ある日俺たちのもとへ、唐突に空色の自転車が届いた。
 聞くと、ティエリアが通販で買ってきたらしい。彼の気まぐれには慣れているつもりだったが、今回はその大きさもあってか多少の驚きを覚えた。
 ―――いや、自転車は良いのだ。唐突とはいえ唯の買い物だ。しかし、当然のように自転車にまたがって、ペダルを踏み出した途端に、ドンガラガッシャン!と派手な音を立てて自転車とティエリアが共倒れしてしまい、俺は言葉を失った。
 手伝わなかったことを内心で後悔するが、敢えて言い訳をすれば、この歳になっても自転車に乗れない人間がいたなんて、思いもしなかったのだ。
 地面とキスをしたティエリアは無表情で立ち上がり、全身の埃を手で払いながら、自転車と共に立ち上がる。おずおずと怪我はないか、と問いかけると、問題ない、と言いつつ頭から血を流していた。どうやら転倒した拍子に石で切ったらしい。
 視界を血で塞がれてなお自転車に乗ろうとする彼を止め、患部にガーゼを当てて包帯を巻いてやる。それをまるで他人事のように受け止め、空色の自転車をずっと見入っている彼が本気で心配になった。

 原因は分かっているのだ。最近腹周りの脂肪が気になると呟いた弟とともに、二人で自転車で買い出しに出かけた。休日のさわやかな空気を通り抜けるのは気持ちがよく、二人でまた行きたいと話し合っていたところだったのだが、ティエリアはつまるところ、それが羨ましかったのだろう。
 別に仲間はずれにした自覚はなかった。唯、普段からあまり外に出たがらないティエリアを強引に誘うのは躊躇われたというだけだ。実際、俺たちのサイクリングは気候や景色に恵まれていたからそれほど気にならなかったものの、相当ハードだった。ライル相手だと気にする必要もないせいで、車でもあまりいかないような遠いところにあるショッピングモールまで、一日かけて行ってしまった。日がな運動している俺とは違い、ライルは帰り道ぜえはあと息を切らしていて、そのくせティエリアには風が気持ちよかったとか、どこどこの夕陽がきれいだったとか、そういうことを一番吹き込んでいた。
 ティエリアがその気になるのも無理はない、と思う。憧れの視線を自転車に向けるティエリアを、しかし内心ではどうしたものかと持て余していた。







「後ろから支えててやるから、好きにこいでみろよ」
 そう言う俺の顔をみて、自転車にまたがったままのティエリアは黙ってこっくりと頷いた。頭にぐるぐると巻かれた包帯を痛々しいと思うが、本人はまだ練習をやめる気はないようだ。
 ティエリアの運動神経は取り立てて悪くはない。むしろ普段の引きこもり生活を考えればもったいないくらいの良さだ。一日練習すれば、すぐに自転車くらい乗れるようになるだろう。ゆっくり進む自転車の後ろを支えながら、そんなことを思った。
 すいすいと進んでいく自転車の後をついていくのをしばらく続けた後、少し考えてから手を離す。いつまでも俺が支えていては乗れるものも乗れないままだ。いずれは俺の手を離れて、前に進まなければならない。というか、数十分もそれなりの早さで進む自転車の後を追いかけるのもいい加減つらい。そんな諸々の事情を含み、空色の自転車は一日目にして俺の手を離れ―――、
 そして、音を立ててバランスを崩した。
「…あ、あれ?」
 自転車とともに地面に伏しているティエリアを信じられずに見下ろした。まさか、本当に乗れないとは思わなかった。少し感覚がつかめていないだけで、少しこぐ練習をすれば、すぐに乗れるようになるだろうと思いこんでいた。
 だから、肩をふるわせて起きあがろうとするティエリアも、砂ぼこりにまみれた空色の自転車も、どれも俺には信じられない。
 ティエリアは汚れた手のひらで髪をかきあげ、包帯を汚した後、紅茶色のひとみで、呆然としているこちらをきつくにらみつけた。明らかな敵意と憎しみがこもっている目でみられ、たじろぐしかできない。
「まさか、あなたにたばかられるとは思わなかった」
「あ、いや…これは、」
「あなたが支えてくれていると思ったから、僕はこいでいたのに…」
「違うんだ、ティエリア」
 言い訳をしようとする俺をよそにティエリアは立ち上がり、空色の自転車をよいせと起こす。そのやり方があまりにも不器用で、手を貸そうとしたらまるで虫でも払うようなそぶりで拒絶される。だから違うんだよ、と言い訳をしようにも、相手がまるで俺などいないかのような有様で無視を決め込むので、どうしようもない。こういうときのティエリアの頑なさが痛いほど分かっているだけに、途方に暮れるしかできなかった。






 その日の夕飯は、非常に居心地が悪かった。
 せっかく人が腕によりをかけてチキンカレーとサラダを作ったというのに、一方はずっと眉間に皺を寄せながらカタログを眺め、もう一方はそいつのことを気にしてずっとおろおろしている。
 事情は分からないが、とりあえず何かあったということだけは伝わり、しかしこの場で問うのも躊躇われて、黙って口元にカレーを押し込むだけの時間が続いた。
 しかし、耐えられたのも少しの間だけで、オレはできるだけ軽く聞こえるように笑みを張り付けながら、カタログをみている方に声をかける。
「どうした、ティー。なんか欲しいもんでもあんのか」
 むぐむぐとスプーンをくわえながらカタログをめくるティーに声をかけると、ティーはねぶっていたスプーンを口からはずして、しかしカタログから視線を外さないまま問いに応えた。
「補助輪だ」
「……ほじょりん?」
 思わず復唱するオレの前に、カタログの1ページを突きつけてくる。そこには、小さい自転車に乗った子どもの写真が掲載されており、後部タイヤの横にさらに小さな車輪がふたつくっついていた。これはオレも知っている。自転車に乗るにはまだ早い子どもが、転んで怪我をしないように安定性のある車輪をくっつけて自転車をこげるようにすうる、というやつだろう。
 胸を張ってそれを見せるティーを目の前に、オレはどこからツッコんでいいものか迷った。少し悩んだ後、一番基本的な事柄から確認のため問いかける。
「ティー……お前、自転車乗れねえの?」
「乗れないわけではない。補助輪を使えばきっと…!」
 それは乗れないというのだと言ってしまいそうになって、それから彼の髪の間に見える、ほこりで色の変わった包帯を見つけて口をつぐむ。痛みを教訓にして道具に逃げるという手段に出ただろうが、ティーが買ってきた大人用の自転車に見合うような補助輪は見つけられそうになかった。ティー自身も、先ほどから何度もカタログをめくってはため息を吐いている。
「…僕だって、乗れるはずなんだ」
 きゅっと唇を噛みしめるティーをみて罪悪感に胸が痛む。サイクリングはいいものだ、と吹き込んだのはほかでもないオレだった。まさかティーが自転車に乗れないなんて思いもしなかったのだ。しかし、ここで謝るのも違うと思い、そっと彼の手からカタログを奪う。怪訝そうにこちらを見てくる相手に笑いかけ、言葉を続けた。
「だったら、練習すりゃあいいだろ? 補助輪探すよりいいと思うぜ」
「…しかし、」
 言いよどんでから、険しい顔で兄さんをにらみつける。ひっと怯えたように息をのむ兄の姿を見て、だいたい何をやらかしたかは見当がついた。自転車の練習ではよくあることだ。子どもはたいていそうやって親に裏切られ、怪我をしながら成長していく。―――などと、他人事のように結論づけて無責任に笑った。
「…仕方ねえだろ。いつまでも支えてたら練習になんねえんだから」
 うつむいたまま、小声で言い訳をする兄さんに、ティエリアは怒りをにじませて反論する。
「仕方ないだと? ならば声をかければいいだろう! 無断で離し、たばかるような真似をするなど万死に値する!」
「言ったらお前、足ついちまうだろうが!」
 チキンカレーそっちのけでテーブルから立ち上がり、口論を始めようとする二人に、思わずため息をついた。この原因が、自転車の練習だと言うから世の中は平和なのかもしれない。
「まーまー。落ち着くこった」
 しかし、いつまでも喧嘩をしたままだと食事がまずくなるだけなので、苦笑をしながら二人をなだめる。きっかけはオレたちと一緒にサイクリングをしたいというティーの願いなのだし、兄さんもそれに手を貸そうとしていたのだ。それがこじれるのもおかしい話だろう。
「オレがとっときの練習法を伝授してやるからさ」
 いつか、ティーが自転車に乗れるようになったら、三人で晴れた日に出かけたい。オレも思うから。







「動きづらくないか、ティエリア」
「…問題ない」
 そう言いながらも、ティエリアにしがみついているせいで、彼の身体が緊張で強ばっていることもわかってしまう。耳の下に、数日前につけた赤い痕がまだ残っているのを見つけ、ばつの悪い気持ちになった。濃い色の髪からこぼれる、シャンプーと体臭の混ざったにおいは少しばかり刺激が強く、あらぬことを考えてしまう自分を押しとどめてから、薄い胸のあたりに手を回した。
 ライルのいう、とっておきの練習方法というのは、なんのことはない、ただの二人乗りだった。倒れそうになったら俺が足をついてやれ、ということらしい。一人乗りですらバランスをとるのが難しいのに、最初から二人乗りというのはどうなんだとか、喧嘩した直後なのに気まずいとか、色々と言いたいことはあったけれど、当のティエリアが黙って頷いたので、俺はこうして彼の後ろに座っている。
「…なぁティエリア」
 彼がペダルに足をかける前に、小さな声で話しかける。うやむやになって練習を始める前に、言っておこうと思ったのだ。
「悪かったよ。今度はうまくやるから」
 そう言って抱きしめる腕の力を強くすると、ティエリアは俺の腕にそっと手のひらを重ねてきた。やさしい触れ方に胸が跳ねる。背を向けられているせいで表情はわからないが、続けて彼がいった言葉の響きは、穏やかだった。
「…先に、言われてしまった」
 やさしい指先が額にかかり、流れる毛先をそっとかきあげる。彼は静かに言葉を続けた。
「僕も、あなたが見たものと同じ景色を見たい。だから少し、やってみようと思う」
「ティエリア…」
「転んでしまわないように、助けてくれ」
 それだけ言った後、乱暴に彼がペダルを踏み込んだので、慌てて俺は彼の身体にしがみついた。すぐ近くにある耳が真っ赤だったから、照れ隠しもあったのかもしれない。
「おい…」
 おぼつかない足取りで数メートルだけ走った自転車が、やがてすいすいと加速していく。最初の強い踏み込みがよかったのか、俺が足を下ろすタイミングもなく自転車は前に進んでいった。
「すごいじゃねえか、乗れてる!」
「ロックオン…!」
 喜色満面の笑顔が与えられ、揺れる景色の中、そこに強引に口づける。抱きしめる力を強めた。やった、やったな、と何度も繰り返した。もともと運動神経も悪くはないし、やる気もある。乗れないはずなどないのだ。ティエリアだけが、あの景色を見られないなんてことは決してない。
「よくやったティエリア!」
 空色の自転車の上で、俺たちは大はしゃぎだった。
 そのおかげで俺は、なぜ自転車をこいでいるはずのティエリアの顔を見ることができるのかということを、喜びのあまり考えないでいた。
 ―――そのことに気がついた瞬間、俺の顔面から血の気が引く。俺を涙目で見つめ、達成感に酔いしれている可愛いティエリアは名残惜しいが、背に腹は代えられない。
「ティエリア、前みて走れ!」
「…え?」
 彼もまた、はたと我に返る。その瞬間に自転車のバランスが大きく崩れた。
 そうして、自転車と俺たちが派手に絡み合って地面に投げ出される。とっさにティエリアの身体を抱き込めてかばったせいで、あちこちが痛い。
「ロックオオオオン!!!」
 腕の中のティエリアが俺の名前を呼ぶ。仰ぎ見た空は自転車と同じ色をしていて、ばかみたいにきれいだった。
 こういう景色を、これから彼と自転車に乗って、見に行くのだ。