ティエリアがきちんとベルトを締めたのを確認した後、エンジンをかける。昼夜が逆転した双眸に日差しは眩しく、無意識に目を細めた。その隣でティエリアが小さく欠伸をしたのに気づく。俺が睡眠時間を削らせるようなことはあるものの、基本的に彼は寝たいときに寝て、起きたいときに起きるような生活を送っているため、こうもあからさまに眠たそうにするのは珍しいと言えた。
 普段しないような出迎え。眠たげな横顔。そしてここにいないもうひとりのことを思い、俺は自分の目論見の浅はかさを早くも後悔した。強引に二人きりにしてしまえば意外と上手くいくのではと思いはしたのだけれど、それは無謀な賭けだったのだろうか。はっきり問うことも出来ず、隣でぼんやりと車外の景色を眺めているティエリアに、婉曲に問いかける。そういえば、こうして二人きりでいること自体久しぶりなのだ。
「……昨日、ちゃんと眠れたか?」
 俺がいないと眠ることすら満足に出来ない、と責め立てられたのはしばらく前のことで、今もそうであると自惚れる気はない。無表情かと思えば、すぐ感情的になって泣いたりする幼さは、最近の彼からはあまり見受けられなくなった。
 その代わりにライルが来てから、ティエリアは感情を押し殺して微笑ったり、何かを口にしようとして言いよどんだりすることが多くなった。そうさせるつもりはなかったのに、どうすればいいのか分からないままだ。
 ティエリアのために金を受け取り、素直にライルを送り出せばよかったのか。過去は過去として留めるべきだったのか。十年間で出来た距離を諦めて。そのどちらも選べないまま我が侭を押し通そうとしている。それでも、俺は。
「ライルに、」
「え?」
「ライル・ディランディに朝早く起こされたんだ。朝食を作ろうと言われて、それで、」
 そう言って口許にやっていた手をじっと見つめたところで、貼り付けてあったいくつかの絆創膏にようやく気づいた。利き手にふたつと、もう一方にひとつ。思わず注視してしまったところで、ティエリアが前、とちいさく呟いたので、慌てて向き直る。視線だけはフロントガラスの向こう側にやりながらも、完全に意識は隣へ行ってしまっていた。ぎこちない声で続きを促す。
「それで、上手く作れたのか」
「いや、見ての通りだ。ライルのおかげで食品にはなったが、色々驚いていた」
「へえ…」
 ティエリア自身は淡々と言ってのけたが、刃物を握る手つきの危なっかしさを思い出して肝が冷える思いがした。元々不器用なのと、不慣れな行為で身体の余計なところに力が入るのか、彼をキッチンに放置しておくと間もなく何処かに怪我を負ってくる。その上、上手く作れなかったと言って必要以上に落ち込む。
 しかし俺とてティエリアがレトルト食品とカロリービスケットのみしか用意出来ないという事実を良しとしているわけではない。そのため、まずは達成感を覚えさせるために手軽なものからというのが当面の計画だった。
 最初は手伝いから始めていって、サンドイッチやサラダのような火を使わないものから徐々に上手くなっていけばいい。そう思っていたのだが、そんなことがライルに伝わる筈もない。俺よりも格段に料理の上手い弟にとって、ティエリアの腕はまさに脅威だろう。その先を聞くのが怖くて何となく押し黙っていると、くすくすとティエリアが笑い出した。
「だが、徹頭徹尾自分でやるというのも悪くなかった」
「……ティエリア?」
 しかし、俺の思い描く阿鼻叫喚の図とは少し違う、楽しそうな有様に軽く目を見開く。指先の傷にすら笑いかけながら、相手が続けた。
「ライルはあなたのように、傷が出来たくらいでは止めないから。結局最初から最後まで僕がつくって、」
「お前が!?」
「ロックオン、前だ」
 冷静に指摘され、慌てて前に向き直った。別にいつもフロントに目を向けている必要はなかったのだが、彼に運転を教えている手前、自分が教えていることはきちんと守らねばならない。運転中、ティエリアは何が嬉しかったのか、じっとこちらの横顔を見つめているときがあったので。
 どうやら、最初の印象とは異なりそれなりに仲良くやっていると思って良いのだろうか。ちらりと一瞥したティエリアの横顔は穏やかで、何かを耐えている様子はない。心配なのは指先の怪我くらいで、それも朝食を作り上げたという名誉の負傷ならば致し方在るまい。しばらく沈黙を飼い慣らした後、意を決して口を開いた。見当違いでないことを祈った。
「……仲良くなれた?」
 強引に彼と弟を二人きりにした手前、それを聞くのはかなりの勇気が要った。フロントから目を離せなかったのは、運転中だからではない。相手の目を見られなかった。それだけだ。返答までの僅かな沈黙が、途方もなく長い時間のように思えた。
「一緒に料理をして、一緒に食事をした。髪が鬱陶しいと言って切ってくれた。あなたの弟は本当に器用だな。羨ましい」
 言われて、ようやく顔周りの毛先がすっきりしていることに気がつく。普段は伸びたら俺が切ってやるのだが、ここのところの多忙や何やらですっかり忘れていた。保護者失格だな、と胸中で独りごちる。その横でティエリアはふわりと笑い、それから、と付け加えた。
「寝室で一緒に寝たら、シーツに煙草の匂いがついた。あれは強烈だな。すぐに移って―――」
「…………へ?」
 我ながら間の抜けた声を漏らしたと思う。そして自動的に身体が車を道の隅に寄せ、サイドブレーキをかけた。前を見ろというやり取りをするつもりなど毛頭ない。エンジンだけをかけたまま、助手席で笑っているティエリアを見やる。ハンドルに指先が貼り付いたように動かず、ぎこちなく首をもたげるだけで精一杯だった。
「お前、何言って…」
「本当に、隣で眠っただけだ。それ以上はない」
「あってたまるか!」
 思わず声を荒げてしまった。その勢いのまま助手席に身を乗り上げ、身体を引き寄せる。腫れ物にさわるような態度の反動で、加減すら出来ないでいた。顎を乱暴に捕らえて噛みつくように口づける。頼りない薄い唇の感触を愉しむ余裕すらなく、強引に歯列を割って貪る。その奥に触れた熱さに眩暈がしそうだ。
「んっ、うぅ…」
 苦しそうに漏れる息の音に煽られ、無意識に抑えつけた手のひらに力が入る。衝動に任せながらも、触れる身体の何処にも煙草の匂いがないことに安心していた。彼自身の甘い肌の匂いと、家の匂い。どれも俺が知っているものばかりだ。俺が。俺だけが。
 ティエリアの密やかな呼吸音を捻り潰さんばかりに、皮膚に痕がつくほど強く顎を掴む。こぼれおちた唾液が指先を濡らしていくのも構わず、何度も、何度も唇とその奥の粘膜を貪った。唯のキスのくせに強姦しているような暴力性を孕んでいたけれど、相手は黙って息だけをしながらそれを受け入れていた。時折キスの隙間に漏れる呼吸の音だけがやさしかった。
「はぁ、あ…」
 狭い助手席の上で唇が離れ、ティエリアが何度目か分からずため息を吐いた。不意に鼻をついた鉄の匂いで我に返る。つめたい指先が俺の口の端に触れ、にぶい痛みにようやく唇を切っていたことに気づいた。強引に押しつけていたせいで、相手の歯が当たったのだろう。自業自得もいいところなのに、ティエリアは赤い瞳を哀しげに眇めた。彼は俺が傷つくのをひどく厭うようなので。
 唇を撫でていた指が顎を滑り、そのまま首筋を辿って背中に回る。宥めるように今度は背を撫でられ、俺とは全く違う、やさしい触れ方をぼんやりと受け入れた。衝動で麻痺した頭が、子どものように慣れ親しんだ匂いを探していた。
「怒っているのか」
 抱きしめられたまま、耳元でぽつりと囁かれる。酸素を散々奪ってしまったせいで、彼が絞り出した声はいまにも消えそうだ。
「…………当たり前だろ。こんな、」
 こちらも上手く言葉が出せない。感情ばかりが先回りして、何を言うべきなのかすらも分からなかった。唯、寄り添ってくる背中に腕を回してつなぎ止める。ティエリアが、ここにいるのだと思った。そうしてようやく安堵できる。彼の控えめな触れ方も、匂いも、すべて俺のものなのだと。そんな、子どもじみた確信を欲しがっていた。
 きっと本当に何もないのだ。そういう意味で疑うほど二人を理解していないわけではない。唯、そんなことは充分に分かってなお、こういうことをしてしまう自分の欲の強さに呆れ果てる。ライルがいて、ティエリアがいる。それだけで満たされて幸せなのだと思えたのに。
「ライル・ディランディと、どうしたら近づけるのかわからなかった。あなたが望むように。家族に、それで……、」
「それで?」
 口にしかけて押し黙った言葉の続きを促す。ティエリアは少し困ったようにため息を吐いた後、耳たぶを囓られそうな近さでその続きを口にした。煽っているわけではなく、あまり大きな声で言いたくなかったのだろう。
「セックスはしなくとも、眠ってみれば、と思った。あなたが、距離を縮める方法だと言ったから」
 淋しさから俺を繋ぎ止めようとするティエリアを、初めて抱いたときの言葉を思い出す。確かに俺たちの関係はあのときから変わった。好きだとか、大丈夫だとか、そんな言葉をいくら重ねても伝わらないものが、唯一度触れるだけで伝わることもある。
「何かわかった?」
「…煙草臭いことと、寝相は良いことは」
「はは。確かに寝相良くなきゃ、あのソファで眠れねえよ」
 リビングに置いてあるソファは、成人男性が眠るには小さいつくりだ。実際はそれほど小さいものを選んだ自覚はなかったのだが、たまにそこで事に至るときその小ささを実感する。行為に夢中になって、相手がソファから落ちてしまわないかいつも気を遣うので、これを期に一回り大きいものを買い直すべきか悩んでいる。ベッドとは違う、その狭さも悪くはないので、なかなか踏み切れないでいるのだが。
 形の良い頭を撫でた後、最後にひとつ質問を投げる。今度はすんなりと口をついて出たことに自分で驚いた。
「距離、縮んだ?」
 そう問いかけながら抱きしめる腕の力を強めるのに、矛盾を感じないわけではないけれど。ティエリアは肩口で僅かに頷いて、それ以上動こうともしなかった。彼がどんなことを考え、どんな風にライルと接し、今ここにいるのかは分からないけれど。こちらを包む腕に躊躇いがないのは確かだった。たぶん、上手くいったのだろう。
「そいつは良かった……って、素直に喜べねえけどな」
「いいんだ。あなたも、淋しくなれば」
 そう言ってくすくすと笑うので、仕返しに腕の拘束を強める。いい加減苦しいだろうに、相手は何も言わなかった。俺がそうであるように、ティエリアもまた距離を埋めたがっていたのかと、都合のいいことを思って口の端をつり上げる。しかし、俺はそれ以上のことを考えようとはしなかった。ティエリアが、ライルが感じている距離というものを、本当の意味では。
「淋しかねえよ」
 引き寄せたまるい頭をそっと撫でた後、髪に鼻を埋める。こぼれる匂いと温かさに息を吐いた。髪の毛が切れた口の端を掠めて少し痒くなったけれど、構わずに続ける。
「俺は、お前らがいるから大丈夫だ」
 言葉と共に赤く染まった外耳にちゅ、と音を立てて口づける。それに応えるように腕が首に回され、やがて触れるだけのキスが与えられた。ティエリアなりの喜びの示し方なのだ。欲よりも淡い感情を交わし合うような行為は、俺のしたような荒々しさとはかけ離れていて優しかった。幼く求めるだけの子どもはもう何処にもいないのだ。
 気がつけば最近は、こちらばかりが求めている。与え続けるふりをしている分、質が悪い。結局、自分の望みばかりなのだ。幸福感だけを噛みしめていようと思うのに、気がつけばもっともっと欲しがってしまう。以前の俺はもう少し諦められていた筈なのに、今はその加減すら思い出せないでいた。






 オレとティエリアが作りたてのピラフで、兄さんが朝食の残りなのは嫌がらせでも何でもない。たとえよれたサンドイッチと薄すぎるスープでも、これは兄さんが食べることそれ自体に意義がある。むしろオレの気遣いを褒めて欲しいくらいだ。
 兄さんと話す合間に、ティエリアが口にスプーンを運ぶと、オレが軽くした毛先がふわりと揺れる。長さも軽さも申し分なく、我ながら良い出来だと思い、あわよくば兄さんが気づいて話題に上ることを期待していた。しかしその淡い願望が、気づかなくていいものを気づかせてしまった。気づいた自分に心底後悔したが、目を離せないので仕方がない。
「よくできてるじゃねえか。うまいぜ、これ」
「教師が優秀なんだ。このピラフの味もいい」
「あ……そう? そいつは良かった」
 不意に話を振られ、慌てておざなりな返答を口にする。その一方でオレは、ティエリアの首に刻まれた赤い痕が気になって仕方がなかった。髪でも服でも隠しようもない、喉のすぐ脇辺りにべっとりと刻まれたそれは、あまりにも堂々としているせいで違うのだと思いたくなる。しかし、見れば見るほど間違えようもないそれで。
「しばらく、料理はライルに教わろうと思う」
「いいんじゃねえの? ティエリアをよろしくな、ライル」
 そう言って、兄さんが口の端をつり上げる。そのときに一瞬、オレと同じものを見たことに、気づいてしまった。やはりあの痕は確信犯なのか。子供じみた行動に声も出なくなった。仲良くしろと言ったのはお前だろうと嫌みのひとつも言いたくなるが、被害者であるティエリアがあまりにも哀れなのでぐっと堪える。そもそもああいうものに羞恥心を覚える性格なのかすら疑問だが。
「お前らがうまくやってくれたみたいで安心したよ、俺は」
「……よく言う」
「ン? 何か言ったかライル?」
「別に? オレも二人が仲良くて嬉しいデス」
 ため息を吐きながらしなびたサンドイッチに手を伸ばそうとした瞬間、さっと皿を遠ざけられる。追い打ちをかけるように、二人がテーブルの下で手を握っていたのが目に入ってしまい、頭が痛くなった。
 食事の片付けが済んだら、通販で高性能の耳栓でも探そうと思った。夜は静かに眠りたいので。