その日のランチタイムは、鍋の底に残されていた野菜スープを平らげた。飲み込みづらいニンジンの塊を殆ど咀嚼せず強引に嚥下した後、皿を置いてパソコンの画面に向き直る。食事はダイニングでしろと、これを作った相手は注意するかもしれない。しかし生憎そんな余裕はなかった。胸の辺りが落ち着かないのは、強引に飲んだ野菜のせいだけではなく。
 以前ならば昼食を忘れて作業に没頭することもしばしばあったが、今は心拍数が余計に上昇するせいでそれもままならない。秒針と短針が重なった頃から、新着メールのフォルダが気になって仕方がない。メールが届いたらホップアップが報せるようになっているため、何度も開いたところでさしたる意味などはない。分かっている。けれど、せずにはいられないのだ。
結局、長針が一周するまで新着メールフォルダを注視し続けてしまった。右手の親指から左手の小指まで爪がいびつに噛み尽くされ、それでも落ち着くことが出来ずに左手の親指を甘噛みしていた。
 だから、メールの着信を告げる電子音が鳴ったとき、驚いて思わず親指に強く歯を立ててしまった。
 しかし、鈍い痛みと共に鼻を刺す鉄の匂いも不快に思うキャパシティなど存在しなかった。食い入るように画面を睨み付け、フォルダを開く。開封する前に発信者が見知った友人であることを確認してから。以前、同じような時間帯に通販のダイレクトメールが来たときは、思わずキーボードを床に叩きつけてしまった。均一に送信される電子情報に感情を汲めというのは無謀だが、そんな不条理な要求を突きつけたくなるほど腹が立った。
 日付のみが書かれたシンプルな件名を前に、深く息を吸い込んで、吐き出した。心拍数が若干の落ち着きを見せたところで、クリックをする。先日の君の指摘のお陰で新たな観点から考察することが出来た今後ともよろしく。そんな文面は目でなぞるだけで終わる。社交辞令などに興味はない。こちらが欲しているのは彼がもたらすいくらかの画像ファイルだけだ。
 もう一度深呼吸をして、それから添付ファイルをクリックした。いい加減慣れてもいい頃だというのに、いつもこの瞬間ばかりは緊張で指が重たくなる。心臓がぎゅっと潰されるような息の詰まる感覚が、高揚によるものだと知っている。
 そして、ホロモニターに映ったのは高画質の写真データだった。ロックオンが紙コップのコーヒーを眠たげに啜っている。それだけの写真だ。あと六時間もすればデータではなく同じようなものを見ることが出来るだろう。しかし、それを頭では理解していても画面から目が離せないでいる。
 こんなものは無駄だ。何の意味もない。有益な情報など何処にもない。以前ならば鼻で笑って切り捨てたようなそれを、今は高い脈拍と共に見入っている。この家にいるときの彼はひどく穏やかで、こちらを否応なく包み込む甘ったるさがあるが、この写真の中ではその片鱗も見せない。彼の商売道具である銃のように真っ直ぐで重い。軍事機密の関係もあるのかビリーの送ってくる写真は休憩時間のものばかりだが(しかも背景まで緻密に加工されていたりする。彼はいつ仕事をしているのだろうか。)、それでもある種の緊張感は常に存在していた。

 ひとしきり眺めた後、専用のフォルダに放り込んだ。少しずつ容量を示す数字が増えていくのを見ると気分が良くなった。それからいくつものパスワードでロックを掛け、不可視領域に放り込む。彼はパソコンにさして興味を持たないようで、淫猥な画像の入ったフォルダの名前を変えて奥の階層に押しやっただけで隠した気になっている。そのため見つかることはないと思うが、万が一目に触れたら何を言われるか分かったものではない。彼に見られることだけは絶対に避けたかった。自分がこんな、唯の写真を集めて毎日眺めている、なんて。
 自分の及ばない範囲の彼、というものをずっと許容できずにいた。自分のいない場所で呼吸をしている彼など死んでしまえばいいと心底憎んでいた。こちらに触れてくる体温や注がれる視線だけが全てであり、それ以外は偽りだった。
 けれど、そうではないのだと認められたのはいつからだろう。一緒にいようと彼は言って、約束だと言って指輪を渡した。形に残らないから淋しいのだと言って、ベッドサイドにフォトスタンドを置いた。そのときは唯のごまかしだと笑ってみせたけれど、少しずつ増えていく写真を見ていると、朧気ながら理解できる、気がした。日常の彼の片鱗を少しずつ集めていく作業は、絶え間なく流れていく情報の奔流を追うよりも楽しかった。
 何より、彼の帰宅を待つことが、以前よりも不安でなくなった。あれほど憎み恐れていたのは知らなかったからだ。認めようとしなかったからだ。信じようとしなかったからだ。彼の存在を。言葉を。

 ホロモニターに映る彼の姿に手を伸ばす。しかし指先はそれを通り抜け、ほのかな熱だけがそこに残った。当然のこととはいえ、こちらが働きかけても応えない彼というのは妙に新鮮だった。いつもは少し手を伸ばせば、作業を中断して必ず反応を示す。本やテレビに夢中になっているかと思えば、こちらの些細な動きまで目が行き届いていて、たまに驚かされるほどだ。
 辺りを見回し、気配がないことを再確認する。セキュリティの訪問者認証を三回ほどチェックして抜かりはないと分かった上で、画面へ向き直った。友人は機密保持のようなやむを得ない場合を除き、解像度を下げるような野暮なことはしない。画面を最大化すれば、手頃な大きさになってくれた。
 コーヒーの湯気を受け止める頬に、そっと唇を寄せる。ちょうど半開きで少し間の抜けた唇の端の辺りだ。ホロモニターの体温よりも高い熱が唇に滲んでいく。コーヒーの熱もきっとこんな感じだろうか。
 ――しかし、唇を離すとすぐに熱も冷める。それに伴う衝動も冷め、冷静さを取り戻した。残るのは焼けるような羞恥心だけだ。最近になって購入した携帯端末の、バイブレーションの音がそれに追い打ちを掛けた。
「…………なんという、僕は…、」
 誰も聞いていないのに、唇が勝手に音にならない音を出し始める。頬の温度が望まずに上昇していくのを自覚した。受信メールを開く手元が狂い、本文よりも先に添付ファイルを開いてしまった。送信者すら確かめていなかった。

 そして。そのファイルを目にした途端、反射的に端末を放り投げる。
「あの男…………!!!」
こみ上げる熱がいっぺんに棘を孕んで再加熱した。フローリングに端末が衝突する悲鳴も聞かなかったことにして、背を向ける。最大化した写真と視線が合ってしまうのが余計に腹立たしく、衝動でホロモニターを閉じた。

 床に転がった端末の画面には、親友の名前と、おまけだよ、という絵文字付きのふざけた文面。それから。
 僕と全く同じ場所にキスをしているグラハム・エーカーとのツーショット写真だった。