それは、掌で包めそうなくらい小さな頭と、曲線的なフォルム、そしてそれを覆う柔らかな毛皮を持つ忙しない生き物だった。いつまでもクッションの上で眠っていたかと思ったら、不意に目覚めて家中を細い四本の足をちょこまかと動かして駆けまわる。基本的な動作は鈍くたどたどしいのに、風に揺れるカーテンに飛び移ろうとしたときの俊敏さには驚愕した。
「ま、猫だからなぁ」
 率直に感想を述べてみたら、ロックオンは苦笑してそう告げた。その膝の上では、広いそこが気に入ったのか先ほどまでカーテンにぶら下がっていた小さな身体がうずくまっている。その指先ほどの小さな額をな撫でるロックオンの仕草があまりに穏やかで、優しかったので少しだけつまらなく思った。
 休日の午後、彼の膝を独占してまどろむのは僕だけに与えられた権利であったし、いつもは手袋で覆われている指先が撫でる額は僕のもののはずだ。毛玉のような塊に、なぜ彼がそこまで構うのか、理解しがたい。
 目を伏せて膝の上の毛玉を見ていたロックオンが、不意に顔をあげて視線がぶつかる。後ろめたさのようなものを感じて、少しだけ心拍が上がった。それを見透かしたように、ロックオンは手を差し出す。
「こっち来いよ。ティエリアも。おいで」
 毛玉と同列に扱った言動が癪に障らないでもないが、抗う理由はどこにもなかった。ローテーブルを回り込んで、ソファに腰かけた彼のすぐ隣、脇に密着するように座る。すかさず肩に回る腕に任せて、彼の肩に午睡を望む頭を預けた。旋毛の辺りに触れるロックオンの顎の重みに、瞼が押し下げられていく。
 そうやって下がった視線の先に青い瞳があった。豆粒のように小さいが、丸く開いて見上げてくるそれには、どこか圧倒されるような気持がする。ちっぽけで、弱々しくて、そのくせロックオンの関心を集めるそれは、確かに生き物なのだと認識したのは、たぶんその時が最初だ。
「可愛いだろ?」
 ロックオンが空いた手でその小さな咽喉、それこそ指で回りきるほど小さなそれをそっとくすぐると、毛玉はそこから唸るような声を出した。唸るというには少し音程が高いような気もするし、一応あるらしい表情にも、不機嫌な様子は見られない。
 これが猫。
「明日、引き取り手を探して来るから。お前に負けないほどの美人だ、きっとすぐ見つかるさ」
 




 
 パソコンルームには入れないように、そしてできるだけ目を離さないように。そう言われたので、その日はプログラミングもデイトレードも諦めるしかなかった。そして、俺はすぐにロックオンの言いつけの意味を理解する。
 最初は良かった。ソファの隅を陣取り、じっとうずくまって眠っているだけなのだから。時折起きだしてテーブルの下にもぐりこみ、あるいは戸棚の上に飛び乗るが、その後はまた毛玉の姿で休止する。だが、午後に入って何かのスイッチが切り替わったらしい。
 カーテンの裾は鋭い爪で引っ掻かれ、繊維がほつれて無残な有様になったし、ソファには浅いがはっきりとした引っ掻き傷がつけられた。ロックオンが椅子にひっかけていたジャケットは引きずりおろされ、もみくちゃにされた揚句に寝床にされている。
 それだけなら良かった。干渉するには値しない。だが配線が埋め込まれている柱に爪を立てるのだけはさすがに看過しえず、やむなく俺はふよふよと曲げられていたその尾を掴んで柱から引き離した。大して力を入れたわけではないが、生き物の身体は見た目以上に軽く、毛玉はフローリングをさらりと滑って手元にまで来てしまう。そのとき聞こえたのは、夏に聞いたセミの鳴き声にも似たしゃがれた叫びで、その声のあまりの異様さに俺は思わず手を離してしまった。
 尾を解放された毛玉は、目まぐるしい俊敏な動きで床を蹴り、ソファの背もたれの上に飛び退る。背骨の存在を疑いたくなるほどの勾配で曲げられた背と、咽喉の奥から絞り出されたようなしゃがれた声は、威嚇行動なのだろうと見当をつけた。収縮した瞳孔が鋭い眼光となって真っすぐに見つめてくる。
 他にやることもないのでその目を見つめ返すことにした。最初見たときにはガラス玉のようだと思ったが、かすかに認められる眼球運動と、微妙に変化する色合いとが生き物の器官であると告げている。視点を広げてみれば、その身体は何もかもが小さい。ぴんと立った耳も、ソファに食い込んだ爪も、膨張したように見える尾も。そのちっぽけな毛皮の中に敵意と緊張をみなぎらせて張り詰めている姿は少し滑稽で、哀れで、少しだけ、ほんの少しだけ自分に似ているのかもしれないと思った。唾吐すべき不快な記憶だが、ある男に対するときの自分を、そう例えられたこともある。
「ふ……」
 状況は緊迫していたはずなのだが、呼気と共に身体から力が抜けた。大きな窓からリビングに差し込む暖かな陽射の所為かも知れないし、あまりに下らない記憶を再生したことで脳が拒絶反応を示したのかもしれない。そしてあるいは、目の前の個体がどうやら生き物で、しかも自分に近いものであるかのように感じたことで、警戒心が解かれたのかもしれない。この家で暮らし始めて、俺の中に溢れていた猜疑心や警戒心は次々と骨抜きにされていく。
 瞼が重い。休日は夜の内で睡眠に充てる時間が少なくなりがちなので、休み明けはどうしても身体が睡眠を求めていた。下がる瞼の隙間から、青い豆粒のような瞳が見える。ぴんと張りつめていた尾が下げられていくのが見えたが、それがどう着地したのか、俺は知ることはできなかった。
 



 目覚めたとき、開いたままのカーテンから見えるのは夜空だった。だから、タイマーで自動開閉するブラインドにしようと言ったのに。ロックオンが主張した布のカーテンも引き裂かれたことだし、今度こそこちらの主張を通そう。
 そこで意識が完全に覚醒する。カーテンを引き裂いた張本人は、どこにいった。
 思わずソファから腰を浮かしたとき、膝の上に暖かい何かが乗っていたことに気づく。立ち上がったことで、それはころころと床に落ちたが、毛皮と丸い身体が功を奏して大した衝撃にはならなかったらしい。
「うなぁ」
 気の抜けた声と共に青い瞳がこちらを見上げた。ひとまず安堵してソファに座り直し膝の上に手を置くと、そこに自分以外の体温を感じる。ロックオンはまだ帰宅していないから、体温の主は眼下で小さく座っている毛玉だ。
 ロックオンがそうしていたように、その襟首(に該当するであろう部分の毛皮)を掴んで持ち上げてみた。青い豆粒のような瞳は、間近で見るとその身体の割には大きいことがわかる。
「これが、猫か」
「ふゃぁう」








 先日、久しぶりに姉からかかってきた電話は、過去の例にもれず頼みごとだった。薄情でも理不尽でも傲慢でもないが、結婚して家を出て、年に一度会う程度になると、家族などそういった決定打がなければ接触を持とうとしないだろう。そして僕がその依頼に応じるのはフィフティ・フィフティが良いところだ。
 しかし今回はその良い方の半分の例になりそうだ。意外な人物から申し出があり、メールで姉の意向を伝えたところ、解像度を改造したカメラで撮られた写真も手伝って、了承はすぐに得られた。
「いいよ。丁度姪っ子が欲しがっていたんだ」
 ロックオンにしてみても僕の返答はそうだったらしく、喜び以上に困惑が深緑の中に浮かんだ。彼の本命は実家で八匹の猫を飼っているというジョシュアか、家庭的な彼女がいるらしいダリルだったのだろう。だが、僕としても日頃無沙汰している血縁へのサービスと、困っている友人への助け、両方を叶える答えを変えるつもりはない。この一回の貸しで得られる利益は決して軽視はできないのだ。
「ほう、君に姪がいるとは初耳だ。美人か?」
 話に身体ごと割って入るグラハムのことは黙殺するに限る。話が進まないし、何より興味の方向が不穏だ。
「でも、いいのかい? 君のところでも飼えないことはないだろう」
「いや、うちはちょっと」
「可愛い子猫は、二匹はいらないか?」
 言いよどむロックオンを、めげるという概念を知らないグラハムが切りつける。しかしまあ、そういうことなのだろう。グラハムの表現は子猫と子猫の飼い主に失礼で、飼い主にとっては手痛い言葉なのかもしれない。だが、同情する気にはなれなかった。ロックオンの表情は幸せを塗りたくったようにふやけていて、それはある種の人間にとっては神経を逆撫でるものに他ならないのだから。
 

「君たちのスイートホームを訪れるのも久しぶりだな」
「っていうか何で隊長までいるんですか」
「君の可愛い子猫に会いに来たに決まっているだろう」
 春とはいえ、日が沈めば気温の低下は厳しい。仕事明けで疲れている身体に夜風はなかなか堪えているのだが、パイロットという人種はどうしてこうも元気なんだろう。慣れたこととはいえ、いささかうんざりした。僕としてはさっさと目的のものを受け取って、引き渡し、ボランティア活動を終えて事後交渉に移りたいのだが、この面子がそろうと事態はいつだって悪化と長期化を辿る。こと、仕事以外は。
「言っておきますけど、ティエリアに触らないでくださいね。追いかけるのも禁止。承知していただけないのなら、このドアは絶対に開きませんよ」
 そうなのだろう。僕とグラハムがここを初めて訪れて以来、何度かここを訪ねる機会があったが、その度に設置されているセキュリティは微妙に異なっている。パスワードに至っては、ロックオンが同じナンバーを入力したことは一度としてなかった。
「触らないし、追いかけない。約束しよう。男の誓いに訂正はない」
 それは恐らく、僕や侵入者というよりも、胸に手を当てて宣誓してみせた男の所為だろう。当然のことだが、グラハムは彼に毛虫のように嫌われているから。彼がグラハムと対峙するとき、それはまさしく毛を逆立てた猫と化す。猫の生態には専門外なので詳しくはないが、まあこの家で猫を飼うのは無理かもしれない。この小さな家で縄張り争いくらいは起こりうるだろうから。
 ようやくロックが解除され、冷たい夜風から逃れられると思ったら、目の前を先行するロックオンがぴたりと歩みを止めた。
「なに、どうし」
「し」
 口元にグラハムの人差し指が当てられる。この二人が同時に反応するということは。
 一瞬、不穏な予感が胸をよぎり、背中が嫌な汗で濡れた。この家にいるはずの幼い友人の安否を確認しようと、傍らのロックオンを見た僕の耳に、その声は届いた。
「何度言えばわかる。にゃあ、だ」
「うなぁう」
「猫というものはにゃあ、と鳴くものだろう。猫ならそれらしく鳴いてみろ」
「むぁう」
「違う。にゃあ、だ。にゃあ」
「みゃあ」
「そうだ、もう一度。にゃあー」



「……かっわいいなぁ……」
 小さく呟いてその場にしゃがみこむ。長身の男三人が並んで半ば密閉されていた玄関に隙間ができ、冷たい風がそこに吹き込んだ。
「うん、それはわかったし認めるのもやぶさかじゃないんだけどさ、とりあえず寒いから入れてくれないかなー、ロックオン?」
「ああ、抱きしめたいなぁ、ロックオン」
 後ろには僕の真っ当な訴えに同調する振りをして勝手をほざく同僚がいて、前には聞いてすらいないで色ぼけている同僚がいる。前門の虎云々でも四面楚歌でもいい。要するに僕の味方はこの場にいない。頼りになるのは、胸ポケットに入れてあった携帯端末くらいのものだ。起動させ、録画モードに切り替える。
「うわあ、俺、あんなに可愛いの飼ってるんだぁ……」
「にゃー」
 風は冷たく、空は暗い。状況は混乱を極め、最初の目的すら達成が危うくなってきた。うまい話だと思っていたが、猫の額の上で踊らされているような状況ではそうもいかないらしい。僕にできるのは、せめてもの収穫を求めて録画を続けることだけだ。そしてカメラに入ろうとするグラハムを足で押しのけたとき、もう一度と願っていた声が聞こえた。
「にゃあー」
 かくして子猫の夜は更けていく。