いつだったか君の女神に、と渡されたのは大きな花束だった。あのときも面食らったものだが、それでも今に比べれば常識の範囲内であるように思えるから不思議だ。
 フラッグ馬鹿の隊長が珍しく休暇をとり、カタギリさんと共に珍しいこともあるものだと顔を見合わせたのだが、その翌日に隊長は10tトラックで通勤して入り口の監視員を絶句させた。もちろん、うちの隊員たちも同様―――といいたいところだが、俺を除くほとんどが何故か大歓声をあげて喜んでいたことは見なかったことにしておく。
「きみの家族に渡しておいてくれたまえ」
 その言葉と共に俺に渡されたのは、両手いっぱい抱えてもはみ出すほどの大きさの、見慣れない植物だった。隣にいたカタギリさんに視線で助けを求めると、いやに穏やかな笑顔で笑いかけられる。
「これは笹だね。イネ科タケ亜科の植物で、タケと呼ばれることもある」
 そうじゃないです。いくらカタギリさんが博識だといっても、ここで期待しているのではそういう言葉じゃなくて。
 そう無言で訴えても、カタギリさんはレンズの向こうで菩薩のような笑顔を浮かべるばかりだった。
「敢えて言わせてもらおう。笹は、願いを叶えるありがたい植物なのだと!」
「そうかい。それはすばらしいねグラハム」
「ふふ…たくさんあるからとくと持っていくがいい」
「あはははは」
 ―――ついに日和ったか。
 二人の間で交わされる生ぬるい会話に、カタギリさんのどうしようもない諦めが見られて泣きたくなった。それは最後の砦が崩壊したことと同義であり、隊長の部下でしかない俺は涙をのむしかない。
「この笹を大いに着飾り、タン・ザークという紙に願いごとを書き記し、大いに下げるといいと聞いた! これは中国4000年以上の歴史が生んだ神秘なのだよ!」
「いやぁ全くすばらしいね。さすがグラハムだよ」
「これできみの身長も伸び恋人もできれば成績も学年トップになろう。大いに喜びたまえカタギリ」
「………はは、そうだね」
 そのとき、カタギリさんの笑顔が少しだけゆがんだのに密かに安心してしまった俺は、性格がねじくれているのかもしれない。隊長はいつだって悪気がないだけに残酷に他人を傷つける。
「……それにしても、」
 クリスマスに使ったオーナメントとイルミネーションはどこにしまったかな、とカタギリさんに問いかけ始める(隊長はカタギリさんをおばあちゃんの知恵袋か何かと勘違いしているんじゃないだろうか)隊長を後目に、手の中にいっぱいの笹を見下ろす。
 隊長の思いつきにあきれながらも、内心では悪くないと思う。ずいぶんと大荷物になってしまったが、車に乗りきりそうなことだけは安心した。こちらでは滅多に聞かない習慣だが、たまにはこういう変わったことをするのも悪くはないだろう。
 なにより、ティエリアの願いごとというのに、俺は大いに興味があった。寝静まっているときにちらりとチェックをして、願わくばこっそりと叶えてやれれば、という算段があった。願いごとというものは叶えるためにあるのだというのを、最近になってようやく理解できたのだから。






 帰宅した俺を見て弟は絶句し、ティエリアは眉一つ動かさず膝の上の端末に視線を戻した。最近急激に親密度をあげているとはいえ、隊長の奇行へ耐性があるのはティエリアの方らしい。
 我に返って笹を運ぶのを手伝ってくれたライルに、説明もかねて聞きかじりの知識を披露すると、ああ、と納得したような相づちを打って更に補足をしてくれた。
「オレもあっち出身の友人から聞いたな。なんか、恋人同士が色ボケしすぎて仕事をほったらかしたらお偉いさんが切れて、一年に一度しか会えなくなった―――みたいな伝説だろ? 兄さんも気ィつけ、」
「俺たちは年中無休ですー。なーティエリア」
「七夕ゼリー…星形……」
 端末に夢中になっているティエリアにさらりと無視され、がっくりと肩を落とす。ライルがはじけたように笑った。
 そもそもティエリアは、端末で笹でなにをすればいいのか調べる係に割り振られたはずなのだが、いつの間にか彼のホロモニターには「七夕限定スイーツ特集」のカラフルな画面が表示されている。隊長の奇行も大概だが、こういうときのティエリアのマイペースさも負けないと個人的に思う。こちらにはとうに日和ってしまっている俺だが。
「ティー、タンザークってなんか分かった? なんかのラスボスか?」
「ゼリー…」
「それは後で作ってやるから」
「………長方形の紙に、願い事を書いてつるすものらしい」
 なにげに俺よりティエリアの操作がうまくなっている弟に絶句した。やはり食卓を握っているものは強いということなのか。起きたい時間に起き、食べたいものを食べる、人間の三大欲求に正直に生きているのがティエリアであるがゆえに。
「そんだけ? 紙ってなんでもいいのか?」
「特に指定はない。この紙にでも書いておけばいいだろう」
「それダメ! うちの報告書!」
「仕事を家に持ち帰ってくんなよ無能兄」
「…早く帰りたかったんだよ! 仕方ねえだろ」
 笹をライルに預けて、ティエリアの手から報告書を奪う。いまだにオンラインでも、電子ペーパーでもなくアナログな紙が使われていることには驚いたが、実際に使ってみると意外に扱いやすくて悪くないことが分かった。しかし形に残るだけに、扱いには気を使わねばならないと肝に銘じた。危うく切り刻まれて笹につるされるところだった。
 報告書のかわりに、はさみと新聞の間に挟まっていたチラシを何枚か握らせる。すると、ティエリアは小さくうなずいてさくさくと紙を切り始めた。不器用なのは相変わらずで、早くも切り口がぐねぐねと曲がっていたが、仕事をしてくれることそれ自体が大事なのでよしとする。
「…顔、ゆるんでるぜ」
「さーてと! 俺たちもなんか書くか! ライルお前、なにお願いするんだ?」
「えーとぉ、誰かさんのビョーキが治りますように、とか?」
「……病気って何だよ」
「このティエリア病末期患者。年中無休でよかったなぁ。兄さんが一年に一度しか会えなくなったら死んでんじゃねえの?」
「ティエリアー、ライルがいじめるー」
「また歪んだ…何故だ、何故うまくいかない!」
 馬鹿にされた。その上切るのに夢中になったティエリアにまた無視された。立つ瀬のなくなった俺を残酷に弟が笑い飛ばす。今年の願いごとは家長としての威厳にしようかと一瞬、本気で考えた。その一方で、愛が深くて何故いけないのかと思考が開き直ろうとしている辺り、当分叶いそうにはないのだが。
「兄さんはなに? ティエリアがかまってくれますように、とか?」
「馬鹿。ふつーに、家族全員の幸せでも願っとく」
 笑み混じりにそう返すと、同じ色をした深緑の目がきょとんと見開かれる。何をそんなに意外ぶるのか。俺はそんなに末期に見えるのだろうか。
「俺はティエリアと、お前の家族だしな。三人セットだろ」
「……そいつはどーも」
 てっきり一緒にするな、と鼻で笑われると思ったが、ライルは無表情に視線を逸らすだけだった。何か気のさわることでも言っただろうか。怪訝に思いはしたけれど、すぐそばで金属が堅いものにぶつかる音がして意識が塗りつぶされる。
「おま、危ねえだろうがティー! はさみ投げンな!」
「何故うまくいかない…俺は、僕は、私は…」
「あー畜生! 兄さん、カッターと定規!!」
 自分の不器用さに嫌気がさし、ネガティブスイッチが入って膝を抱え出すティエリアの横で、ライルがカッターと定規を使ってまっすぐに切る方法を教え出す。その有様に、泣き出すエイミーをなだめるちいさなライルの姿を思いだし、思わず口の端がつり上がった。
 ふと、笹に何か知らない紙が下がっていることに気づく。めくると、見慣れた字で願いごとが書かれていた。

「ティエリアの家事がせめて人並みになりますように」

 根気強い先生に心から感謝を捧げた後、その隅っこに小さく、更に何かが書かれているのに気がつく。あわて書き加えたためか、乱雑さが目立つそれを解読するのには、少しだけ時間が要った。

「兄さんがニールに戻れますように」











「明日の夕飯はアイリッシュシチュー」

 一時はどうなることかと思ったが、ライルの辛抱強い教授により、長方形をなんとか綺麗にかたどることができたようだ。しかしその上に書かれた中身は願望というよりも唯のメモだったが。確かに、思いつかないとうんうんうなっていたティエリアに、ほしいものでも適当に書けばいいんだと言ったのは俺だったが、まさか夕飯のリクエストをされるとは思わなかった。
 思わず苦笑を浮かべると、あまり味が濃くないもの、と付け加えられる。最近食事はライルに任せきりでいるが、そこまで言われると、久々に作ってやりたくなった。笹の葉に夕飯のメニューをくくりつけようとする後頭部を軽く撫でて、了解、と言ってやると赤い瞳がくるりとこちらを顧みる。その視線のまっすぐさに、なぜだかたじろいでしまった。
「そういえばあなたは、何を書いたんだ?」
 そう言ってのばした手のひらがライルのものに触れたので、思わずその手を絡めとる。料理が下手であるという自覚はおそらくあるのだろうが、それでも実際に突きつけられればまた落ち込んでしまうだろう―――といった配慮は単なるいいわけで。
 もうひとつの願いを、ティエリアに、見せられなかったのだ。
 怪訝そうにこちらを見つめながらも、指先はきゅっと俺の手を握りしめてくる。その指先の疑いのなさに、胸がちりりと淡く焦げた。
「俺は…三人で、幸せになれるように、ってな」
 口の端をつり上げて言葉にすると、ひどくありふれたもののように響く。しかしこんな普通のことを、俺は、俺たちは、十年間も失っていたのだと突きつけられた。たとえば、こんな風に手の中にだれかの体温があること。薬指にある金属の環で約束をしてくれること。こちらを見つめる目がゆっくりと細められて、笑いかけてくれること。
「…よかった」
「何が?」
「三人ということは、あなたも入っているんだな」
 ―――幸せになんてきっと、なれない。ずっとそう思っていた。
 家族が一瞬にして吹き飛んでから、普通を、当たり前を、何もかもを信じられなくなった。それなのに今の俺は平然と、図々しく、チラシの裏に書き記して願っている。人間、変わってしまうものだと思う。
 笹の下でティエリアを引き寄せる。やわらかい体温を感じながら、ひどく満たされた気分になりながら、まぶたの裏で、あのライルの願いごとを思い浮かべていた。
 ―――幸せなのだ、俺は。以前とは考えられないくらい。
 故郷を捨てて、名前を捨てて。何もかもを失ったあのときとはもう、違う。
「なぁ、ティエリア」
 そして俺は、少しばかりの間違いを犯した。多幸感は質の悪い麻酔のように、頭を鈍くする。恋に落ちたばかりでお互いのことしか考えられず、やがて会うことを禁じられたふたりのように。
「ニールって呼んでくれないか」
 そこでティエリアが目を見開いて、息をのんだ。その変化をきちんと捉えることができていれば、それ以上の間違いを重ねずに済んだのか。
 腕の中に閉じこめていたせいで、何一つ気づくことができなかった。

 いつだって、願いばかりが先にゆく。指先を掠めては少し先へ遠ざかる。俺はそれを追いかけてばかりで、背中をじっと見つめる視線に、たまに気づけないでいる。
 指先は、確かにつながっているはずなのに。これだけはすり抜けないように、しっかりとつなぎ止めているはずなのに。

「…ニー、ル」

 微かに上擦った呼び声の意味も。何一つ。