名前など記号に過ぎない。ずっとずっとそう思ってきた。名前を呼ばれることが嬉しいことだと知ってからも、それは変わらない。名前など記号に過ぎない。記号以上の特別な意味を持つのは、それを口にして呼んでくれる人間の存在が特別だからに他ならないのだと、信じてきた。
「ティエリアって、綺麗な名前だな」
 特別な存在である彼がそう言ったのは、出会って間もない頃、ただの一度きりだったと記憶している。そのとき私は記号に対してそう形容することもできるのか、と小さな発見とそれに伴う驚愕を処理して、それきりにしてしまった。
 それから少し経って、彼に名前を呼ばれない日々が少しだけ続いた。彼が再び名前を呼んでくれたときには、並ぶもののない至上の形容を伴っていた。
「俺はティエリアが好きだよ。一番、大事だ」
 私にとって彼が特別で、一番になった瞬間でもあった。それは嬉しいよりも安堵よりも、ずっとずっと淋しくて苦しい感情で私を満たした。好きだと大切だと言われるたび、離れる時間が怖くなる。
 やがてその恐怖は波のように引き、時折寄せてはまた返す。嬉しくて幸せで、ときどきとても淋しくて、そして愛しい不安定で満ち足りた日々に慣れてさえ、名前は記号であるという認識を改めたことはない。
 名前は記号だ。そうでなければどうして彼がロックオン・ストラトスとして生きて、私のそばにいてくれたというのか。記号に過ぎないから、彼は過去をその名前と一緒に記号化することで、今を築いたのではないか。
 名前それ自体に意味はないのだ。名前を呼ぶことに、本当に大切な意味がある。ロックオンはそれを私に教えてくれた。




「っ、……あ、ニー、ルっ」
 繰り返し繰り返し名前を呼ぶ。それは相手を呼ばうというより、悲鳴や喘ぎ声に等しかった。
「ティエリア、いいよ、いい…」
 吐息とともに降り注ぐ声は、酔っているようだった。浮かれて、酔いしれて、恍惚とした瞳にはうっすら涙の膜が張り、伏せられた濃い睫が陰を落としている。そこに自分の姿がないことが、悲しいくらいにわかってしまった。
「あっ、もう、やめ、っ……!」
 最初に深く繋がってから一度も抜かれていないそれが、膨張したままひっきりなしに下肢を突き上げる。繋がった場所は濡れて擦れて、熱いのか痛いのかすらわからない。ただ、擦れる場所がそれでも強い快感を得て脳髄にまで伝わり、胸の先が疼いて咽喉の奥から声が出る。
「ティエリア、」
 シーツを裂くかと思うほど強く握りしめていた手を、簡単に取られた。優しいくせに、抗うことを許されない暴君の力だと思った。そこに落とされる口づけも優しいのに、少しも胸が温かくならない。
「名前、呼んでくれよ。な? ティエリア」
「っ……」
 慣れ親しんだ名前を呼びそうになり、慌てて頬の内側を噛んで押し止める。彼が望んでいるのはそれではないからだ。呼ぶたびに私の中を温かいもので満たしてくれる、あの優しい記号ではない。
「なぁ、ティエリア、な?」
「やっ、あ、ああっ……」
 疼いて膨らんでいた胸の先端を、爪を立てて摘まれる。摘んだ指がくるくると抓るたび、甲高い声が鼻から抜けていった。甘い疼きは胸から脳髄を巡って下肢に及び、内包したままの彼を求めて収縮するが、彼はそれをわかった上で繋がりを浅くしたまま動かない。
 先ほどからだらだらと目尻から流れていた涙の通り道を、また新たな一筋が辿る。欲しい欲しいと身体が鳴いている。その名を口にすれば与えられることはわかっていた。彼がそれを望んでいることもわかりきっていた。唇を噛みしめて抗ったところで、何の意味もないことも、またわかっていた。
「……ニー、ル、ニール、ニールっ」
 それは記号だ。記号に過ぎない。そう、悲鳴と同じで意味はない。ただ口にしているだけの、音声でしかない。
 そう思ってみても、覆い被さる彼の笑顔は柔らかく優しく歪んでいく。彼に強請られて、好きだ好きだと何度も繰り返したときのように笑っていた。
「ティエリア、愛してる、愛してるよ」
 ひどい。指を絡めてシーツに縫い止める手も、日だまりのように降り注ぐ笑みも、ゆっくりとかき回す下肢でさえ優しかったのに、そう思った。
 そう、ひどい。そんな風に笑って、そんな風に言われたら、応えるしか術はない。
「愛している、わたし、も、ニール……」
 続く優しいくせに激しい動きが頭を真っ白にしてくれた。意識なんて遠くに行ってしまえばいい。そうすれば記号を認識することもない。ただ肉体とそこに宿る体温だけ、感じられれば良いと思った。






「色ボケカップルに敬意を表して、オレは遠慮させてもらうよ」
 ロックオンがビリーにもらってきたというアジア風パスタを茹でようとしたとき、ライルはそう言って車のキーを取り上げた。
「……それはどこのカップルのことかねライルくん」
「もちろん、色ボケのせいで一年に一度しか会えなくなったバカどものことですよニール先生。あ、ティー、その一本だけピンクの奴食べるとエロくなるから気をつけてな。兄さんもそれ以上色ボケるとまじで仕事クビになるぜー」
 カッペリーニよりも細くて色も薄いパスタの束に混じった一本をまじまじと見ていた僕の頭を、ライルはがしがしと引っかき回す。
「ライル、食事はしないのか?」
「外で食べてくるよ」
 ライルは明るく笑ってみせる。こういうときの彼の表情は、彼の兄のそれより少しだけ力強く、否定を許されないと感じた。
「ライル、変な遠慮するなよ」
「いーや、遠慮するね。耳栓強く詰めすぎて、最近耳がいてえんだ」
 ロックオンは顔を伏せて表情を隠したが、苦虫を噛み潰したようなそれはしっかりと見えてしまった。そのやりとりで、ライルがなぜ出ていこうとしているのかわかったし、ロックオンが彼を引き留めたいのも引き留めきれないのもわかった。
 こういうとき、家族においても多数決が有効なのはすでに学習している。ときにライルはそれを振り切って出ていってしまうこともあるが、おおむね僕が一方に加われば方針は決していた。
 どうするべきか、と思考を始めたところで、僕の頭はひどく愚かで利己的なことを考え始める。だが、それはいけないと理性か本能かわからない部分が否定した。僕は自分が投じる一票が、一体誰の何のためになされるものかもわからないまま、口を開く。
「家族なら、食事は一緒にするべきだろう」
 そう告げた僕を、二人は笑って見ていた。とても優しく笑っていたので、きっと僕の言葉は正しかったのだろう。自分でも正体のわからない葛藤など、踏みつけて押し込めてなかったことにすればいいのだ。
「明日のシチューは一緒に食うよ。でも今日は兄さんにティーを独り占めさせてやんないと、ニールさんが欲求不満で、」
「ライル」
 彼が少し低い声で咎める。これで形勢は決まったかと僕はどこか冷めた気持ちで見ていたが、ライルは本物の苦笑を浮かべて拒絶して見せた。
「わり、ぶっちゃけオレ、それ苦手なんだわ。なんか水っぽくて」
「水物みたいな性格のくせに」
 手にしていた車のキーを、指先でくるりと回すライルを彼は座ったまま見ている。ライルを見送ることに決めたのだ。
「んじゃな。明日の昼には帰るけど、それで都合悪かったらできるだけ連絡してくれ。かち合いたくねえし」
「飲むのもほどほどにしとけよ」
「兄さんもほどほどにな。あ、ティー、ティー」
 リビングルームと玄関へと続く廊下の間で立っていたライルが手招きをするので、二人の元へ駆け寄る。ほんの十歩ほどの距離を駆けながら、ひどく安堵している自分に気づいた。
 二人の元に呼ばれたことか、それともロックオンと二人でいられることか。…そんなことはない。ライルと二人でいることも、ライルとロックオンとの三人でいることも当たり前の、家族になれたはずなのだ。
「ライル?」
「ん、いいかティー。夫婦だからって遠慮や我慢はしちゃだめだぞ? 兄さんはもちょっと我慢つか自制した方がいいけどな」
「ラーイールー」
「嫌なことはちゃんと嫌だって言うんだぞ?」






 覚醒したのは真夜中だった。時計を見るのも億劫で時間は確認していない。だがこの寝室だけ切り取られたような耳が痛いほどの静寂が、真夜中を思わせたのでそう判断しただけだ。
 枕と頬に髪を挟みながら視線を動かすと、安らかに眠る寝顔がすぐ傍にあった。
 そこに眠る人はいったい誰なのだろう。そんな益体もない、下らない考えが疲れて磨耗した頭に湧いた。本当に下らない。意味がない。
 名前など記号にすぎない。表層的なものでしかない。彼は彼でしかない。彼が呼ばれたい名前で呼ばれれば良い。私が彼にティエリアと呼ばれるのを望むのと、同じことだ。
 彼はニールと呼ばれたいのだ。そう呼ばれたころに戻りたがっている。そして、そこに私も連れていってくれようとしている。なら悲しいことなど何もない。嫌なことなど何一つ。
「ニール」
 掠れかけた咽喉でそう囁いてみる。彼の寝顔は穏やかだった。
 重く痺れた腕を動かすと、彼の腕が自分の身体を囲っているのがわかった。その腕を動かさないように、囲いの中でそっと動いて指先で彼の鼻先についた髪を掬う。穏やかな寝息は変わらず、安堵した。
 穏やかに眠れる日が続いているようだった。毎夜毎夜、肩に頬に触れる穏やかな寝息が教えてくれる。理由もわかっていた。
「ニール」
 もう一度、記号を呟く。彼が一度失った名前。失って淋しかったのだと泣いた彼を、まだ覚えている。彼はもう淋しくない。淋しくないのだ。
 だから私は、もう一つの記号を口にすることをしなかった。唇の縁まで出かかったそれを、噛みしめて飲み下す。
 彼はもう淋しくない。だから私も、淋しいことなどありはしない。嫌なことなど、何一つ。




 さようなら、ロックオン・ストラトス。