だって、仕方がなかったのだ。自分は朝に弱く、毎朝強引に揺すり起こされて朝食を食べさせられる。そんな中で言われた言葉を、覚えているはずもない。
 今日は嵐が来るから戸締まりをきちんとしておけ、と。
 同居人の言葉を思い出したのは、目の前の画面が完全に消失した後だった。それはすなわち半日がかりで組んだプログラムが一瞬で消失したということと同義だ。
 動悸の収まらない胸に手を当てて、バックアップはとっていたから問題ないはずだと自分に言い聞かせる。それを確かめようにも、キーボードは一切反応を示さない。パソコンを起動させることすら不可能だった。
 ごう、と風の音がして顔を上げる。そこで初めて部屋の照明も落ちていたことに気づく。窓から差し込むぼんやりとした外の明るさだけが頼りだ。どうやら、この家全体が停電しているらしい。この嵐では外も同様だろう。
 予備電源を作動しようにも、一帯の電気が死んでいてはどうしようもない。諦めて復旧を待つしかなかった。
「…失態だ」
 苛立ちからキーボードに拳を叩きつける。硬質の音がして、キーボードが机を跳ねた。このような不慮の事態にも備えておくべきだった。手のひらの痛みに呼応するように、窓が閃光で明滅する。追って、低くうなるような雷鳴。嵐は激しさを増していくばかりだった。
 更にキーボードを放り投げても、その音は雷鳴にかき消えてしまう。壁にぶつかってから床に倒れるまでが虚しい。気が晴れるどころかささくれて、嵐と同じく荒れてゆく。自分の思うとおりに動かないガラクタを見るのも嫌で、部屋を飛び出した。





 パソコンが使えないからといって、他にすることがあるわけでもなかった。寝室のドアを開けて、セミダブルのベッドに飛び込む。ぼふ、と鈍い音がして、身が沈んでいく感触に、長いため息を吐いた。
 暴力的な風の音と屋根を叩く雨音がやたらと耳につく。嵐の音を除けば、この家はひどく静かだった。がらんどうに響く嵐の音に胸がざわめく。いつもと同じ場所なのに、知らないところのようだ。いつもは安心して身を委ねることが出来るのに。何かが足りない。何かが、
(……ああ、)
 思い至ったものに納得したくなくて、シーツに鼻先を押し付けると、洗剤の清潔な匂いがこぼれる。体温はとうに失せて、肌になじむシーツはひんやりと冷たい。よそよそしささえ感じるそれを体になじませようと毛布を巻きつける。
 すると、一緒にベッドの隅にあったシャツも引き寄せられた。白い生成りのシャツは自分には少し大きい。彼が脱ぎ捨てたものだろうか。
 広げると、慣れた匂いが鼻孔を通り抜けた。香水の甘さと、それにほのかに混じる体臭。人の匂いは苦手だが、この匂いには安堵する。じわりと滲む体温を思い出す。シャツに頬を押し付けて、目を伏せた。
 食事をしろだとか、きちんと眠れだとか。朝食ひとつとってもそうだ。彼はいつもこちらの生活に干渉して彼のいいようにしようとする。
 自分の思い通りにならないものは嫌いだ。なのに、この匂いに包まれると受け入れてしまう。ジャンクパーツのように放り投げてしまいたくなるけれど、相手は自分の苛立ちごと包みこんで、気がついたらこの匂いに隙間を埋められるのだ。
 シャツを抱く腕に力を込める。慣れた匂いに包まれて、雷鳴も雨音も遠のいていった。吐き出した息は温かくて、それなのに鼻の奥に涙の気配があった。





 コンソメの匂いに空腹感が刺激される。内臓が低くうなり、その存在を誇示した。のろのろと身を起こして、辺りを見回す。時計を探すが、部屋が暗くて見つけることが出来なかった。
 仕方なくベッドを這い出て、寝室を出る。廊下の明るい照明が眩しくて目を細めた。ぼうっとした頭で、電気が復旧したのだと知る。
 本当ならば真っ先にパソコンを起動させるべきなのだろう。しかし、何故だろう。そんな気になれず、コンソメの匂いのする方へ向かった。
「…お、起きたか」
 小脇に丸めたシャツを抱えてキッチンを覗くと、シャツの主が鍋の前に立っている。味見をしようと皿に舌を寄せているところだったが、こちらに気づいて笑いかけた。
「ひどい嵐だったな。帰れねーかと思った」
 その言葉で、スラックスの裾が濡れそぼっていることに気づいた。そのくせ笑い顔は穏やかで、胸を掻く。眠りに落ちる前に感じた涙の気配が、わけもわからず蘇った。
 それを誤魔化したくて、相手の背中に手を回し、額を押し付ける。コンソメの匂いに混じり、シャツと同じ匂いがした。
 相手は皿を持ったままで、邪魔をされたのに困惑しているだろうか。抱き返せないで、皿で塞がらない方の手が宙をさまよっている。それを確かめて初めて自分は、腕に力を込められる。
「どうかしたか?」
 こちらが聞きたいくらいだ。
 ただ触れたかった、なんて。この匂いにたまらなく安心している、なんて。言えるはずもない。
 空腹感に似た飢えの名前が分からない。こんな感情が自分のなかにあるなんて知らない。だからいっそ受け入れないで欲しい。困惑しているくらいが丁度いい。
「…最悪だ」
 様々なものがないまぜになった感情を、一言で吐き出す。それはひどくありふれた言葉になってしまった。何一つ自分ではつかめないのに。
「半日かけて組んだプログラムが消えた。パソコンも動かない。この嵐のせいで何もできなかった」
「……キーボードが床に叩きつけられてたのは?」
「使えないものはいらない。全部組み換えてやる」
 そうやって過ごしてきた。それでいいと思っていた。組み換えて配線をつなぎ直すだけで終わるような容易いものが全てだった。
 だから、匂いひとつすら乞う自分が信じられなかった。この男を取り外すことがまるきり想像できない自分が。
 知らないものやつかめないことが増えるのは怖い。そのことを相手に知られるのはもっと怖い。あの深い色をした瞳が全てを見抜いてしまいそうで、あの優しい手のひらが全てを感じ取ってしまいそうで、受け入れられるたび逃げ出したくなる。
 それなのに腕ばかりが力を込める。
 自分の思い通りにならない自分が一番、嫌いだ。
「次の休みに買いに行くか?」
 しかし相手は、力を込める指先を苛立ちと取ったようだ。その誤答に安堵した。本当は、換えのパーツなど手元に山ほどあった。けれど頷いた。理由なんてなんでもよかったのだ。彼が近くにいてくれるなら。
 何も悟られず、そのぬくもりだけをかすめ取っていたい。彼の匂いや体温に染められていくのが怖い。それを望まずにはいられない自分も。この存在は麻薬だ。自分を中から壊してしまうから。それなしではいられなくなってしまうから。



 だって。淋しいなんて嘘だ。
 窓を叩く風の音を聞きながら、彼の匂いを感じながら、消えたプログラムも動かないパソコンも思考から抜けて、そんなことを思っていたなんて。