ホビールームに同居人がこもって三時間が経過した。かの美貌を照らし出した朝日は、先端を丸めて上から降り注ぎ、すでに昼食の時間を告げていた。
 彼の友人の勤務シフトを確認したところ、俺と同様今日は休みだった。ということは、今この瞬間に廊下の先でしたドアの開閉音は彼の友人にして俺の上司の入れ知恵、もとい助言である可能性が高い。
 本人は否定したがるが、彼は親友に劣らず性質の悪いジョークが好きだ。グラハムと一緒にされるのは心外だな、という言葉に説得力はない。要は比較の問題だ。だから俺は心して同居人のルームシューズが奏でるぱたぱたという可愛い足音に耳を済ませた。
「パパ」
 ソファにかけた俺の首に、カシミヤに包まれた腕が後ろから絡む。咽喉と鼻に目一杯ひっかけて発した甘い声に、二重の意味で目眩がした。
 ―――そうきますかカタギリさん。
 ここで大事なことは、敵を同居人本人と見定めないことだ。そんなことをしたら俺は圧倒的に不利になる。敵はあくまでティエリアの可愛らしさを使って俺で遊ぼうとしている邪悪なちょんまげと日本かぶれのサムライもどきだ。
「なんだいベイビー」
 気を抜けばぐっだぐだに甘くなりそうな声を平坦にするよう意識する。効果は五割強といったところだが、抑揚のない棒読みではティエリアの優位を教えているようなものなのでこれでいい。
 肩にかかる重みに続いて、なめらかな髪が顎の下でたわむ。首筋にティエリアの頬を感じ、吐息に咽喉仏をくすぐられた。
「おねがい、さっきの」
 ベッドの中でも聞いたことのないような甘ったれた声を、何の練習もなしに出せるはずがない。端末のマイクとその向こうにいる友人に向かって練習したのかと思うと、笑えるより先に大人げない気持ちになる。それだけ効果的なのだ。この作戦は。
「あのなティエリア、友達を信じるのは良いことだけどな、たまには疑ってもいいんだぞ?」
 首にかじりついていた腕がびくりと硬直して、一瞬呼吸が止まる。圧迫された咽喉からぐえ、とこみ上がる声を何とか飲み込んで、固まった腕を軽く叩いた。それがスイッチであるかのように、ティエリアはぱっと腕をほどいてソファの背もたれをバリケードに見立てて姿勢を低くし距離を取る。
「……なんのことだ」
 その敵意と隔意と冷たさを孕んだ声に、先ほどの甘さは欠片もない。がんばって練習したんだな、と涙ぐんだ。要するにティエリアは俺のために自分を可愛く演出するという発想がないわけで―――涙が零れそうになったので俺は思考を切り替えた。そう、わざわざ演出しなくてもティエリアは可愛いんだからいいじゃないか。
「カタギリさんの入れ知恵だろ。お前の語彙に「おねがい」なんて言葉はないからな」
「馬鹿にするな! 意味と用法は知っている!」
「ナポレオンだって不可能の意味は知ってたぜ、多分」
 ティエリアは辞書を諳んじてみせるほどの記憶力を誇っているが、いまだ口喧嘩には俺に一日の長がある。雑学と経験、それに屁理屈を加えれば、ティエリアは答える術もなく、毛を逆立てた猫のように威嚇するしかない。
 ソファの背もたれに食い込んだ爪がぎちりと軋む。そろそろ切ってやらなきゃな、と昨夜つけられた背中の傷と親心が告げた。
「そんなに欲しいのか?」
「……。欲しい」
 溜め息混じりに呟けば、数瞬の間をもってティエリアが頷く。多分それはティエリアが作戦続行を決意するのと外装を取り替えるのに要した時間だ。いつもなら居丈高に命令調で宣告するように言うのに、今は小さな頷きとともに見上げながら、最小限の舌の動きでたどたどしいおねだりだった。
 ―――かわいい。
 あざとすぎて食傷気味になるということはない。こうした懸命の努力を退けるのが、社会的にもティエリアの保護者となった最近の俺の結構な楽しみになりつつあった。
「でもだーめ。うちのリビングはシアターになる必要はありません」
 今回のティエリアのおねだり―――費用は全てティエリアが自力で生み出したものなので正確な表現ではないかもしれないが―――はまたしてもテレビだった。
 先日買い替えたばかりということ以上に、リビングルームの三面の壁と天井に設置するというばかでかさが反対する理由だ。
「オレは画質なんてこだわりないし、お前はろくに見ないだろ? 使わないものを…って何回目だこのやりとり」
「あなたこそ、使用目的ではないと何度言ったらわかるんだ」
「わからないからだよ! テレビもこの前買った車みたいな値段の洗濯機も、道具なの! 道具は使うもんなの! 使わないもん買って何が楽しいんだよ」
 件の洗濯機はティエリアが必死に導入したがったので、家事に積極的になるのかと思いきや、当番はやはり半々がいいところだった。説明書と操作方法を一通り平らげれば、ティエリアの欲求は満たされてしまうのだ。車とMS以外のメカに興味はなく、それも使うことに意義を見出す俺としては全く不可解でしかない。
「あなたと並べて眺めたい!」
「……はい?」
 大間抜けな声が出てしまったのは、やむを得ないと思う。不可解なものは理由を説明されても不可解でしかない。不可解ではあるが、興奮して頬に血を昇らせ、眼鏡の向こうの潤んだ瞳の可愛らしさという破壊力はがっつり俺を叩きのめした。
「んーと、ティエリア? どういう意味なんだ、それ」
 上体をひねってソファの後ろを向き、背もたれ越しに腕を伸ばして紅潮したティエリアの頬を撫でる。すっかり猫なで声になった俺に、ティエリアはしぶしぶといった体で立ち上がった。頬に触る俺の手を振り払うようにぷいっとそっぽを向いて、背もたれに腰を預けたのはせめてもの抵抗だろう。
「あなたが好きだ」
「俺もティエリアが大好きだ」
「黙っていろ」
「…はい」
 唐突な告白にすかさず応えてしまったが、ティエリアなりにわかりやすい説明を試みているのかもしれない。
「私は高度なメカニズムが好きだ」
「うん」
 余計なことを言えばまた叱られるので、最低限の相槌だけを打つ。だがその意図はまだ掴めずにいた。そのまま次の言葉を待つ。
「その二つを同時に見たいというのは、おかしな欲求なのか。私はあなたがあれを使っているところを見たい」
 要するに、辞書をそらんじてしまうような頭を占めていたのは、ハイテク(好きなもの)+おれ(好きなもの)=すごく好きなもの、という小学生レベルの足し算だったということか。
「かっわい……!」
 押し殺しきれない叫びと同時に腰を目一杯捻り、背もたれにもたれるティエリアの腰に抱きついた。思い切り引き上げると、とんと床を蹴る気配と共にティエリアが膝の上に落ちてくる。背もたれに足が引っかかったまま仰向けに倒れ込むティエリアの背中は、静かに膝の上で弾んだ。
「受け身を取るなんてやるなあティエリア」
「可愛い、と言ったあとのあなたの行動くらい想像がつく」
 宙ぶらりんな爪先を天井に向けて揺らしながら、ティエリアは得意げに笑った。
 衝撃でずれた眼鏡を摘まんで外すと、視線と指先が追いかける。それを遮るように顔を突き出して、俺は多分凶悪な顔で笑った。
「じゃあ、この続きもわかるよな」
 右手で眼鏡をローテーブルに置き、左手は上を向いたままのティエリアの足に触る。膝裏から太腿を撫で、内股を真っ直ぐ下に手を滑らせれば足がゆらゆら揺れるので、腕で抱きかかえるようにして自由を奪った。肩に膝が当たり、上下が逆転したような姿勢が妙に興奮を煽る。
「わかるが、今は話を……」
 ティエリアが言いよどんだのは、ピタリとくっついてしまった膝を割ろうと這い回る左手でも、胸元を探る右手でもなかった。逡巡ののち、膝がゆるゆると開かれ、だらりと垂れていたティエリアの手が俺の足に触れる。
「買ってもいいなら。……パパ」
 ティエリアの柔軟な戦術には舌を巻くが、計算高さを打ち砕く野性というものが実戦には往々にしてあるものだ。理性などはるか彼方に追いやった俺が、この場合はそうだった。


「んん…」
 膝の上の身体を抱き上げて、唇を貪る。ティエリアも慣れたもので、息苦しさに喘いで抵抗するようなことはなく、柔らかく濡れた唇の感触を思う存分味わった。
 ティエリアの薄い唇は舌でなぞると余計に小さく感じ、幼さを強調する。それが粘膜を溶かすようなどろどろのキスに応えるのも、パパと呼ぶのもどうしようもなく俺の脳をダメにした。
「ん、なあ、ティエリア、もっかい呼んで」
「ふ、ぁ…ロックオン?」
「違う、さっきみたいに」
「……買ってもいいなら」
「案外粘るね、お前さんも」
 俯き通しの首も、張り詰めるばかりの股間もきつくなったので、ティエリアの身体を起こして膝の上に座らせる。
「あなたも強情だ」
「そうかもな。ほら」
 ティエリアのTシャツの裾をめくり、脇腹を小指でなぞりながら引き上げる。ん、と目を閉じ首を縮めたティエリアの、露わになった胸にはうっすら赤く、夜毎の名残が散らばっていた。
「じゃあ、俺が許したくなるくらい、可愛くしてみな」
 すでにふっくらとした小さな胸の先端を口に含む。唾液に濡れたそれを舌で転がすと、ティエリアの咽喉が悩ましげに震えた。しこりと弾力のあるそれは吸うとふくらみを微かに増す。歯は立てずにひたすら舌と唇、そして粘膜で貪っていると、膝の上の身体がぐずった。
「いやだ……しつこい」
 頭を包んだティエリアの手が髪の毛を引っ張って催促するのを、俺は咽喉の奥で笑う。
「じゃ、呼んでくれたら続きする」
「買ってもいいなら」
 俺はそれには答えず、頑なに唇を引き結ぶティエリアの裸の背中に右手を当てた。なめらかな素肌の感触は惜しかったが、中指の先端だけを背筋に当ててゆっくりと真っ直ぐに下へと辿る。
「っ……!」
 腰の少し下の辺りがティエリアは弱い。そこは余計緩慢になぞるとティエリアの身体は大きく震えてしがみついた。
そのままボトムと背中の隙間に手を入れ、中指の先が小さな尻の谷間を探るとティエリアはますます強く俺にしがみつく。堪えきれずに漏れる甘く乱れた吐息を耳に感じ、濡れ始めた指先と共に俺の脳は痺れていった。
「な。呼んで。呼んで欲しいんだよ」
 左手で膨らんだまま震えていた胸の先端を緩く摘んだり押し込んだりすると、弾力のあるそこはくにくにとした感触で応える。くつろげていないボトムの中は窮屈だったが、ぎりぎりまで指を伸ばせば濡れ始めているそこを引っ掻くことはできた。大きくしなるティエリアの身体に俺もいい加減ジーンズが苦しい。
「あっ、いやだ、……パパっ…」
 嬌声とすすり泣きまじりに紡がれた倒錯的な呼称に酷く興奮する自分の、道徳観だの常識だのには疑問を抱かないわけではない。だが今は道徳の時間ではないので、俺はティエリアの身体をいじめるのを止めて、そのボトムをずらしていった。
 膝の上に横抱きにした足から下着ごと裾を抜くと、素肌の膝が曲げられ濡れた中心が隠される。
「おりこうさん、これじゃ俺が脱げない」
 涙の滲んだ眦を吸い、促すと賢いティエリアは自ら身体を起こして俺の足を跨いだ。俺がジーンズのジッパーを下ろすと、すぐさまにじりよって立ち上がったものを擦らせる。
「パ、パっ…ぁ…、」
 ティエリアの秘所は昨夜の名残でまだ柔らかく、前から伝ったもので塗れ、赤くひくついていた。それが緩慢に、ねだるように揺れるものだから、俺はいくつかのステップと気遣いを省略してティエリアのしなやかな腰を促して高ぶった自身を押し込む。
「ひっ、う、んん……あああっ」
 少しきつさを感じたが、ティエリアの身体は貪欲に俺を飲み込んで、凶暴な俺はティエリアの中を蹂躙する。残滓と曖昧な前戯で程良くほぐれた感触の好さと、ティエリアの呼び慣れないたどたどしい呼び方、そして窮屈な思いを強いられたことも手伝って、俺は小刻みにグラインドするティエリアの中で着実に膨張した。
 手前―――ティエリアの腹側を意識して擦り付けると、包んだ俺ごとティエリアの下肢が窄まる。
「いいっ……ティエリア…!」
「あっ、ああ、う、っ……!」
 身体が大きく震えて二人揃って達する直前、ティエリアは嬌声ごと俺の肩に噛みつき、そこには綺麗な赤い歯形ができた。



「ひどい男だ」
「……ごめんなさい」
 事後に拗ねるときは、それでも俺にしがみついてばかりのティエリアが、今日はソファの反対側で丸まっている。顔を埋めたクッションから発した声は嗄れていて、俺はケットをかぶった背中を撫でることもできずに謝罪した。
「あなたはひどい」
「おっしゃる通りです」
 頭までケットをひっかぶった姿は滑稽で可愛らしいが、もうそれをどうこうする資格は俺にはない。散々鳴かせて自分を呼ばせて、二度目からは声をせがんでひどく焦らした。我ながら下半身が別物ではないかと思える行為に、理性が死にたいと叫んでいる。
「ずるい、ひどい。いつもいつも」
 しゃくりあげるような言い方に、本格的に泣かれるかも知れないと思った。慰めても宥めてもそれを誘発してしまいそうで、不器用に謝ることしかできない俺をティエリアは少ない語彙で詰り続ける。
「ずるい、あなたばかり、ずるい」
 それがベッド―――ではなかったが―――の中でのことを指しているとは思えなかったが、ここで尋ねるなど愚の骨頂以外の何物でもない。疑問を飲み下して小刻みに震えるケットの塊を見つめていると、くぐもった声が中から聞こえてきた。
「この家も、家具も、カーテンも壁紙も全部あなたが選んで決めたくせに」
「へ?」
 疑問を口にすまいと思ったのに思わぬ言葉に口が滑る。ティエリアがずるいと詰っているのは俺の無体な振る舞いではないらしい。ケットにくるまった頭にあるのは、いまだに新しい家電を買う、その一点のようだった。
 確かに事の起こりはその問題だったが、自分のケダモノっぷりに絶望するばかりで、それが尾を引いているとは思いもしなかった。そんな俺は、確かにひどくてずるい男だろう。
「いやそれは、ティエリアに似合うのはどんなかなって」
「なのに私には何も買わせないなんて」
 反論の余地は、多分ない。ここは俺が勝手に探して勝手に決めた家で、ここで暮らすティエリアを見たいと思ったように、ティエリアにも俺の理想のビジョンがあるのだろう。金銭感覚と家庭への価値観がちょっと問題になるくらい違うだけで。
「ティエリア……」
 反省するのと同時に、価値観は違えど俺と同じことを望んでいたティエリアがたまらなく愛しくなり、ケットの塊に手を伸ばす。分厚い生地越しで構わないから抱きしめたかった。
「パパ、と何度も呼んだのにひどいし、性行為ではぐらかすばかりで、」
「……すいませんでしたぁ!!」
 ティエリアを抱きしめようとした手はそのまま床につき、俺は思いっきり頭を下げた。理屈や理性の為せる業ではない。心からの謝罪だった。ティエリアの嗄れた声に心が罪悪感でいっぱいになる。
 ケットはますます頑なに丸まっていく。隊長直伝のサムライ式謝罪も意味はなく、下手な行為は火に油。だとしたら、俺にできることは一つだけだ。
「わかった! 買っていいから、何でも好きなもの!」
 ケットの塊がぴたりと震えるのを止め、陰からのそりとティエリアの目と額だけが覗いた。口元を隠した姿は可愛らしいが、少し赤くなった目元に胸が痛い。
「ただし、いっこだけな」



 次の休みの日、我が家に来たのはホームシアター並みのテレビではなく、最新のシステムキッチンだった。ケットから這い出たティエリアが嬉々として取り出したカタログの、ロボットアームが伸びてきて皿や鍋を渡してくれるを最新式どころか前衛的にしか見えない代物が、この少しカントリーテイストな家にあるのは何とも奇妙だ。
 使いこなせない、ロボットアームが動いてちゃ落ち着かない、という俺の懇願をティエリアは快く退け、安い中古車なら二、三台は買えそうな額のシステムキッチンの請求書にそれはそれは楽しそうにサインをした。
 結局その機能は三割も使われていない。ただ、料理をしている間にちらちらとティエリアの視線を感じるようになったのが、恐らく唯一にして最大の利点だろう。







「……以上のような経緯で、これを導入するに至った。理解できたか」
「あーうん、まあ、真珠が似合う子豚ちゃんがいてもいいんじゃね?」
 意味がわからない、と首を傾げる美貌に、オレは兄夫婦の家庭円満を祝して無性に飲みたい気分になった。この家では、居候というのもなかなかストレスが溜まるのだ。