「ティエリアただいまー。悪いけど開けてくれるかー?」
 わざわざインターフォンで呼ぶのはどういうわけか。不審がりながらもドアを開ければ、答えは目の前にあった。ロックオンは大きな荷物を抱えていた。その所為で手動で開閉しなければならない不便なドアを開けられなかったというわけだ。
「これはチューリップ、こっちはスイートピー、全体に散ってるのはカスミソウ、そっちのはダリア。えーと、これは何だったかなぁ」
 ロックオンの肩幅にも等しい直径の、花束だった。ぽんと渡されて受け取れる質量ではないそれを放り投げられ、反射的に両手で受け止める。思っていたよりも軽い、と感じた直後、むせ返るような匂いが鼻腔を塞いだ。シャンプーや芳香剤、あるいはロックオンが使うフレグランスやローションとは違う、もっとぼやけて不安定な匂い。初めて味わう花の香に、一瞬呆気に取られる。
「何だ、これは」
「だから、チューリップにスイートピーに、」
「個々の種類ではない。なぜこんなものがここにあるのかを聞いている」
 人の嗅覚は15分で麻痺するという。それにははるかに満たないものの、最初に感じたような強烈なインパクトは薄れていた。改めて、ピンクを基調にオレンジや白、黄色を配色されたそれを見遣る。それらを纏めているのは、レース模様の入ったやはりピンクの不織布とセロファンだ。ガサガサと揺れる音が煩わしく、眉が自ずと歪むのがわかった。
「あー、えーと、それはだな」
「用途が不明瞭だ。捨てても?」
「待て待て待て、花って意外と高いんだぞ」
 指の力を緩めて、そのままフローリングに落とそうとした俺の手から、ロックオンは花束を掬い上げる。大砲のようなそれを肩で担ぐようにして、空いた手で俺の肩を押して室内へと促しながら、ロックオンは苦笑して言った。
「うちの隊長から、お前にだってよ」




「いつも借りてしまってすまないと、君の女神に伝えておいてくれたまえ」
 そう言って渡された花束は、およそ男が持つのに相応しくはない可愛らしいものだった。しかし、女性に渡すのを前提とすれば、恐ろしく似合うのがこの男だ。
「君にもなかなか似合うものだな」
 そう言って俺の肩を叩き、エーカー中尉は笑い声も軽やかに踵を返して去って行った。今日の任務も終わり、いざ帰宅しようと思った最中の出来事だった。幸いだったのは、説明を求めることの出来る相手が、その場に同席してくれていたことだろう。
「……カタギリさん?」
「いつも残業やら私事やらで引っ張り回しているからね。そのお詫びのつもりじゃないかな」
「後半部分の通訳もお願いします」
「まあ君が思い当たる相手に渡せば良いと思うよ」
 両親と妹を喪って以来、神の存在は信じていない―――などと言って話をややこしくしないほどには頭は冴えていた。もう慣れてしまったのかもしれない。彼の奇抜な発想と行動に。
「俺、いるって言いましたっけ?」
「一人暮らしでないことくらい、さすがに分かるよ? 僕にもね。ああ、彼にしては無難なチョイスだ。さすがに顔もわからない相手に贈るとなると、勝手が違うらしいね」
 これだけ大きくて派手で、メジャーな花ばかりを使った花束を嫌がる女性は、確かにそうはいないだろう。普通の、女性ならば。
 彼がおそらく贈りたかったであろう相手と、俺がこれを渡すべき相手には大きな食い違いがある。同居人は女神どころか、女性ですらない。が、それを交友関係と貞操観念に凄まじい問題を抱える上官に言うつもりはなかった。食い違いはさておいて、同居人の容姿ならばさぞ花は似合うだろうという思いが俺にはあり、本人の意思や嗜好はともかくそれは厳然たる事実なのだ。


 開封されてもいないコンピュータ関連のパーツは溢れている我が家だが、花瓶などという気の利いたものはない。思案の末、大して使っていないポリバケツに水を溜め、そこに生けることにした。ピンクが主体の花に、プラスチックの水色が良く映える……わけもない。できあがったのは、何と言うか奇妙なオブジェで、それがリビングの中央に座しているのは、また奇妙な光景だった。
「ほら」
 仕事から帰宅すると、いつも俺は自分にブランデーを垂らした紅茶を、ティエリアにはココアを淹れるのを習慣にしている。どでかいオブジェが鎮座していてもその習慣が変わることはなく、フローリングにクッションを置いて、並んで花を眺めながらマグカップを啜った。ブランデーの匂いが立ち昇るカップから鼻を上げると、全く異質の甘い香りが漂う。
「理解不能だ」
 肩にもたれる頭から声がして、俺は視線を前に固定したまま答えた。
「この花か?」
「なぜ枯れるとわかっていてわざわざ切るのか、そもそも花を観賞するという必要すら理解し難い」
「観賞ってのは必要だからするもんでもないんだよ」
 理解不能だ、と同じ言葉を繰り返し、二の腕と、それを乗せている足に体重と体温が圧し掛かる。先ほどから花を直視すらしていないティエリアの黒髪が肌に触れ、冷たい艶やかな感触がした。その向こうには花の匂いと同じくらいあやふやな、ティエリアの体温がある。
「でもお前には似合ってたぞ。さすがうちの隊長だ」
 カップを置き、空いた手で髪を撫でる。そうして頭の向きを変えるのは不満の証しだが、振り払われたりはしなかった。指の間をさらさらと髪が零れる感触が心地良い。
「似合う似合わないというのも理解不能だ。必要なら持つ。不要なら捨てる。それだけで十分なのに」
「だから、必要だからするってもんでもないんだよ」
 必要や不要というなら、この同居生活がすでにその概念からはみ出ている。俺は一人でも十分に暮らすことができるし、ティエリアにしても元々一人でやってはいけた、らしい。推定でしかないのは、俺との同居においてティエリアが生活能力を発揮した例がないからだ。
 そもそも、ティエリア自身の容姿からして、はっきり言って無駄ともいえるほどのものだ。どこの世界にそんな美貌を必要とする人間がいる。欲しいと思うものは多くいるだろうが、それは嗜好や贅沢の範疇だ。少なくとも、ティエリアの一日中パソコンとにらめっこする生活で必要だとはとても思えない。
 そこで、ささやかな悪戯心が頭をもたげた。バケツから花を一輪ずつ引き抜き、水をシャツの裾で拭う。茎を柔らかく捻って、組み合わせ、紡いでいった。花を損なわないように茎と茎を絡めて、一つの輪を作る。
 作り手の未熟と花冠は茎の太さがバラバラだったこともあって、少し歪な出来だった。大輪の花がまばらに突き出した派手な花冠を、もたれたままの黒髪に乗せる。雫が頭皮に垂れたのだろう、びくりと肩が跳ね、赤い双眸が勢いよく振り返った。
「ほらな、やっぱり似合う」
 頭からずれた冠を直してやりながら、まじまじと顔を眺める。白い肌にも艶やかな黒髪にも、ピンクやオレンジ、黄色の花は良く映えた。勘違いした隊長の、「女神」という表現もあながち間違いではないかも知れない。そう思うのは親馬鹿にも似た心境か。
 しかし、その表情はいただけない。口の中央を上へ押し上げるように噤んで、眉が吊り上りその下の瞳は射抜かんばかりにこちらを睨みつけている。
「何の真似だ!」
「おわ、危ねっ!」
 頭上の冠を振り払われる寸前で、それを掬い上げ自分の頭に乗せる。空振ったティエリアの腕は軽く掴んで下ろさせた。
「似合わないな」
 俺の頭上の冠を指して、ティエリアが鼻で笑った。彼にしては珍しい意趣返しの方法だ。
「そうか? でも、要らなくないんだよ」
 掴んだ腕を引き寄せても抵抗はされない。細い身体を温もりごと抱きしめ、唇を重ねる。頬に触れたなめらかな髪からは、甘い花の香りがした。