幼い頃、捨て猫を見つけたことがあった。学校から家に帰る途中で、確か雨が降っていた。真っ黒な毛は所々縮れて薄くなり、骨がくっきりと浮き出ていて、月と同じ色の目にはギラギラと敵意と不信感が満ちている。お世辞にも可愛いとは言い難いそれを見つけたのは妹だ。近所で飼われているふくよかな犬や、可愛らしいぬいぐるみしか知らないはずの彼女は、繋いでいた俺の手を振り切って猫に駆け寄り、抱き締めて、家で飼いたいと言った。
 もちろん親が許すはずもなく、母はいつもは優しい瞳を毅然と吊り上げて、元の場所に置いて来るよう言いつけた。暴れて妹の小さな手を引っ掻いていた猫は、再び捨てられようとする道中には大人しくなっており、妹は大粒の涙をぽろぽろ流しながら猫を抱き締める。
 ―――この子はどうなるの?
 嗚咽混じりの問いに俺は答えた。
「誰か、優しい人が拾ってくれるよ」
 妹は泣いた。
 ―――この子には私しかいないの。
 帰り道で握り締めた彼女の手は火の玉のように熱くて、俺はそれを哀れみながらも理解していた。可愛いだけで、可哀相なだけで、一生を負うことなどしてはいけないのだ。そして自分も妹も、それができるほど大人ではなかった。




 夜の路地に仰向けに投げ出された肋骨が浮き出た腹、肘が鋭く尖る腕。どこもかしこも最低限の肉を素っ気なくつけたギスギスとした針金のようで、そのくせ形ばかりは目をみはるほど美しい。それはあの日の猫に似ていた。
 拾ってしまったのは、民間人を守るのが軍人の義務だからとか、人道上云々だとかではなく、一重にその容姿のせいだろう。完璧に整った顔のくせにどこもかしこも不完全で歪な印象を与える。骨張った腕を引くと、その下に隠れていた瞳が露わになり、裏路地の薄暗さを赤い眼光が突き刺した。
「お前、家は?」
 答えはない。もっとも帰る家を持つような人間が、そんな時間そんな場所に落ちているはずもなかった。
「行く宛ては? 保護者は?」
 やはり返事はない。ただ空虚な赤い瞳が俺を見上げて動かなかった。
「……名前は?」
 溜め息と共に吐き出した問いは半ば形骸化していたが、意外にも返答があった。
「ティエリア」


 スプーンに掬ったラム肉の小さな一片を突き出すと、薄い唇は仕方なしに開く。24になった俺が拾った猫は、外見は人形のくせに野性児か赤ん坊のような危なっかしさがあった。出来合いの食事を与えても手をつけないが、軍御用達のハイカロリービスケットはぼそぼそといつまでも食べている。しかし無理矢理着せた俺のTシャツから覗く寒々しい身体を見ると、温かい食事を与えなくては落ち着かない。
 拾われた野良猫そのままに警戒するティエリアの口にスプーンを突っ込んで、半ば無理矢理に食事を摂らせる。スプーンが歯に当たってカツンと硬質な音が手首に響いた。その音に眉をしかめながらも、唇でスプーンをぴったり挟んで、零さず食べる仕草は外見に合わず、俺は口角が吊り上がるのを我慢できなかった。
 思えば、料理をしたのは久しぶりだ。軍に入ってからは野外演習くらいでしか作っていない。自分一人のために手間をかけるのは馬鹿らしかったし、一人だと再認識するのは嫌だった。キッチンにはティエリアのために買い込んだ食材と調理器具が散乱している。自分一人が寝るための小さな古いアパートには、食器棚すらなかった。
 なぜこんな、人を拾ってきたのかは自分でも良くわからない。理由を上げるなら確かにその容姿が該当する。それはティエリアの最大にして唯一の特徴だった。だが、それだけでは説明も納得も出来ない捻れた光景が目の前にある。しかし、俺はその捻れを解くことを望んでいない。
 目の前でティエリアは白く細い咽喉を上下させて、ラム肉を煮込んだアイリッシュシチューを嚥下する。故郷を捨てて、この国自慢のジャンクフードに馴染んだはずなのに、ティエリアに食べさせようと真っ先に思い出したのはこれだった。
 小さな咽喉がそれを飲み込む音がして、頬は微かに赤くなる。差し当たり俺はそれで充分で、理由などどうでも良かった。自分もシチューを一口啜ると、舌に広がるのは懐かしい故郷の味だった。


 わかるのは行く宛ても帰る宛てもないのだということ。これと名前だけがティエリアから語られたティエリア自身の事柄だ。痣や傷がないので虐待されていたというわけでもなく、容姿を売り物にしていたわけでもないらしい。当たり障りのない雑談として聞く限りは、ティエリアに答える気はないようだ。俺も雑談以上の深刻さで聞くことはなかった。聞けばこの奇妙な同居が形を変える予感があったのだ。
 朝、目が覚めたらベッドの隣にある寝床を確認する。寝袋に毛布を重ねたそこと、アパートの前の借主が置いていったシングルベッドは俺にとっては大した差ではないし、大抵の場所で安眠できる性格なので、そこには自分が寝るつもりだった。だが、俺が用意をしている途中でティエリアは何も言わずにするりとそこに入り込んだのだ。もこもこと隆起する毛布に埋もれて小さく丸まって眠るティエリアを一撫でして、バスルームに行き身支度を整える。
 ここからが忙しい。シャワーを浴びてヒゲを剃った俺は、朝食と昼食の二食分の料理を作って低血圧のティエリアを起こさなければならない。ティエリアは食事を食べはするものの、食欲を訴えるということを一切しなかった。放っておけば丸一日くらいは平気で絶食する。拾って数日間、作った朝食や食事代を置いていったら、見事に手をつけた形跡がなかったのだ。それどころか、外出した様子もない。ただ、ほとんど放置していた俺のパソコンに向かい、何やら作業をしているだけだ。「犯罪はするなよ」と冗談交じりに言ったら、一瞬赤い双眸をきょとんとさせて、それからこっくり頷いた。その間が気にはなったが、どうせ家用にと適当に買った一般的なスペックのものに大したことができるはずもない。
 とにかく俺は、起床時間を30分早めて多少無理にでもティエリアを起こし、朝食を一緒に摂るようにしている。作り置きした昼食が食べられる割合は五分五分といったところなので、朝夕だけでも食卓を共にしないとティエリアの骨ばった身体はいつまでもそのままだろう。


 このように俺の生活様式を変えつつも、さしあたって無難に過ぎているこの同居生活唯一の弊害は、禁煙を余儀なくされたことだ。仕事中はパイロットとしての在り方に一家言を持つ上官が許してくれないので、もともと外か家で吸うしかなかった。
 煙草が嫌いだと言われたわけではない。だが無害なはずもなく、ただでさえ不健康そうな容姿をしたティエリアにこれ以上マイナスの要因を与えるのは憚られる。となると基地とアパートの間しかないが、仕事が終われば急いで帰って夕食を作らなければならない俺は、否応なく喫煙場所を失った。
 それほど強く依存していた自覚はなかったが、思うように吸えないとそれなりにストレスになりうるらしい。気付けば指先がテーブルを叩き、靴の爪先は椅子を蹴り続けていた。特に今日はそうした鬱屈を、日頃からやけに俺に構いたがる上官がさらに毛羽立てたのだ。
「抱き締めたいなぁ! ロックオン!」
 フラッグは変形機構を持ち、機動性を重視しているために装甲が薄い。俺の機体は狙撃に特化した結果、下がった機動性を補うために装甲もかなり強化されているが、同型機にハグされれば衝撃は酷いものだった。
 ―――ジョシュアの奴、前衛のくせにあっさり突破されやがって。大体グラハムスペシャルってなんだよ。
 脳内で再生された上官の通りの良い声に、背中の痛みが蘇る。テーブルを叩くだけでは飽き足らず、気付けば舌打ちもしていた。
「……何か?」
 自作の食事にも手を付けず貧乏揺すりばかりをしている俺を、さしもの同居人も訝かったようだ。
「んー?」
 理由を言うのも躊躇われて空っぽな返事をしながらも、手はジーンズのポケットを探っている。そこには無用の長物と化したライターだけがあった。懐かしい、舌先に伝わる熱と口内を侵食する苦味、深く吸い込んで肺が煙で満ちる感覚、それを長く吐きだす脱力感。全てが無性に恋しかった。舌は空っぽの口腔を彷徨い、痺れ始めている。
「ロック、オン?」
「……ああ、くそ!」
 どうにもたまらなくなった俺がした行為は、傍らにあった小さな頭を抱え込む、というものだ。それだけで誰もが羨むであろう美貌は簡単に腕の中に収まってしまった。それは本当に小さくて、後頭部が掌に良く馴染む。俺が今朝梳ってやったなめらかな髪を、わしゃわしゃと若干乱暴に掻き撫で、頭に腕を回して胸板に押しつけると胸にじわりと体温が沁みた。硬質で温度など持っていなさそうな身体にも温もりがあったのだと今更ながらに思い知る。このとき俺は、ティエリアが窒息しないように顔を横に向けたのだから、後になって自分の器用さには少し呆れた。
 頭の形や大きさが良い塩梅だったのか、苛立ちは自然と凪いでいく。自分の心臓がとんとんとティエリアのこめかみを叩いていた。
「……何か、落ち着いた、かも」
 呟いてみればそれはそれは気の抜けた声が出る。間抜けな前衛のせいで模擬戦に負けたことも、上官にMSでハグされたことももはやどうでも良くなっていた。頭を抱え込んだ腕を肩まで回すと、体温が一層柔らかに浸透する。
 ―――この子には私しかいないの。
 猫を抱いてそう泣いた妹も、この体温を感じたのだろうか。
「……っ、」
 意識をセピア色の思い出からユニオンの古アパートに引き戻したのは、腕の中でもがくティエリアが与えた震動と、必死の息遣いだった。慌てて腕を緩めたが、離すには惜しくて手は肩に置いたまま顔を覗きこむ。
「な、にを……」
「え、えーと、抱き締めたいなぁって、思って?」
 よりにもよって、MSの接触回線を通じて聞こえた独り言を引用することもなかったと思うが、少なくとも最初の衝動以後はそう思った。抱き締めていたいと心から願った。それはさっきまで紫煙を求めた以上の強い思いで、これほどまでに何かを求めたのはこの国に来て初めての気さえする。
 混乱しているのかフリーズしたまま動かないティエリアの頭をもう一度抱き締めると、硬直した身体から、ふにゃりと力が抜けた。それを支えるために今度は細腰ごと抱き込んで、俺はあることに気付く。
 ティエリアの震えた声が呼んだ。俺の名前を。
 抱き締める力が我知らず強まった。細い身体がさらに縮こまったが、体温とそれに付随する感情はより確かに俺の中に溶けていく。背中から手を滑らせ、黒髪のつややかな感触を受けた掌で後頭部を包んだ。白い額に頬を当てる。
「いいなぁ」
 これがあるなら、ニコチンくらいなくても構わない。素直にそう思えるティエリアは、可愛いだけでも可哀相なだけでもなかったし、俺も幼い子どもではない。腕の中の猫が大人しくしている間は、抱いていても構わないと思ったのだ。