僕は修羅場という言葉を聞くたび、あるひとつの出来事を思い出さずにはいられない。
 確かその日はグラハムの誕生日だった。間が良いのか悪いのか、彼は例の如く浮気がバレて恋人にこっぴどく振られたばかりで、共に過ごす相手もいないから酒でも飲まないかと誘われていた。
 その頃の僕はまだ彼のことを普通の神経を持った相手だと信じていた。派手に見えて彼も傷ついているのだろうと思い、その誘いを快諾したのだった。今思えば、全く以て愚かだった。軽率だった。そうとしか言えない。
 とにかく、軽率で友人思いの僕は、それなりに美味いと評判のシャンパンを持って彼のマンションへと向かったのだ。無駄としか言えない広さと機能性を無視した高級感の漂うエレベーターの中で、彼女と出会ったのだ。
「ビリー・カタギリさん、ですよね?」
 全く面識のない女性に名前を呼ばれ、軽く面食らった。しかし、そんな僕に微笑みかけながら、いつも彼から聞いています、と付け加えられ、ようやく得心する。彼女はグラハムの故郷での幼なじみで、アイリーンと名乗った。
 ちょうど近くに用事が出来たため、いい機会だからと会いに来たそうだ。彼がまめに故郷へ連絡をしているなんて少し意外に思ったが、彼の話からアイリーンという名前にうっすら覚えがあったため、僕はあっさりと納得した。
彼女は長い黒髪にそばかすの散った、どちらかというと地味で素朴な外見で、華美なものを好むグラハムの好みとは外れていたが、そんなところも幼なじみらしかった。むしろ、何処もかしこも派手な彼に、こんな素朴な友人がいたことに親近感さえ沸いた。
「グラハムとは、いつからの友人なんですか?」
「ミドルスクールの頃から。ずっと一緒だったんです、私達」
「それはそれは。僕なんかよりずっと、彼のことを知っているのでしょうね」
「ええ。彼のことは何でも知っています。なんでも」
 控えめに可愛らしく笑う彼女を見て、派手好きな男も最後は案外こんなタイプの女性に落ち着くのかもしれない、という勝手な想像を巡らせた。顔を見たらどんな風にからかってやろうか、とあれこれ思索しながら、インターフォンを鳴らす。眠たげな彼の声が応えて、少しの間の後、ドアが開いた。重厚なドアには、当時の最先端のセキュリティ・システムが備え付けられていた。
 グラハムは廊下を歩くまでの短い間にすっかり目を覚ましていて、僕ら二人をいつもの晴れやかな表情で迎えてくれた。ジーンズしか身につけていないのがどうでもよくなるほどの、それはそれは完璧な笑顔で、言う。
「隣にいるのは恋人か? こんな可愛らしい女性を連れてくるなんて隅におけないな、カタギリ!」
「え?」
 事態を飲み込めず僕が凍り付く。グラハムが怪訝そうな顔をした。その肩越しで、奥の部屋のドアが開いた。白々しい開閉音の後、バスローブを着た女性が現れる。その顔には覚えがあった。
 先日、別れたばかりの彼の恋人だった。彼らがどんな経緯で別れたか、聞きたくもないのにグラハムから散々聞かされている。その筈だった。なのに。
 肩越しのバスローブから浮き出る豊満な曲線。怪訝さを消さないアイスグリーン。僕の横で俯くアイリーン。順繰りに視線を移動させた後、唐突にあることを思い出した。
 アイリーン。それは、グラハムの初体験の相手だった。確か金髪で碧眼の、勝ち気な目をした女性。ミドルスクールのクラスメイトだと。
「…………ひどいわ」
 アイリーンではない、別の誰かがコートのポケットから光る物を取り出した。そばかすの散った素朴な顔立ちをぐちゃぐちゃに歪ませて。




 誕生日にストーカーの刃傷沙汰を起こされても、全くグラハムに同情する気は起きなかった。そういう男なのだと思う。だから、今目の前で起きている修羅場も、恐らく八割方グラハムに非があるのだろう。そもそも人のプリンを勝手に食べるというのは頂けない。
「そんなに食べたいなら食べたまえ! さぁ!」
 無理矢理相手の口にプリンを押し込もうとするグラハムに、必死にフォーク一本で抗おうとする様は見ていて哀れだった。抵抗すればするほどグラハムは狩りの本能に目覚めるというのに。がっちりと肩を掴んで唇が触れんばかりに顔を近づけている。今の彼は本気だった。
 かちかちと重なり合うスプーンとフォークの音を聞きながら、グラハムの腕に収まっている子ヤギの姿を観察する。グラハムと並んでも遜色ないほどの身長だが、それでも頼りなく見えるのは、彼よりも華奢で色が白いせいだろう。
 振り乱した髪の間から見える眼光はきつめだが、顔立ち自体は息を呑むほど整っていた。よくできた人形のようで、ロックオンが溺愛したくなる気持ちも分かる。怒りと恐慌に歪んでなお美しいというのは、それだけ完成度が高いということだ。
 是非この家のセキュリティ・システムとレアパーツについて語り合いたいと思っていたのだが、それどころではないのが残念で仕方がない。やはりあのとき刺されて死んでいれば良かったのだと、スプーンを片手に襲いかかる親友を見て思った。
「上官を撃ったら、重営倉じゃ済みませんよね……」
「撃っていいと思うよ。僕は」
 振り返らず、表情を消して背後に語りかける。たぶん彼は、あのときのアイリーンと同じ顔をしているのだろう。だからこそ振り返ることが出来なかった。もう一度見たら間違いなくトラウマになるから。
 軍に所属して、前線から離れているものの、それでも少なくない人間の生き死にを見てきた。しかし、あのときのアイリーンの顔が、僕にとって一番の殺意だった。どんな戦場の兵士より、愛に狂った人間の方が恐ろしいこともある。僕はそのことを知っている。知りたくはなかったのに。




 抵抗するからつい、と、グラハムは言い訳を漏らした。普段の彼は潔いくらい何も言わず、それが周囲の要らぬ誤解を受けるのだが、今回ばかりは耐えきれなかったのだろう。女性に恨まれるのは構わなくとも、可愛い部下に恨まれるのは堪えるらしい。そんなところを可愛いだなんて思ってなどやらない。
 家から放り出されたついでに投げられた一枚の絆創膏を、彼の刺し傷に貼ってやる。血が滲んでいるのは痛々しいが、このフォークの傷で、辛うじて命拾いしたとも言える。これで身を剥がさなければ、可愛い部下の放つ鉛玉が飛んできたのだから。
「わかってるよ」
 息を吐いて絆創膏の上から傷を強く圧迫すると、眉を寄せて痛いいたい、と訴えた。しかし逃げは打たない。彼なりに反省はしているようだった。それをロックオンの前で示さなければ意味がないというのに、彼は妙なところで不器用だ。
「許可無く人のものに勝手に触らない方がいいんじゃないかな」
「安心しろ。私には少女愛好の性癖はない。青い果実を青いまま食べてしまうなど、半人前のすることだ」
「……それを、ロックオンの前で言うのはやめておきなよ」
 何故だ?と怪訝そうに返す顔に、間違いを訂正する気も失せる。やはり同情には値しない相手だと確信した。
 間抜け面に貼られた絆創膏を、もう一度指で圧迫してから車の発進を指示した。