覚醒したとき、クラシックなアナログ時計の針は午後四時を指していた。身体を起こすと弛緩した筋肉に力が伝わり、ぴんと張りつめていくのが心地良い。夢うつつにうたた寝を繰り返してはいたが、疲労はすっかり抜けているようだった。
 惰眠からするりと抜け出した意識は視覚情報を正確に認識していき、おざなりに整えられたベッドに違和感を見つけた。いつも二度寝から目覚めた自分がいるのは、洗い立てのリネンで覆われ、整頓されたそれであるのが常だ。部屋の隅に丸められた昨夜使用済みのシーツと、今自分が身体を預けている清潔だが皺だらけのそれはどう贔屓目に見ても彼らしからぬ手抜きだった。
 次に、自分がしがみついていた物体に目が留まる。しゃがんで対面すれば視線がぶつかるほどのクマ、というのは果たして大きいのか小さいのか判断がつかなかった。しがみついて乱れた毛並みを撫でると、つやつやした模倣の毛皮と詰め物の弾力が心地良い。
 自分が寝ていたスペースにそのクマを転がしてから部屋を見回すと、ドアノブに掛けられた服と殴り書きのメモを見つけた。
「来客中! ちゃんと着てからくること!」
 意識が記憶を探り、メモの文字やベッドに横たわるクマと符合するものを引き当てる。
「兄さん、…おとうと、家族……ニールの」
 呟いた唇はカラカラに乾き、舌はざらついていた。



「MSのパイロットは、そりゃあ男の子の憧れだけどな」
「そんなロマンを求めてなったわけじゃないんだけどな。なりゆきっていうかさ」
 化粧ガラスを隔てたリビングから声がして、足が止まる。息を殺し、足を忍ばせて中を伺うとソファで寛ぐ人物と、コーヒーを差し出す人物とが談笑していた。
 ネクタイを外して寛げたスーツとTシャツという以外、容姿に差異を見いだせない。同じ顔が二つあるというのは、遺伝子が同じだからだと理解はできるが、それがこの世でもっとも親しい人間のそれであっても酷く奇妙なことのように思えた。だが、当人たちは気にする風もなくマグカップ、恐らく中身はコーヒーだろう、それを啜りながら笑ったり小突き合ったりしている。
 客観視していて、良くわかる。彼らは家族だった。大きくとられた窓から射し込む陽光と、コーヒーの香と笑い声とは、容姿が与える違和感など関係なく馴染んでいた。今、自分がいるのは間違いなく自分と彼の家であるはずなのに、足が竦む。疎外感がそうさせた。
 だが彼の弟は彼と同様に目ざとく、化粧ガラス越しの影に気づいて指をさす。
「おし、ちゃんと着てるな。おはようティエリア。もう午後だけど」
 わずかに開けたドアから姿を改められ、それから中へと促される。ロックオンの言葉と態度に身体は簡単にほぐれた。
「おはようのちゅーは? あ、オレのことはあのクマだとでも思って」
「金とるぞ」
 怒った表情を作りながらソファを振り返った彼の唇は、自分の頬にも額にも唇にも、触れることはなかった。
「改めて、紹介するよティエリア。ライル・ディランディだ。俺の双子の弟。ライル、ティエリアだ」
「よろしく、ティエリアちゃん。起きた顔も可愛いね」
 握手を求められ、自分でもわからないほど戸惑いながら手を伸ばして応えようとした。だが彼の、ライルの手は握手をするには上に持ち上がりすぎ、こちらの視線に近い。それがそのまま顎に伸びようとしているのだと気づいたときには、ぱしんと小気味の良い音がした。
「おさわり厳禁」
「けちくせー」
 彼らは同じ顔で笑う。それは容姿ではなく、言葉にしなくとも済む共通の認識が、同じものになさしめた笑顔だった。
「じゃ、代わりにこれね」
 ライル・ディランディが差し出したカードの意図はわからなかったが、ロックオンはそれを払うことをしなかったので、指に触れないよう注意しながら受け取る。そこにはライル・ディランディの綴りと連絡先、そしてAEUでも有数の商社のロゴ、その所属が記されていた。ただのカードではなく、端末に接続すればそれらに加えてビジネス上の様々な情報が得られるタイプのものだった。
「さすが商社マン。名刺なんか持ってんのか」
「普通の社会人は持っているもんなんです。軍人さんにはないかもしれませんが」
「お前が普通の社会人やってんのか。兄さん嬉しいよ」
「茶化すなよ。結構売れてんだぞ、うちの会社」
「…知っている」
 リビングに置いてあった端末にカードを読み取らせ、引き出した情報を確認しながら呟くと二対の視線が向けられた。中断された会話に、少しだけ後悔する。けれども沈黙と視線にも耐えかねて、言葉を無理矢理見繕った。
「伝統ある会社だが、フレキシブルな戦略で業績を上げている。安定しているから、常に株を所有するようにしている企業の一つだ。三日前にあった臨時収入はここによるもので、…汚職や闇取引にも今のところ関連はない」
「そう言ってもらえると嬉しいね。それこそなりゆきで入った会社でもさ」
 ロックオンの表情を伺うと、興味も知識もない分野だからだろうか、呆けたまま何も言わない。私の言葉に反応したのはライル・ディランディの方で、会話は彼と続けるしかなかった。見知った顔の見知らぬ人間との会話に少しだけ強張る手で、向かい合ったライルには見えない位置でロックオンのシャツの裾を掴んだ。
「株取引なんてやってんだ?」
「人からは趣味兼特技だと言われている。…この企業で唯一の懸念は軍需産業に一切関わらない点か。今後、その関連の株が上昇すると見られているから」
「そこらへんは何か上の意向でね。売上落ちても見捨てないでくれると嬉しいな」
「世界情勢を鑑みて、賢明な選択だとは思えないが。利益がなければ意味がない」
 緊張にぎこちなく稼働していた脳細胞が、目まぐるしく電気信号をやりとりし始めた。膨大な情報からライル・ディランディの企業のものを引き出し、数々のデータと合わせて予測を立てる。ライル・ディランディ個人を意識することを、避けようと思ったのかもしれない。ロックオンに関わりのない部分において、ライル・ディランディは私に無害だった。
「その方がいいさ。関わらなくて良い、お前は」
 だがライル・ディランディはどこまでもロックオンと、ニールと関わりを持つ人間だった。彼の声はライルのそれと変わりないのに、少し沈んだ声音は私が必死に紡いだ情報よりもはるかに強い影響力をもってリビングと、ライルに響く。
「ああ、そうしてきた。兄さんのおかげだ」
 同じく沈めたような声で呟いたライルは、リビングのローテーブルに封筒を一枚置いた。表書きも何もない無地のそっけないそれをロックオンが手に取り、開ける。
「俺が学費の安い軍関係の学校に行かなくて済んだのも、勉強を諦めなくて済んだのも、大学出て働いていられるのも、全部兄さんのおかげだ。だから、返すよ」
 封筒からロックオンの指がつまみ上げたのは、預金カードだった。小さな液晶に浮かぶ数字とライルの言葉から察して、彼の学資だと予想する。ロックオンの淋しいとも諦めともつかない曖昧な表情は、判断材料にはなりえなかったから。
「ライル、」
「兄さんだろ。そのために来たんだ。本当は札束ぶちまけてやりたかったんだけどな」
 現ナマ持ち歩くのは物騒だし、とライルは笑った。彼の使ったスラングは良くわからなかったが、彼が少しも笑っていないことは辛うじてわかる。それはロックオンも同様で、笑顔と無表情という表層の違いはあれど彼らは同じ顔をしていた。
 しかしぎこちなく笑うライルよりもロックオンの方が気にかかるのが、自分にとっては自然だった。シャツを掴んでいた手を広げて背中を撫でる。あるいは衣擦れの音や腕の動きがライルに感づかれようと構わなかった。隣り合ったロックオンの腕に胸を当てるように身体を寄せる。
「こんなに貯めずに、使っちまえばいいのに。簡単じゃなかったろ?」
 唇の動きも重く、ロックオンが呟いたことに、果たして自分が寄与できたかどうか、自信はない。
「その簡単じゃないを、兄さんは19からしてたんだろ?」
 ロックオンは笑ってみせたが、ライルの方はすでに笑っていなかった。空気が痺れるように重い。背を撫でていた手は、気づけばまた彼のシャツを握っている。結局、すがりつくことしかできない自分と、今はそれに応えてくれないロックオンが哀しかった。
「…いつまでいられるんだ?」
「休職届を出してきたから」
「とりあえず預かる。そういうことでいいか?」
「兄さんがそうしたいなら。オレに受け取るつもりはないけどな」
 彼らがごく自然に会話を成立させているのが不思議だ。双方の意志は恐らく叶ってはいないのに、互いに言及はしない。それでも不思議とかみ合っているらしい会話は友人とその自称友人が交わす珍味なそれとも違っていた。
「ひとまずメシにするか。ティエリアも腹減ったろ? 夕べから何も食ってないもんな」
 預金カードを受け取ってから、初めてロックオンの意識と視線が向けられる。ないものとされていたつもりでいたので、突然与えられた言葉に反応できなかった。反応したのは彼の弟だ。
「お盛んなことで」
 うるせえ、とロックオンは毒づきながら立ち上がる。シャツを掴んだままの腕が引かれて、こちらも立ち上がった。おそらく彼は食事の支度を始めるだろうから、それを理由にすればいいと誰にかはわからないまま言い訳をする。
「手伝う」
「ん、さんきゅ。ライルはテレビでも見ててくれ」
「兄さん秘蔵のポルノとかない?」
「ありません」


 キッチンとリビングの間には、最近彼が新調したクリーム色の壁紙に包まれた壁があり、視線を遮っている。その影に入ると同時にロックオンの腕が腰に絡み、身体を引き寄せられた。彼自身も一歩分歩み寄り、服越しに身体が密着する。顎を掬われて仰向くと、すぐに唇が重なった。
「ん、おはよう。ティエリア」
 今さら意識するようなことでもない、日課というにはささやかすぎる手順だが、いつもと変わらずそれが与えられたことに密かに安堵する。唇が一度離れてから、背伸びをしてこちらからもう一度唇を触れさせた。ロックオンは少し首を傾け、伸び上がった身体ごと受け止める。宥めるように背中を撫でられ、やはり先ほど自分がした慰撫は慰撫に足りなかったのだと、慰められながら思う。
「びっくりしたよな。いきなりだったもんな」
 唇が離れ、浮いていた踵が床に着く。意識して作られたロックオンの笑顔を淋しく感じたが、上手く言葉が見つからずに事実を確認することしかできなかった。
「家族が、いたんだな」
 まだ、と言う言葉は辛うじて咽喉の奥に押し込んだ。ロックオンの口ぶりからは、一度もその存在を、生存をほのめかされたことはない。
「俺も知らなかったんだ。大きなテロで、何もかもが混乱して、政府は焼け出された子どもを把握することもできなかった。19になって弟が生きているって知ったときには、もう顔向けできるような生活、してなかったから」
「あなたがユニオンに来てから送金していたのは、彼だったんだな」
 身体が触れていなくても、ロックオンが驚く気配がわかった。彼は時々、自分が暴かれることをひどく嫌い、時には怯える。こちらには隠すものなどもう何もないのにずるいと普段は思うが、今は彼を抱きしめていたいと思った。
「…知ってたのか」
「知っている。あなたのことなら、」
 何だって、と昨夜なら言えたのに、今は口が竦んだ。自分が知るのはユニオンに来てからのロックオン・ストラトスの記録とわずかな時間に過ぎないのだと思い知らされたばかりだった。その中で蓄積されたものは私にとって何物にも代え難い貴重なものだが、彼にはそれと等しく、あるいはそれ以上に大切なものもあるのだと、わかってしまった。
「そっか。…なあ、ティエリア、これ預かってくれないか?」
 緩く笑ったロックオンがジーンズのポケットから出したのは、さっきライルから受け取ったカードだった。それを差し出されて戸惑う。三ヶ国に跨る大銀行のロゴや記録されている金額より、それははるかに重いもののはずだった。
「ロックオン、」
「返されるつもりでやったんじゃないんだ。全部が俺の勝手で。でもライルの気持ちもわかるし、かといって受け取るわけにもいかないし。頼むよ。そうだな、どうしたらいいのか、わかるまで」
 そのカードはロックオンにとって大銀行のロゴや記録されている金額より、はるかに重荷なのだろう。困ったように笑う彼の、額に触れて寄せられた眉の間を伸ばしてみる。長い前髪が柔らかく指に絡むのを感じてから、その指で彼の希望を叶えた。
 カードはカードに過ぎない。しかし胸ポケットにかかる重みに少し息苦しくなる。しかしその分だけロックオンの負荷が減るのであれば、それを押し込めるように笑ってみせることも私にはできた。それくらいのことしか、できなかった。
「良かったな」
「え?」
「家族に、会えて」
 それはとても良いことのはずで、事実彼は喜んでいたはずだ。自分が感じる疎外感や淋しさなど取るに足らないくらい、良いことだった。だから笑った。両手を上げれば苦笑にも泣き笑いにも見えそうな顔で、ロックオンも応える。
「ティエリアのおかげだ」
 陽光に温められた服と体温が心地良い。浸透していく温もりだけを追いかける五感は、耳元に落とされたロックオンの囁きを理解することを放棄した。
「兄さん、何か手伝……オレ、やっぱ帰ろうか」
 ロックオンは抱きしめていた身体を放るように解放し、踵を返した弟を慌てて追いかける。玄関の方では誤解だという叫びも聞こえた。久しぶりに聞いたロックオンの素っ頓狂な声を聞きながら、カードの入った胸ポケットを押さえる。
 良かったと思う。ロックオンが家族に会えて。