ティエリアはさきほどからずっと雑誌とにらめっこを続けている。どうやら、彼が片手に持っているのはクロスワードパズルの雑誌のようだ。俺が、暇つぶしに買ってきたそれを、いつの間に見つけてきたのだろうか。てっきり捨てたとばかり思っていたのに。
 季節のずれた表紙の写真と、三ヶ月ほど前のナンバリングに買ったときのことを思い出してみるものの、ほとんど手を付けないままなくしてしまったので、中身はさっぱり思い出せそうにない。ティエリア自身も、ペンを片手にかれこれ一時間ほど対峙している有様を見る限り、順調とは言い難かった。
 彼の座っているソファの背後に立ち、こっそりと覗き込んでみる。見事に、芸能とゴシップ問題のところに虫食いが起きているのに気付いて思わず口の端をつり上げてしまった。
 小さな居間には不似合いなほどの大型テレビを買ってみせたくせに、日々の情報収集は端末でニュースサイトをさらって済ませている。その上、毎日見ている通販番組のナビゲーターの名前すら覚えていない彼には、難しいのだろうか。
 あれこれと首を傾げながら、ああでもない、こうでもない、と名前を綴っては消していく一生懸命な様を微笑ましく思った。時折端末に手を伸ばしては頭を振り、押し戻すということを繰り返している。
 ソファの後ろからティエリアを抱きしめて、まるい頭に顎を乗せた。虫食い部分に指を乗せて、くすくすと耳元で笑ってみせる。
「ここ、わかんねえの?」
「…うるさい」
「お前、テレビとか見ねえもんなー。ほら、Rで始まるあの…、CMにも出てる、」
「うるさいと言っている!」
 むきになって怒鳴るティエリアにますます笑みが深まる。いつも、読むのが早いティエリアに、推理小説の犯人をさらりとバラされてばかりなのだが、逆の立場というのはなかなか気分が良い。
「こっちはちょっと前にやってたドラマで…」
「黙れ!」
 高揚感に浸っていると、俺がなぞっている雑誌を強引に奪い取り、ばしんと鼻っ面を叩かれた。思わぬ反撃に思わず目を見開くと、勢いよくティエリアがソファから立ち上がって、床に雑誌を放り投げる。きつく俺を睨んだ後、ぱたぱたと自室に駆け込んでしまった。
 どうやら、思った以上に怒らせてしまったらしい。少しからかうだけのつもりだったのだが、失敗してしまったようだ。
「やっちまったかなぁ…」
 軽く頭を掻いて、固く閉ざされた彼の部屋のドアと、床に投げられた雑誌を見比べる。そして雑誌を拾い上げ、ぱらぱらとページをめくった。そして、最終ページに視線が留まる。
 ―――そこには、見覚えのある景色があった。
 緑の深い、アイルランドの風景だった。このクロスワードパズルの正解者に、抽選で…と大きく書かれている。あんな国を商品にしたところで、楽しくもないだろうと、思わず笑ってしまった。この雑誌を手にとったのだって、本当に、偶然だった。
 けれど、彼は気付いていたのだ。だから、あんなに一生懸命。慣れない芸能問題なんかを一生懸命考えて。
 帰りたいなんて、思ったことはあまり、ないけれど。
「…可愛いやつ」
 小さく呟いて、彼が放り投げたペンを拾い上げる。彼が難航していた虫食いをちょこちょこと埋めながら、笑う。これを見たらきっと、彼は怒るだろう。それでもいい、と思ってしまった。




 空腹を感じて部屋から出た。逆に言えば、そういう時間になるまで部屋から出られずにいたのだ。
 たかがクロスワードパズルに、腹を立てすぎただろうか。彼だって親切で教えてくれようとしていたのに、その気持ちを無碍にして怒鳴りつけてしまった。密かに、故郷への切符をプレゼントするのも悪くない、と思い始めてから、冷静になれなくなっていた。それで彼を傷つけてしまっては仕方ないというのに。
「なんという失態だ…」
 小さく呟き、おそるおそる居間を覗く。彼は怒っているだろうか。そう思うと少し足がすくむけれど、いつまでも部屋に籠もっているわけにもいかない。
 深呼吸をしてから、思い切って一歩、踏み出した。ソファの先を真っ直ぐに見つめる。
「ロックオ…、」
 呼びかける声を途中で飲み込む。ソファの上に、彼が小さく寝息を立てていた。
 頭の中で渦巻いていた謝罪の言葉が、はしごを外されてぐちゃぐちゃになる。それでも所在がなく、彼の寝顔を覗き込むと、腹の上にあの雑誌が乗っているのを見つけた。
 それを拾い上げてぱらぱらとめくる。心臓が早鐘を打った。長い時間悩み続けていたページにたどり着くと、そこには完璧に埋まったパズルが用意されていた。
 彼の右上がりの綴りで、知らない単語があちこちに書かれている。虫食いのない完璧なパズルを目で追って、思わずため息を吐いた。妙なところで優しいのが困るのだ。

『一緒に行こう』

 雑誌の隅に書かれた言葉を見つけたとき、不覚にも泣きそうになってしまった。
 本当は彼のために、自分で用意してあげたかったのだけれど。二人でこうして解くのも悪くないかもしれない。少なくとも、つまらないことで腹をたてるよりはいいような気がした。
 彼の腹に雑誌を置いて、寝顔にそっとキスをした。彼は長い寝息を吐き出して、うすく笑ってみせた。目が覚めたのかと思い、心臓が跳ねたが、寝返りを打っただけで終わる。安心した。


 結局、投函直前になって締め切りを過ぎていたことに気付き、僕たちの野望は潰えてしまった。それでも、二人で解いたクロスワードパズルは、こっそりと端末のデスクの隅に飾ってある。
 もし、本当に彼の故郷に二人で行くことになったら、二人で撮った写真をここで飾ろうと思った。