「あなたは愚かだ」
 瞼越しに彼の眼球の丸みをなぞる。額から頬にかけてべっとりと付着したそれは空気に触れて少し乾きかけ、不快な感触を伴って指先を汚した。
「なぜ僕を庇った」
 頑なに結ばれていた唇に僅かな隙が空く。彼の返答を知りたいとも思ったが、知りたくないとも思う。不可解なことに、その二つの意思は僕の中で並立し得た。躊躇いに揺れるそこに、汚したばかりの指先を突っ込んでやりたい衝動に駆られる。
「それは君がクリーム塗れになって淫猥な有り様になるのを防ぐためだ! ティエリア・アーデ!」
 しかし彼の唇を塞いだのは僕の指ではなかった。それは高らかで、不快な傲慢さを孕み、できることなら完全に遮音されたコンテナに詰め込んで宇宙に放り出し、そのまま太陽まで飛んで燃え尽きれば良いのにと思わずにはいられない声で、僕がこの世で最も不快なものの一つだった。ちなみにその音声データの解析をするという友人の神経は、僕にとってこの世で最も理解できない事柄の一つだ。
「素晴らしい献身、まさしく愛だ! 感動した!」
 それが不快な声とともに両腕を広げて駆け寄る様子を見せると、すかさずロックオンが身を翻して僕を庇うように間に立ちはだかる。先ほどまでの狂乱でも、彼はこれと同様の動きで僕を庇い、クリームパイの一斉射とシャンパンの奔流をその身に受けたのだった。


 ホームパーティのようなものだと言われた。それがどんなものなのか該当する項目を検索する前に、基地の一画を使って隊員が家族や友人、恋人を伴って交流を深めるのだと説明される。機密はと訊けば、食堂とその周辺だけの立ち入りが許可されるのだというのが答えだった。
 家族、友人、恋人。
 自分が彼にとって、その内のどれに当てはまるのかは明確な答えは出ず、またその場で訊くこともできなかったが、少なくとも友人は一人いる。そして自分のいない彼の日常を垣間見えるならば、それは歓迎すべきことだと感じた。
 同行する旨を伝えると、ロックオンは少し意外そうに目を見開いてから、目尻を下げて笑った。
「一応、服、用意しとくか」
 今思えば、わざわざフォーマルな服で行く必要は皆無だったろう。しかしそういうものだと言われれば、反論するだけの材料がその時の僕にはなかった。今、ロックオンが選んだ濃紺のブレザーの肩には、彼が防ぎきれなかったクリームの飛沫が付着している。
「しかし君は凄まじく淫らな様だなロックオン。まるで輪姦された揚句がん」
「はーい、聞こえなーい、ティエリアは聞こえなーい」
 手袋をしていたために、奇跡的にクリームの被害から免れた両の掌に耳が押さえられる。この程度ではその手を通して振動が伝わるから、遮音の効果はさほどない。しかし、慣れない場で多少なりとも緊張していたらしく、こんな遠慮のない接触に安堵し、心地良さにされるがままになる。袖口から漂う甘ったるい匂いは、会場で嗅いだ不快なそれと同じはずなのだが、今は許容できた。
「集団暴行の後に見えるかどうかはさておいて、シャワーを浴びてきたらどうだい?」
 不快感に気を取られて気づかなかったが、目障りな金髪の毛玉の後ろにはビリーがいた。あの混乱を極めた場でどうやったのか、シャンパンの飛沫もクリームの一滴も付いていない。
「いや、でも」
 言い淀んだ彼の手が浮き、両耳が解放される。視線が躊躇いがちに僕の上を行き来して、僕を置いていくことを気にしているのだとわかった。シャワールームは、今回の立ち入り許可区域から外れているらしい。
「君の大事な人なら心配は無用だ。彼に手を出そうという不埒な輩はこの私が成敗しよう!」
 あんたが一番不埒ですよ!
 恐らく彼はそう叫びたかったに違いない。だが妙なところでモラルの高い彼は、咽喉の隆起を上下させるだけでそれを飲み込んだ。軍の縦関係なんて不便なものだ。
「ちなみに私には人のものに手を出す趣味はない!」
「はい、ウソ!」
 だが、妙なところでモラルの低い彼は、間髪入れずに否定した。この辺りの関係性は、まだ僕には理解できない。あるいは一生理解できないかもしれない。毛玉のことなどどうでもいいが、ロックオンを理解できないと思い切るのには一抹の虚無感を感じた。不思議なものだ。彼のことなんて理解できたことの方が少ないのに。
 無意識の内にロックオンの手を握っていたらしいということに、握り返されて初めて気づく。それを見ていたのか、ビリーが苦笑まじりに告げた。
「心配しなくてもいいよ。僕もいるし、今夜の彼はゲストだ」
「誓えますか? ティエリアとの友情にかけて」
「もちろん宣誓しよう!」
 ビリーの承諾をかき消した毛玉の戯言に、ロックオンは心底心配そうな様子だったが、クリームの甘ったるい匂いに辟易した僕が小さく頷くとようやく了承する。彼は幾度も振り返りながらKEEP OUTのテープで仕切られた区間に消えていった。






「……予想はできたはずだ」
「なにがだい?」
 ロックオンの背中が角の向こうに消えてから、それを見送っていたティエリアが呟いた。
「この事態が、だ。初めてではないのだろう、あの惨状は。なら避けられたはずだ。参加しないという選択肢だってあった」
 なるほど、確かに疑問だろう。誰も好き好んでクリームパイを顔面に張りつけたりはしないし、シャンパンを頭から浴びせられたりもしない。常識と理性、そして理屈をもって考えればそうに決まっている。僕の貴重な友人は、常識はともかく後の二者に徹底したがる人だった。
「普通はそうけどね。まあ、これは人間社会における特殊例なんだよ」
「何を言う、カタギリ。これは我が隊の伝統行事だぞ」
「初めて二年と経っていないのに伝統というのは伝統に失礼だよ、グラハム」
「ならば私が伝統を作ってみせよう!」
 無意味だと思う。MSWADは、いや彼は、すでに生ける伝説と化していた。だがそれを彼に言ったところで事態は絶対に好転しないので、言わない。
「彼が集中放火を受けていたのも不可解だ」
「君を庇ったんじゃないのかい?」
「違うなカタギリ。狙われていたのはロックオンだ。ジョシュアなどティエリア・アーデの存在に気づいていたかどうかすら怪しい。ロックオンが彼を庇ったのは、巻き添えから守ったにすぎんよ」
「ジョシュアが彼を狙ったのは、君に当てられなかったフラストレーションのせいだと思うけどねぇ」
 グラハムは一通りのメンバーに先制してクリームパイを命中させたあとは、彼の駆るフラッグの回避能力の根源を見せつけんばかりに避けまくっていた。グラハムのクリームパイによる凌辱にも関わらず、生身でグラハムスペシャルとやらを体現してしまう彼を信奉する、奇特な者が多いこの隊にも常識的な例外はいる。だがそんな人間は報われないのが世の常だ。僕はそのことを良く知っていたので、最初から敵味方識別コードの対象にすらならないよう心がけている。
 おっと、話が逸れた。
「うん、ほら、ロックオンは優しいから」
「優しい?」
「そういう悪ふざけが許される相手だということだよ」
「それは優しさに起因するものなのか?」
 彼と友人として交流を初めてからそれなりの時間が経過した。その中でわかったことの一つだが、彼は決して冗談の類を言わない。数々の冗談のような事件がそれを物語っていた。基本的に必要なことだけをストレートに聞いてくる。それは彼と僕の共通の趣味であるコンピューター関係の話題とて例外ではなかった。
「人柄、といえばいいのかな。彼は優しくて面倒見が良いから、皆は甘えてるのさ。一応言っておくけど、悪意ではないよ」
「むしろ好意を抱くよ」
 このとき、グラハムはともかく、僕は迂闊にも冗談を言っていた。僕がもう少し真面目だったら、以下のような深刻な話題にはしなかっただろう。あるいはそれが不誠実だと罵られようと。
「少し話をした何人かにも言われた。彼は優しいと。それは一体何を指して言っているんだ?」
 彼の口調は僕が予想していたのより遥かに深刻な響きをもっていた。ティエリアは豊かな知識と幼い意識を合わせ持つ矛盾を抱えた存在だ。その矛盾が、疑問にぶち当たったときの彼を弱く、そして切実にする。
「彼のどこが優しいと言うんだ。彼は少しも優しくなんかない」
「ほう、夜の彼は優しくないか?」
 返す言葉に迷う僕も悪いが、この男よりはましだと思う。救いは、ティエリアの幼い意識がグラハムの言葉の上澄みだけを捉えたことか。
「夜だけ傍にいるのが優しさなら、朝に僕から離れてしまうのは何だというんだ。いや、それは良い。それについて僕は譲歩することに決めた。だが、彼が僕といる理由が優しさだなんて、僕は真っ平だ。断じて御免蒙る」
 ロックオン・ストラトス少尉は男女問わず人気がある。上官からは信頼され、同僚からは親しまれ、部下には尊敬され、女性には親しみと羨望を折半した眼差しを送られる。どうして彼を? そう訊けば、大半の人間は優しいからだと答えるだろう。明るい人当たりの良い人柄と、良く気がつく性格と、器用さがそうさせる。
 だが僕が彼と、他の隊員以上に親しくしているのは、それらが意識して生成されていると感じたからだ。生来のものというには生々しさを欠く彼の善良さは、その捻れと努力を想起させ、これはまたひねくれた話だが、彼のそんなところにこそ僕はかえって親しみを覚えた。
 自分のことなら何とでも考察できる。だが、他人の、友人の心情となるとそこは不可視領域だ。常に二人きりの家に引きこもっている彼に、ロックオンを知る第三者の存在が何かしら影響を与えたことは理解できるが、そこから波紋を広げた友人の心情を、僕はどう宥めれば良いのかわからなかった。
 ましてこの友人は僕より優れた観察眼を持っている。僕が言うべきことは、なにもない。


「では、なぜ君は彼といるのかな?」
 沈黙を破ったのは、もう一人の第三者だった。
 自信か確信か、あるいは自分は蚊帳の外だという安心でもあるのか、グラハムの声にはいつでも淀みがない。迷っている人間には、それがあたかも天の啓示であるかのように感じてしまうほどに。彼がその問題行動や傲慢な態度にも関わらず隊員に信頼されているのは、それによるところが大きいのだろう。戦場において、迷いは死を近くする。
 だがティエリアは答えられなかった。ティエリアの幼さを知る者から見れば、グラハムの物言いはあまりに傲慢で、あまりに鋭く、あまりに残酷だ。整った唇が震え始めたとき、先んじて傲慢な舌が耳を塞いだ。
「それは恋だ。ティエリア・アーデ」
「恋?」
 震えていた唇が、与えられた言葉をなぞった。果たしてそれに意味があったのかと言えば微妙なところだ。あまりの発言のあまりの断言っぷりに言葉を失った僕は、意識を取り戻して疑問を抱く。ティエリアは愛だの恋だのの、せめて概念くらいは知っているのだろうか。
「誰もが真実の恋を、そして愛を探している。だから他人のそれに打算や優しさを見出して否定したがるのさ。今日、君が会った者たちは皆、君たちが羨ましくて仕方ないのだよ」
 菓子箱の中からキャンディをつまみ上げるように、恋人を選ぶこの男にだけは愛を語って欲しくないと思いながら、ロックオンが慕われるのが彼の器用な優しさなら、グラハムが信奉されるのはこうした奔放で率直で断定的な物言いだと僕は見ている。もしかして、あるいは、可能性は極めて低いが、グラハムの奔放すぎる恋も真実のそれを求めるが故の行動なのだろうか。
「これが、恋?」
「恋だ」
「本当に?」
「まさしく」
「こい……」
「恋だ」
 キャンディよりも安く遣り取りされる言葉に、僕も耐性がついたらしい。恐ろしいことに、それでいいかと思えてきたのだ。もっと恐ろしいのは、グラハムが真実を言い当てている可能性が決して低くはないことだった。彼の慧眼には恐れ入るが、それが現在のあまりそうは思えないがそれなりに切迫した状況を打破しているのだから、この際は良しとしよう。
 僕は繰り返しながらも信じ切れないでいる友人に、一つの補注をつけることにした。ティエリアにはグラハムの超理論ではなく、理屈の方が飲み込みやすい。
「珍しくも、僕はグラハムと同意見だよ、ティエリア。それが恋だと仮定するなら、僕は君たちが一緒にいる理由を、それなりに説明できるしね」
「ビリー?」
 複雑怪奇な情報の交錯に、彼の明晰な頭脳も処理落ちを起こしていた。先ほどから大して意味のある言葉を発していない。だからこそグラハムとの会話が、それこそおそらく過去最長であろう時間続いているのだ。
 しかし彼がそういった混乱を嫌っているのも知っているし、友人といえど年長者としてたまには助言もしてあげても良い。不器用な演算を続ける子には、エスケープキーも有効なのだ。
「恋心だけは解析不能。僕の持論だよ」






 ロックオンの運転で車が走り出した時、ようやく安心できた気がする。助手席に身を預けて深く息を吐き出すと、運転席から手が伸びてくしゃりと髪を撫でた。見知らぬ人間から親しげに話しかけられるというのは酷く不慣れで、彼らに悪意がないことを理解していても、恐怖に近い感情を煽られる。
 そして彼らの口から語られるロックオン・ストラトスは、まるで僕と彼らとの共通のコードであるかのように用いられ、そのコードに必ず付随した優しいという言葉は、僕と彼らとの間に齟齬をもたらし、はっきりと僕を不快にさせた。密閉された二人だけの空間と、ロックオンの運転しながらのたどたどしい手つきはそうしたものを僕から払拭する。
「っくし」
 くしゃみに合わせてハンドルが揺らぎ、車が一瞬左右にぶれた。対向車がなかったのが幸いして、彼はすぐさま何事もなかったように車を車線に戻す。
「いつもちゃんと乾かせと言うのはあなたなのに」
 指を伸ばしてロックオンの髪に触れると、ひやりと冷たく濡れた感触が絡まる。車をぶれさせた原因だ。いつもは波打つ毛先がぺたりと頬に張りついているのを掬い取ると、彼はくすぐったそうに身を捩った。
「お前が心配だったの! 大急ぎで戻ってみれば、案の定隊長にハグされてたくせに!」


 その男が告げた単語は知っていた。だが、その意味はどこを探しても抽象的な言葉の羅列でしかなく、人間とはそういう曖昧な感情の動きを持つらしいと、知ることしかできなかったのが僕だ。今の自分の現状がそれに該当するのだとわかった時、不思議と何かが緩んだ気がした。曖昧なのは変わらないのに、それに名前が与えられただけで酷く安堵する。相変わらず何一つ理解などできていないのに、それは一つの答えなのだとは理解した。
「これが……恋か」
 不愉快だが、僕の知らないことを知っている男に抱きしめられたのと、濡れた髪もそのままに駆け戻ったロックオンが悲鳴を上げたのは、僕がそう呟いた直後だった。


「隊長のことが大嫌いなはずのお前が、すっごい可愛い顔で笑ってるし、隊長は剥がせないし、カタギリさんは笑ってるだけだし、寿命が縮むかと思ったんだぞ? こら、笑うな」
 ハンドルから外した右手で、軽く額を叩かれる。余裕がないのは彼の方なのに、ものを教えるかのような言い方がおかしくて、また笑ってしまった。そうして少し歪んだ輪郭を、ロックオンの指が辿る。いつも運転するときはグローブに包まれているが、今日は素手だ。着けていた手袋はクリームとシャンパンにまみれてダストシュートに放り込まれていた。
 少し硬い指先に表情をなぞられて、自分の笑顔というものの形を理解する。あの言葉を見つけたとき、確かに自分は笑っていたのだ。
「ったく、俺がどんな気持ちだったと思う」
 最後にくしゃりと髪を撫でて、彼の指は離れていった。代わりに今度はこちらから手を伸ばす。僕は答えをもう持っていた。
「わかるような気がする」
「へ?」
 ロックオンは意外そうに小さく声を上げたが、視線を前から外すことはなかった。その横顔を彼がしたようになぞるが、どうにも足りない。手に入れたばかりの答えを告げるには、もう少し。
 シートベルトを外して身を乗り出す。ギアに触れないようにしながら、彼の右腕に上半身を張りつけるように身体を寄せた。
「ティエリア?」
 訝る耳に、今日得たばかりの答えを囁く。一緒にいる理由も、彼のいない不安も、飢餓にも似た欲求も、顔を笑みに歪めるのも、全てその解析不能な言葉で説明できるのだそうだ。不可解だが便利な言葉だと思う。だから乱用はしないと決めた。今だけだ。
 濡れた髪が額に触れて少し冷たい。けれども答えを聞いたロックオンが肩に回した腕からは、家で使っているのとは違う石鹸の匂いと、彼の緩やかな体温が伝わってきた。