ドアの向こうの喧噪に気づいたのは、パソコンをシャットダウンした後だった。悪い予感がしてドアを開けるのを躊躇っていると、突然目の前でドアが開かれる。そして自分を出迎えたのは、吐き気がしそうなほど脳天気な笑顔。
「いつまで引きこもっている気だ? ティエリア・アーデ!」
 耳障りなほど通りのいい声。目を合わせるのもおぞましい。百回死んで百一回目に水責めに遭った後くすぐり地獄に遭って呼吸困難で死んで欲しい相手だ。折角のロックオンの休日に、何故これが存在するのか。汚らわしい。
 反射的に飛び退き、ロックをかけようとするが、なぜだか端末が赤いエラーメッセージを点灯させ続ける。心臓が早鐘を打つ。嫌な予感がした。
「駄目だよ、天気が良いのに部屋にばかりこもってちゃ」
 金髪のゴミの向こうで穏やかに笑っている男を睨めつけると、意味ありげにウインクをされた。右手にある携帯端末を隠そうともせず、手の中でくるくると弄ぶ様が腹立たしく、視線を逸らす。外に出たら気分が晴れるんじゃないかな、という白々しい言葉を黙殺した。
「それをきみに言われてはおしまいだろう」
「ちょっ……何勝手に開けてるんですか!? 俺が呼んでくるって言ったでしょう!」
「きみと彼を二人きりにすると時間がかかりそうだからな。ほらナニとかアレとか」
「しませんよアンタじゃあるまいし!!」
 来訪者の不在にようやく気づいたのか、ロックオンがこちらへと駆け寄ってきた。同居人は軽く勝手に開けるというが、この部屋には彼の知らない何重ものロックがかかっている。たった数度の来訪で、それが全部解析し尽くされたというのか。こめかみの辺りが鈍く痛んだ。どうやら再度ロックをかけて黙殺することは敵わないようだ。
 仕方なしにロックオンの服の裾を掴んで、身体越しに距離を取ろうとする。しかし、その前に腕を掴まれ、強引に連れて行かれる。その力の強さに戸惑った。それを合図にするように、少し前で屑とビリーも同じ方向へと歩き始めた。何かを示し合わせているようだが、全く意図が読めない。
「…何のつもりだ?」
「いいからいいから。こっち来いよ、ティエリア」
 有無を言わさぬ笑みを浮かべる。この表情に自分はいつも逆らえない。それを分かっていているから、この男はずるいと思う。悔しくなって目をそらしていたら、その先にあるものに気づくのに少し遅れた。
 連れて行かれたのは、いつもの居間だった。しかし、テーブルの上には見慣れない機械がある。少なくとも通販で買った覚えはない。それを取り上げて、ビリーが胸の辺りで構えた。そこで初めて、何であるか気づく。
「撮ってもらおう」
 腕を取っていた手のひらが、掠めるように頭を撫でる。そこを通り抜けて肩を抱かれた。その触れ方には、慣れている筈なのに身を竦める。きっと見られているという意識があるからだ。
 しかし平静を保つよう努めながら、斜め上を睨めつける。視線に気づいたのか、深緑の双眸がこちらを覗き込んだ。その色は自分を安心させる。ざわついた気持ちが少し楽になった。
「…何のつもりだ?」
「何って、写真撮影だよ」
「断る」
 肩を振り払おうと身をよじろうとするが、手のひらに力が込められているせいで上手くいかない。そのくせ表情は穏やかで、気持ちが悪い。カメラを持つビリーに光の具合がどうのと言い、すっかり撮る気でいる。こちらの言葉など聞きもしない。何も知らないくせに。
「だから、嫌だと…!」
「二人でさ、」
 強引に言葉が切られる。穏やかだが、きっぱりとした有無を言わさぬ口調だった。思わず出しかけた言葉を止める。優しく笑んだまま、続けた。
「二人で撮った写真、ねえだろ。何か残しとこうぜ。一枚でいいから」
「そんなものは……要らない」
「要る」
 有無を言わせない口調。こうなってしまうとこちらはいつも抗えない。やっぱりこの男はずるい。頭を優しく撫でたり、肩に触れたりしてごまかしながら、自分の望みばかりを叶えてしまう。こちらの気も知らないで。
「形に残らないから、淋しいんだ」
「ごまかしのつもりか?」
「約束だよ」
 ロックオンが口の端をつり上げる。何の、とは問えなかった。シャッターの音が邪魔をしたからだ。仏頂面では美人が台無しだ、と塵がほざいたので、舌打ちをしてやったらビリーが吹き出し、間違ってボタンを押していた。何が楽しいのか少しも理解できない。
「ティエリア、」
 なのに、彼は言う。肩を抱く力を強めながら。その力の強さは自分をいつも弱くする。抗えなくする。どうしようもなく、ずるいのだ。
「笑って」
 祈るような、言葉だと思った。





「可愛いなぁ…」
 しみじみとロックオンが呟く声が、神経を逆撫でる。写真撮影など意味が分からない。どうして楽しくもないのに笑わねばならないのか。そもそも何故あの場に芥がいる必要があったのか。奴らが去った後、ロックオンにひとしきりぶつける。ビリーにいいようにいじられたロックも設定し直さねばならない。最悪だった。
「偶像崇拝って奴だよ」
「…理解に苦しむ」
「そうか?」
 彼は肩で苦笑した。そして、どこから見つけてきたのか、買ってから箱から出さず放置していたプリンターを起動させている。最高画質でプリントをしているお陰で、印刷終了までは大分かかりそうだった。
 しかし、その間にも飽きずに画面に映った写真のデータを見つめている。何がそんなに嬉しいのか分からない。偶像崇拝というものは自分の中にはない。神などアンティークに過ぎない。もとより自分の世界には、自分の他にひとりしかいないのだ。
 では、彼が神なのか。
 ふと、そんな途方もない結論に至りそうになり、神という概念を再考したくなった。再び頭痛を覚えて相手を見やる。画面を眺めてみっともなく目尻を下げている相手に、到底信仰心と呼ばれるらしい感情を抱けそうにはない。
「本当、可愛いな」
「…貴方は、さっきからそればかりだ」
「本当に笑ってくれるとは思わなかったから、嬉しくってさ」
「笑えと言ったくせに」
 改めて言われ、画面に映った自分の顔が気恥ずかしくなる。ウィンドウを閉じようとマウスに手を伸ばしかけたとき、その手を絡め取られた。一瞬、制止されたのかと思ったが、手の中にある小さく固い感触に気づく。何かを握らされたのだ。
拳を目の前に持ってきて、開く。そこには、華奢なデザインの指輪があった。それに気を取られているうちに、いつの間にかロックオンに後ろから抱きしめられていたことに気づく。慣れた匂いに包まれて、体温が滲む。少し呼吸が楽になる。
「隊長がいた理由。店を紹介する交換条件が、撮影への立ち会い」
 指輪を握りしめた手に、相手のそれが侵入を図る。手のひらを長い指が辿って、指輪の輪郭をなぞった。体温を確かめるように、その指先を包み込むように握りしめる。それは不格好な祈りの姿にも似ていた。
「好きだ」
 今更になって、そんな言葉を落とすものだから胸が否応なく跳ねた。指輪の意味を知らないわけではなかった。約束だという彼の言葉が蘇った。偶像崇拝というものは自分の中にはない。神なんてものは存在しない。どんな祈りも信じない。
 その筈なのに、鼻の奥に涙の気配がした。慌てて俯くと、抱きしめる腕の力が強まる。それだけで感情はあふれ出す。コントロール出来ない己を嫌悪した。けれどそんな自分を彼は唯ただ抱きしめるから。
 彼ばかりは信じずにはいられないのだ。いくら奪われてもごまかされても。後悔と共に責め立てても。他の何者でもなく、神なんかよりも数倍はたちの悪い存在だけが自分を揺るがす。たとえそれが自分のものには決してならないとしても。
「…いいだろう。ごまかされてやる」
 ため息を一つ吐いてから、指輪を嵌める。こんなもので宥めようとする相手は、こちらの執着心を少しも分かっていない。けれどそれで良いのだと思った。
 何一つ奪えないのに、ロックオンが好きだった。どうしようもなく好きだった。