまったが、俺は今のところ少年愛好の趣味はない。仮にティエリアを名乗るこの人物が少女であったとしてもそうでありたかった。美しい裸身に見とれた自分を払拭するように、俺は少し乱暴に腕を動かす。
 タオルがすっかり濡れた頃、重くなったそれをどかすと、きょとんと大きな瞳が現れた。乱雑に拭った髪はあちこち跳ねて膨らみ、猫が驚いたときの姿を彷彿とさせる。拾ったときには鋭く引き絞られていた虹彩が、今はぱちくりとぼやけていた。
「ほら、服着てこい。一番新しいのなんだぞ、あれ」
 ぼさぼさになってしまった髪を手で掻き撫でると、ろくなトリートメントもなかったはずなのにするりと指通りが良い。みるみるうちにまっすぐに整っていくそれが面白くて、促したくせに幾度も撫でてみる。
「髪、まっすぐなんだな。きれいだ」
 そう笑って最後の一房を離すと、それまで真っ白だったティエリアの頬が赤く染まった。今更のぼせたのかと顔をのぞき込むと、せっかく整えた髪がまたぼわ、と浮いた気がする。
「っ……!!」
 ぱぁん、と気味の良い音と共に腕が払われ、脱兎のごとくバスルームに向かって裸の肩を翻した。狭すぎるアパートで走ったりすれば勢い余って壁にぶつかるに決まっている。
 ごつんごつんと痛そうな音を立てて、駆けていくティエリアは、耳まで真っ赤になっていた。






 ゆらり、ゆらりと揺れる背中が心地良いのだろう。切れ長の目をとろりとさせていたティエリアは、ライルの背に乗ると同時に意識を手放していた。
「…ほんと、」
「かわいいなぁ、なんて言うなよ。思うだけにしてくれ」
 少しうんざりした声がティエリアの形の良い頭の影から聞こえる。
「言っちゃ悪いか?」
「…背負ってて見えないのが悔しくなるからって言えば納得してくれるか?」
 投げやりな説得に、弟が本気で腹を立てているのがわかったので、俺は苦笑するに留めた。俺とティエリアにおける家族のあり方を咎める人間は、大気圏内に一人しかいない。
 身近にいる人々は、俺のティエリアに対する接し方が保護者失格だとか人権問題だとか変態行為だとか異常性癖だとか、そんなデリケートな問題を咎めるには大ざっぱもしくは寛大すぎるし、あるいは俺たちに対してどこか腫れ物のように優しく接する。事実、腫れ物みたいな傷を抱えるから寄り添え合えたという自覚は、少なからずあった。それを許容してくれる世界に甘えながら、こうして糾弾する声も心地良く思う俺は、きっと酷く贅沢なのだろう。
 傷を舐めるように穏やかに寄り添いあうのも家族なら、叱りながら呆れながらも傍にいてくれるのも家族だった。
「納得するさ。いっつも俺が背負うしかないから、すごく新鮮でかわ、」
「はいNG。明日の朝飯係は兄さんな」
 少し勢いをつけて揺れたティエリアの足が俺の太股にぶつかった。起きてしまわないかと思ったが、浮かれていつもより酒が進んでいたのか、眠りは深い。
「しかし、よく手懐けたもんだな。もともとは結構警戒心とか強い子だろ? ティーは」
「手懐けたなんて、人聞きの悪いこと言うなよ」
 ライルの背で泥のように眠るティエリアに、警戒心を見いだすのは難しい。過剰な警戒をすることもあるが、それは人間同士のコミュニケーションをどこか勘違いしている節のある相手に問題があるだろう。
 ああ、でも。初めてティエリアに会った日は、たしかに酷かった。
「そういや大変だったな、これでも。噛みつかれたり引っかかれたり」
「…噛み痕なら今でもついてんだろ」
「ラーイール」
 はぁい、と肩をすくめるついでにライルが身体を揺すってティエリアを背負いなおしても、起きる気配がない。俺が背負ったときは眠るどころか全身の毛を逆立てて、そう、あの日エイミーが拾った猫みたいに俺をひっかき傷だらけにした。
「ま、拾ってきたっていう兄さんも兄さんだが、着いてきて居着いちまったティーもティーだよな。ほんと、ナニしたんだよ」
「何もねえよ。風呂入れてメシ食わせて寝かせただけだ」
「一緒に?」
「別々だ。…そのころは」
 はいはい、とライルはまた肩をすくめる。いい加減ティエリアが本当に起きてしまいそうだが、その眠りは本当に深く、首をことりとも動かさなかった。
 そういえば出会ったころのことなど、最近はずっと忘れていた。ライルに俺たちの馴れ初めを話したときには違和感すらあった。いつ出会ったのか、どう出会ったのかも忘れてしまうくらい、俺たちはずっと近くにいたのだろう。
 家につれてきたのは俺の気まぐれだが、居続けたのはティエリアの意志だった。
「いてくれたんだな、ティエリアが」
「あ?」
「俺は何もしてない。傍にいてくれたんだよ、ティエリアが」
 ライルの肩に預けた小さな顎の輪郭を撫で、頬を軽くつつく。それでも寝息を崩さないティエリアは、あの頃と変わらない。
「…そーですか」
「ああ、そうだよ」
 ライルが首だけで振り返り、肩越しにティエリアを見ようとするが、ライルの位置からはティエリアのつむじくらいしか見えないだろう。俺は耳を手繰っていた手をそこへ移し、ライルの視線がなぞった場所をそっと撫でた。






 彼の手が離れることを、ほんの少しだけ淋しいと思ってしまった。いつもならそう思うなり袖を掴んで、そうすれば彼はにんまり笑って、こちらの髪をくしゃくしゃと掻き撫でてくれる。
 それができなかったのはなぜだろう。寝ているふりをしていることがばれたところで、彼らは何一つ咎めたりはしないだろう。敢えて言うならからかってくる可能性はあったが、それを厭うような感覚は、とうに摩滅している。遠慮も躊躇もなく、そして不躾でないライルの態度と、そんな彼と対等にコミュニケーションがとれる自分を、とても気に入っていた。
 なのに淋しいだとか、思うままに動けないだとか、そんな自分を酷く厭なものに思えてならない。慣れたそれに良く似た背中も、撫でてくれた手も嬉しいのに、自分の感覚とは別の、どこかだけがそぐわない。
 全身を溶かすように背中は温かい。耳元を掠める笑い声は心地良い。なのに酷く唐突に、何の前触れもなく、あの何の温度もない路地裏に戻りたいと思った。けれども何も感じないゼロの状態には、もうどうやっても戻れないこともわかっていた。そんなことになれば、きっと自分は息もできない。