財布と携帯と車のキーは持ったか、無精ひげのそり残しはないか、目やにとパンくずもついていないか。
 一通り確認した後に家を出ようとした瞬間、ティエリアに呼び止められる。朝のキスはとうに済ませた筈だし、残念ながら彼は俺のいない半日程度の時間をうまく潰せるくらいには大人になっていた。思わず目をみはるほどの預金残高を示され、仕事を辞めろと迫られていた頃が懐かしい。戯れに思い出話として口にしたとき、耳まで真っ赤にしてどうか忘れてくれと懇願された。そのときの彼はいつになく可愛かったことを覚えている。
 そんなことをぼんやりと思い出しながら振り向くと、奥から出てきたティエリアが、俺の手をとって一枚のメモを握らせた。その真剣な面差しを怪訝に思い、メモの中身をみる前に薄く笑いかける。
「何? ラブレター?」
「いいや。いわゆるおねだりだな」
「ほぉ…そいつは楽しみだ」
 少し前なら赤面しながらこちらを睨み、茶化さないでほしいと怒られたものだが、誰に似たのか冗談まで口にできるようになった。彼の初々しい反応が見られないのは残念だが、余裕ができたのだと思えば好ましい。笑みを浮かべたままメモを開くと、ティエリアが真剣な顔で言葉を続けた。
「今日はシチューだ」
「芋多めがいいな。ちょっと煮くずれかかってるの」
「了解した」
 頷いて、俺の気まぐれなリクエストをぱちぱちと端末に打ち込んでいく。一度、いったいどんなレシピが入っているのか気になってのぞき込もうとしたことがあるのだが、頑なに拒否されてしまった。彼なりのこだわりがあるらしい。
 渡されたメモには、人参、たまねぎ、芋と、折り目正しく見慣れた食材が羅列されており、値段や購入する店まで明記してある。彼の凝り性はこんなところでも発揮されるのだと、活字になった買い物メモを眺めて思わず感嘆のため息を吐き出した。食材と購入する店のルートをざっと頭で描いた後、小さく折り畳んでポケットにしまう。彼がこうして俺に買い物を頼むのは珍しく、頼まれたのならできる限り手伝ってやりたいとは思うのだが、一応の懸念事項は口にしておいた。
「買うのはかまわねえけど、仕事の後だから遅くなっちまうぜ?」
 優秀な教師がいたおかげでだいぶマシにはなったものの、彼の料理にかける時間は相変わらず長い。それでも自分で食事を作るというのは譲らず、愚直なほどの真面目さが効を奏してか、最近はそれなりの味のものを作れるようになってきた。そして残る課題は時間の短縮だけなのだが、それも気長に待とうとは思っている。唯、できれば仕事から帰ってきて更に数時間待たされるのは勘弁してほしい。
 そういう俺の反応を察したのか、ティエリアはにこりと得意げに笑いながら、ゆっくりと頭を振った。そんなどこか幼げな仕草と、きちんとし過ぎた買い物のメモがかみ合わないのが、彼の面白いところだと思う。
「心配には及ばない。それは明日の分だ」
「明日の?」
「明日はポトフというものを作ろうと思っている」
「あったかそうでいいな」
 何の気なしにそう口にすると、彼が頬を少し赤らめた。誉められたのが嬉しいのだろうか。素直な反応が可愛い。
 付き合いがそれなりに長くはなっていたが、自分と全く異なるタイプのせいか、見ていて飽きない。ポケットに一度しまったメモをとりだしてじっと眺めると、端々に彼らしさが伺えて思わずまた口の端をつり上げてしまった。唯の買い物のメモなのに端末で細かく打ち込まれていたり、写真が入っていたり、なぜか敬語だったり。俺だったらチラシの裏にでも適当に書き付けて終わらせてしまうだろうが、個性というのはこういうものにも出るようだ。
「任せた」
「任されて…って。このメモ、お前が作ったんだよな」
 何気なく問いかけると、意外そうに目を見開かれる。あなたからもらうものを参考にしたのだが、と言われたが絶対に嘘だ。俺のチラシの裏の適当なメモとこれは一緒にしてはいけない。
「…いけなかっただろうか」
「いいや。手が込んでるなぁと思ってさ。手書きでちょいちょいっと書きゃいいのに」
 何気なくそう口にすると、ティエリアの顔がたちまち曇りだした。一応、誉めているつもりだったのだが。意外な反応に困惑していると、うつむき加減の彼が声を絞り出した。先ほどまでぱたぱたと振られていたしっぽが垂れているのが見えるようだ。
「僕は…字が、汚いから……」
「ああ…」
 ここは嘘でも否定してやるべきだった。しかし反射的に頷いてしまい、ますます沈んだ彼の端正な面持ちをみて、しまったと思う。
 そもそもは彼の優秀な教師―――ライルがいけなかったのだ。俺もあまりきれいな方ではないので気にしたことはなかったが、ティエリアは俺が甘いということを最近理解し始めており、俺よりもライルの評価の方を尊重する傾向がある。非常に不本意なのだが、甘いというのも否定できない。惚れた弱みというやつのだから、仕方ないだろう。
 そのライルが、だ。ティエリアが俺に残した一枚の手書きの伝言をみて、すげえ字だな、と一言ちいさくつぶやいたのだ。そして間の悪いことにその近くにはティエリアがいて―――それからの惨状は、あまり語りたくはない。ライルは普段、空気を読みすぎるくらい読もうとする奴なのだが、肝心なところで詰めが甘いのだ。そういう性質が仇となった。
 そういえば、それからだった。いくら時間がかかっても、彼が頑なに手書きを避けるようになったのは。
 確かに、端末に慣れきっているせいで真っ直ぐに文章が書けなかったり、文字が右上がりだったり、数字の5と6の区別がつきにくかったり、色々あるのだが―――いつも端末がそばにあるとは限らないし、何より、彼をがんじがらめにしているコンプレックスを解消してやりたいと思う。あれほどできないできないと言っていた料理も、時間はかかるが食べるのに支障がないレベルにまできたのだ。ティエリアを甘やかすきらいのある俺が、ライルのような優秀な教師になれるとは限らないが、少しは手伝いができればいい。
 そう思って口にした、単なる思いつきだった。ティエリアが困るだろうことも分かっていた。それでも、俺のなかでは名案だと思ったのだ。
「ラブレター、とか。どうだ?」
「…はあ?」
 そう言われたときの、彼の心底戸惑ったような表情が忘れられない。自分で甘いと揶揄しながらも、そういう表情もかわいらしいと思う。
「字の練習もかねてさ。手書きのラブレター、欲しいな。くれよ」
「あなたは何を言ってるんだ…」
「え? 俺のこと愛してないの? ひっでえ」
「何でそうなる!!」
 形のいい眉がつり上がり、語気が荒くなったのをみて、わざとらしく時計を示して背を向ける。ここでティエリアの論理的な反論を浴びるよりは、なし崩しにしてしまった方がいいだろう。彼の言うとおり不条理な頼みだが、もしかしたら、本気にして本当に書いてくれるかもしれないし。
「じゃあ楽しみにしてる。愛してるぜ?」
 振り向きざまに演出過剰なウインクもするが、羞恥ではなく頬を赤らめた彼は、矢継ぎ早に反論を浴びせようとするだけだった。ムキになるお前も可愛い、とからかってやろうかと思ったが、あまり怒らせるだけなのも得策ではないのでやめておく。
 適当な思いつきでも、楽しみが増えると自然と仕事へ向かう足取りも軽い。アクセルをめいっぱい踏んで、口笛を吹きながら道路へと飛び出した。
 帰宅したら待っているかもしれない、まだ見ぬラブレターを思い浮かべながら。





 端末で作った方が圧倒的に見やすいし、様々な情報を引用することができる。僅かな手間を惜しんだところで仕方がない。そう何度か主張したけれど、いいからちょっとやってみろよ、と軽くかわされてしまった。
 彼は僕のことをよく頑固だ強情だと言うが、彼も似たようなものだろう。当たりがやわらかいだけで、一度決めたことを曲げるのは滅多にしない。仕方なくチラシの裏を使ってちょこちょこと文字を書き付けていたら、ちゃっかり僕の部屋に、子ども用の文字の練習帳を置き去りにされた。いつ見られたというのだろうか。書き終わったものはすべてシュレッダーにかけて隠滅したというのに。
「まったく…いつの間に」
 しかし、もとより普段の時間の有り余っている僕にとって、練習帳一冊を埋めることなど造作もないことだった。料理や掃除などの家事をしながらでも、2、3日もあればすぐに終わってしまう。こんなノート一冊で字がきれいになったかは分からないが、とにかく一冊終えたという事実は僅かながらの自信になった。練習させられているというきっかけは置いておいて、彼が帰ってきたらさりげなく報告してみようか。向こうもこれほど早く終わっているとは思うまい。彼の驚いた顔を想像すると、少しいい気分になる。
 最後の一文字を書き終え、ノートを閉じようとした瞬間だった。裏表紙の隅に、赤いペンで小さく何かが書き付けられているのに気づく。
『よくがんばりました』
 ロックオンの角張った手書きの文字で、そう書かれていた。渡されたときに、こんなものはなかった筈だ。いつ書かれたのだろうか。相手の方が一枚上手というわけか。
 僕が眠っている間、仕事で疲れているというのにさりげなく部屋にしのびこみ、わざわざノートをチェックしている有様を思い浮かべるとなんとなく笑えた。彼の目に、僕のいびつな字はどう映っているのだろう。少しは上達したと思ってくれているだろうか。
「まったく、あなたという人は…」
 小さくつぶやいて、赤い文字を指先で撫でる。本人の姿が容易に浮かんできそうなその字をみて、手書きがいい、といった彼の言葉の意味をなんとなく理解してしまった。





 その日は久しぶりに演習があり、ひどく疲れていた。一緒に組んだジョシュアの野郎が下手をこきやがったせいで、通常の倍の時間がかかったあげく、成績は散々だった。即座にレポートを書かねばならないところを無理矢理帰ってきたのだが、その内容も最早思い出すのも億劫だった。そう気を落とすな。明日はきっといい日になるに違いない!と、こんなとき、隊長ならば持ち前の脳天気な態度で、なんとなく心を軽くしてくれるのだろうが、今はその彼も不在だった。賑やかすぎて煩わしいと思うことも多かったが、ムードメーカーとしての希少な存在感が今では恋しくもあった。
 疲労で重たくなった身体を引きずりながら、食事はおろかシャワーも浴びずに寝室のベッドになだれ込む。ティエリアの顔が見られないうえに、せっかく作ってくれたであろう夕食を口にできないのが心残りだったが、一度ベッドに倒れてしまうと起きあがる元気が出ない。
 一人では大きいセミダブルのベッドはヒヤリと冷たく、人の気配のない寝室で、真剣に端末に向かっているだろう彼の姿を思い浮かべた。お気に入りのTVショーか通販番組が始まらない限りは、一度要塞にこもるとなかなか出てこない。彼がシャワーを浴びてベッドにもぐりこむまであと数時間はかかるだろうか。なかなか帰ってこないと思っていた相手が、ただいまも言わずベッドで寝入っていたら驚くかもしれない。せめて、声だけでもかけた方がいいと思うけれど、シーツにべったりと指先まではりついて、身じろぎするのも容易ではなかった。
「ごめんティエリア、もー限界……」
 ここにいない相手に謝りながら、深くため息を吐き出す。全身を重たく、意識を鈍らせるまどろみと疲労にひたりきろうとした瞬間に、不意打ちでドアが開いた。予想だにしなかったために、とっさに反応しそこねる。
「…ロックオン? 寝ているのか」
 いや、起きてるよ。
 のどまで出かけた言葉はしかし、音にならないで終わる。代わりに寝息のような長い呼吸が漏れて終わった。恋しさはあるものの、身を起こして手招きをするどころか名前を呼ぶ気力すらなく、ドアが開いたことすら夢なのではないかと思ってしまう。それを裏付けるかのように、すぐにドアは閉められ、部屋からまた他人の気配が消えた。
「あぁ…」
 ドアが閉まったら閉まったで淋しいものだ。思わずまた息を吐き出してしまう。多少無理をしてでも反応すればよかった。腕を伸ばす力がなくとも、一言返事をするくらいは。そう思ったところで、後の祭りなのだけれど。
 思った以上に気落ちしているのを自覚しつつ、重くシーツに沈む身体でのろのろと寝返りを打つ。ドアに背を向けて丸まっていると、突然またドアが開いた。
 全くの不意打ちに、またも反応できなかった。というより、反応する間もなく、俺の枕元に何かを置いたかと思うと、すぐに去ってしまったのだ。相手はすっかり俺が寝ていると思っているのだから、無理もない。
「あなたが悪いんだ」
 唯、その一言だけを残してまたドアが閉じる。
 その意味深な言葉のせいで、すっかり意識を手放しかけていた頭が不意に引き戻されてしまった。悪いと責められるような何かをしただろうか。確かにただいまも言わず寝てしまったのは悪いと思うが、そういうことで怒るような相手でもない―――というのは俺の甘えなのか。
 おそるおそる枕元に置かれたそれに、背を向けたまま手をのばした。薄いアナログの紙の感触に、なんとなく得心して今度はベッドサイドのライトをつける。淡いオレンジの照明に浮かび上がるのは、ティエリアのあまり整わない手書きの文字だ。閉じてしまいそうな瞼を強引にこじあけて、その文字をたどる。
 裏表紙の反対側にペンで書かれたそれは、俺の買い物メモと同程度か、それ以上にどこかやけくそだった。いつか、几帳面なプリントアウトされたメモを渡した相手と同一人物とはとても思えない。ましてや、これがラブレターというのも。
『あなたのせいでこんな慣れないことをしてしまった。何度練習しても不格好なのに。全部あなたのせいだ』
 愛を込めて。ティエリア。
 後半になるにつれてだんだん字が荒れてくるのがなんだかおかしい。ずいぶんと余裕が出てきたとはいえ、おかしなところで照れるのは変わらないようだ。直接渡そうとしないところもいかにも彼らしい。そもそも、愛という言葉を書けば全部ラブレターになるとでも思っているのだろうか。きっと思っているのだろう。そのズレ方すら期待を裏切らず、思わず吹き出してしまった。
 ばさりと、買い与えたノートを顔に落とした。身体を丸めてくつくつと笑う。世間一般で言われるラブレターとしてはまるでなっていないし、字も大して上達はしていないが、彼ががんばってくれた。それだけで、俺にとっては充分だった。
「ほんっと、可愛いのな…」
 小さくつぶやいて、うすぼんやりと浮かび上がる自分の字と、彼のメッセージを交互に眺める。後半以外は恨み言にしか思えない言葉を、ティエリアがどんな顔をして書いたのか。そういうことを想像するだけで、今日はいい夢が見られそうだった。
 目が覚めたら、たいへんよくできました、と赤いペンで添えてノートを返してやろうと思う。彼がしてくれたように、こっそりと。
 もちろん、ノートいっぱいのハナマルもくっつけてやるのだ。