ぷすん、と気の抜けた音と共に、急制動がかかった。前につんのめりそうになる身体を、シートベルトと右から延びた腕が支える。人気のない深夜の道路の真ん中に、ロックオンのやたらにクラシックな愛車は立ち往生した。
「はーい、エンスト。も一回始めからな」
 助手席から伸びた手に頭を撫でられる。ロックオンは明るい声でそう言ったが、それは決して茶々だったり、嫌味といった類のものではない。心の底から励ますように、またそんな単純なミスを今夜だけで28回繰り返す自分を、心底かわいいと思っている。
 だが往々にして、ロックオンの慈愛だが庇護欲だかは、こちらの機嫌を著しく損ねることが多いのだ。
「車が悪いっ!」
 わざわざ手袋を外した上で髪に触れる手を叩き落とし、そう叫んだ。ロックオンの車は、恐ろしく昔のレーシングカーのレプリカだ。所有者いわく、レースではなくラリーだというが、そんなのは瑣末な問題だった。とにかく、おそろしくマニアックでクラシックな外見に違わず、運転方法も外見のそれと同じく厄介だった。
「なんなんだ、この奇天烈なメカニズムは! なぜ時代とともに進歩した機械技術を取り入れようとしない!」
「いや、ふっつーにマニュアルなだけなんだけどな。車好きは結構こっちで乗るんだぜ?」
 ついでに振り上げた腕は、ロックオンの癖のある髪を掠めるだけで簡単に捉えられてしまう。それ以上はいくらもがいても窮屈なシートベルトが邪魔をしてかなわなかった。結局、ロックオンの手のひらの感触に逆立ちそうだった髪は宥められ、もう一度ハンドルを握るしかない。走行状態を維持するだけでも厄介なこの車を、もう一度起動させるのは億劫でしかなかったが、ハンドルを握るなり、がんばれ、と肩を叩かれた心地良さには抗えなかった。



「やっぱりティエリアにも必要だと思うんだ」
 いつものように助手席に身を委ねていると、運転席のロックオンがそう切り出した。器用に片手でハンドルを操作して、僕の膝にかかったブランケットを引き上げながらのことだ。
「何がだ?」
「ほら、いつも俺がこうして迎えに来てやれるとは限らないし、カタギリさんも忙しいし、隊長の車には乗りたくないだろ?」
「言いたいことは理解できないが、最後の件に関しては断固拒否するくらいに嫌だ」
 俺もゴムが常備してある車にはお前を乗せたくないよ、ロックオンはそう言って笑った。それは彼やビリーやあと一個が所属する部隊でホームパーティーが急遽開催されることになった日で、ロックオンは基地から家に僕を迎えに来て、そのまま基地へ戻ろうとする途中のことだ。なぜそう頻繁に、基地内での馬鹿騒ぎが認められるのか、ユニオン軍とはそんなに暇なのかと不可解でならないが、ロックオンいわく誰だかの失恋パーティーなのだという。
「だからさ、ティエリアも持ってれば、何かあっても便利だろ?」
「発言の意図が掴めない。再考を要求する」
 彼らの催すパーティーは、最初のころほど忌避しなくなったものの、やはり慣れない。ことあるごとに僕を連れ出すロックオンの努力と、現地にいる友人に譲歩してしぶしぶ上着に袖を通した僕の機嫌は決して良くはなかった。
「えーと、だから、ティエリアも取らないか? 運転免許」
 不要だ。いらない。あなたがいる。でかけない。立て続けにそう返したのは、不機嫌もあったが実際に必要とは思わなかったからだ。だが、俺に何かあったときに困る。そうロックオンは困った顔をして言った。
「俺が、例えば熱出したとか怪我したとか。そういうときティエリアに助けてもらいたいなー、なん、て」
 機嫌を恐れるように萎れていく語尾と、高い上背を縮めて上目遣いでこちらを窺うロックオンの様子を気にする余裕は、すでになかった。
「助けて?」
「欲しいんだ。ティエリアに。そうでなきゃ、俺は隊長の車に乗んなきゃいけなくなっちまう」
 それは非常に甘美な誘惑だったのだ。ロックオンに希われるということは極めて少ない。与えてばかりの男は、与えられることを残酷なくらい巧みに避けてしまう。その彼が、助けてほしいと言ったのだ。それを聞けば、もうステアリングを握らないわけにはいかない。
 しかし残念ながら握りしめたそれは、彼がネットオークションで競り落とした年代物で、車本体に至ってはネットにも出回らないから足で探したという希少種。さすがに古代文明の遺産ともいうべきガソリンエンジンでこそないが、運転機構はほぼ当時そのままだ。
 オートマへの改良を要求したところ、彼はかつてない断固とした口調でこう言った。
「オートマのランチアなんて俺は絶対認めねえっ!!」
 彼とはもう随分長いこと一緒にいる。その間にすれ違いはいくらでもあったし、喧嘩もした。しかしギアやステアリングを抱きしめながら言うロックオン・ストラトスを、ここまで遠く感じたのは初めてだった。



「免許取れたら、ティエリア用の車を買ってもいいな。何がいいかな。ミニとかワーゲン? なんか可愛いのがいいなぁ」
 嬉々として語る彼に、今すぐに自動操縦付きのオートマ車を買ってこいと言ったら、まだ免許取れるかもわからないのに無駄遣いはいけません、と叱られた。すぐ売り払ってしまえばいいのにと思いつつ、車に関しては下手な発言は慎もうと、先程の叫びを考慮して思うだけにする。
 深夜の住宅街には車も人通りもなく、練習には最適だった。道のど真ん中で立ち往生したとて、後ろからぶつかってくる後続車両もなければ、曲がり角で一時停止しなくとも出てくる人影もない。その度にロックオンは悲鳴かそれに近い呼吸を吐き出して、やがてこう言った。
「いっそティエリアを膝に乗せて運転させたい。そうすりゃ俺もブレーキ踏めるし……」
「構造上不可能だ」
 ティエリアかわいいのに……という彼の訳のわからない発言は、本当にわからない。
「うん、まあ初日だしな。じゃあ今日はあと路上駐車したら終わりにしよう。そこ寄せてみ? この車なら、丁度ボンネットの線のとこに縁石合わせるようにすればどんぴしゃだから」
 彼がアドバイスをしていることはわかるが、その内容は相変わらずわからない。マニアなアマチュアにレクチャーされるのが一番危険なのだと言ったのは、確か友人だった。
 ―――プロならば素人への指導の仕方も心得ているけど、アマチュアは一般レベルや素人の基準を自分のそれと無意識に同一視する傾向があるからね。
 そのときは確か、共通の趣味である情報技術についての会話だったが、どうやらそれは世間一般に当てはまる事柄らしい。ロックオンは聡明で公正で、自分と異なる価値観であっても差異を想像で補うことができる人間だと思っていたが、車に関して、彼はどこまでもマニアなアマチュアそのままのようだ。
 ボンネットと縁石の関係性がわからないままわからないなりにハンドルを右に切る。ロックオンは車体が傷つくことを何よりも恐れていたので、縁石に擦らせないよう早々にハンドルを戻そうとした。が、戻らなかった。助手席からロックオンが手を伸ばし、ハンドルをそのまま押さえていたのだ。
「ロッ、」
「大丈夫。そのまま……」
 いつの間にかシートベルトを外して身体を運転席の方に乗り出し、ハンドルを握っている。視線を合わせるためか、横髪が頬に触れるほど顔が近かった。慎重に吐き出される呼吸が目尻を掠めて、背筋がぞくりと粟立つ。
「今な。あの線と縁石が交差してるだろ? このタイミングでハンドルを戻すんだ」
 ロックオンは片手で器用にハンドルをくるくる戻した。それは私の腕をぶら下げたまま、元の位置へ戻っていく。しかしそれに構う余裕はなかった。彼の囁きが耳朶を熱くして、運転席のシートに押し込んでいた身体がどくりと脈打つ。
「ここで停止。そうそう。よし、おっけ。良くできました」
 そのタイミングで車が止まったのは全くの偶然だ。彼の言葉と、足から全ての力が抜けるのが同時だっただけのことだ。それでも彼は気づかずに、手袋をしたままの手で髪をかき撫でる。ごく至近にあった顔が、さらに寄せられるのがわかった。頬に彼の息遣いがさやさやと重なる。頬に触れるであろう唇を予感して、顔をそちらに向けた。
「ん、」
 唇がぴたりと重なる。彼が何か言う前に舌を滑りこませて、口腔内にまで達した熱を伝えてやった。ハンドルにかかったままだったロックオンの手が乗り出しかけたこちらの胸を押し返そうとするのを、身体でさらに押し戻す。呑気に指導教官を気取る彼に高まった体温が伝わったに違いないので、これはとても良い方法だった。
 もどかしげに身体を縛りつけるシートベルトを外し、シートを蹴って身体を起こす。助手席との間にあるギアやら何やらを、唇を吸いながらロックオンの上体ごと飛び越えた。
 そうすれば彼はもう条件反射的にこちらの身体を受けとめてくれる。脇の下、肋骨に沿うように這わされた指先は力強いが、それ以上に甘く感じた。こちらの意図は、彼の熱烈すぎて下手な説明より余程うまく通じている。
「はっ、あ、ん……」
 彼の膝を跨いで、足の付け根を押しつける。同時に両手を彼の頬に添えて仰向かせた。俯いて垂れた自分の髪に、彼の顔が囲われているのは見ていて快い。息継ぎのために離した唇を、またすぐに覆い被せるようにして重ねた。
 角度を変えながら、何度も何度も強く吸う。やがて舌が重くなってきたので、強弱をつけて吸い、歯列をなぞって唾液を飲み干す。腰に回っていた彼の手のひらが背中や脇腹を這い、胸の方にまで上がってきたところで、ようやく唇を解放した。本当はそうしたくはなかったけれど、いい加減顎が疲れて呼吸も苦しかった。
「先生への、レッスン代……?」
 うっすらと開かれた瞼の間にある瞳は、暗い車内では青が強く見える。それが薄く分泌された涙の膜に覆われているのが何とも良い気味だった。答えないまま、胸に触れようとしていた手を取り、ぴったりと嵌められた手袋をはぎ取る。みりみりという皮膚と革との摩擦音の後、現れた彼の手のひらにそっと口づけた。それをすでに緩んだシャツの裾から差し入れさせる。彼の手はじんわりと熱を帯びていて、すぐに肌に馴染んだ。ロックオンもそれをわかっていて、背筋の窪みや肋骨の隙間に親指を当てて熱を煽る。
「違うな。これは、ティエリアへのご褒美、か……んん、むぅ」
 ずる、と音がするほど溢れる唾液を強く吸って、ロックオンの軽口を止めた。彼はすでにシートベルトを外していたので、シャツの裾を捲りあげるのは容易い。鍛えられた腹筋を探り、がちりと締められたベルトを外す。前だけを寛げて露出させたものを握ると、口の中にロックオンの甘い吐息が充満して、後頭部の下の方がびりりと痺れた。
 不意に、がちん、と鈍い音がした。何事かと思う前にシャツの下からロックオンの手が入りこみ、それがいつの間にか離れていたことを知る。視線を斜め下に遣れば、サイドブレーキがかけられていた。中心を握りこまれて、口腔を蹂躙されて、官能に震える吐息を吹きこんできたくせに、彼はいまだに冷静で、そのことが酷く悔しい。
「ひゃっ、……あっ、あ、」
 ロックオンは片手で簡単にボタンを外す。肩から滑り降りて二の腕で絡まるシャツをそのままに、唇の拘束から逃れたロックオンは胸を噛んだ。加減された、甘い感覚が痛覚を刺激し、腰が跳ね、高い声が出る。悔しい。敵わない。
「ああ、ゃ、ぁ、」
 これもいつの間にか太股の半ばまで下ろされたボトムが邪魔だった。その中心をくすぐるように引っ掻く指遣いに、咽喉の隙間から滑り出る声が高く細くなっていく。膝でぐしゃぐしゃになったスラックスにぽたぽたと先走りが零れ、彼に懇願せざるを得なくなった。
「ロック、オン、ロックオン、もう、っねが、い、」
 拘束された足を動かし、膝を進める。先程露出させて誘発したそれが太腿にひたりと触れて背筋が震えた。熱い塊が触れた場所が焦げつきそうで、融けそうで、肩にしがみついて耳元で哀願する。
「ああ、ご褒美、だもんな。……俺にもっ」
 ぐ、と押し込められるのと同時に腰を落とした。内壁をせり上がってくるものを夢中で締めつけ、ロックオンの手に促されるまでもなく腰を振る。一番熱く疼く場所を何度も擦れば、車がぎぃぎぃと揺れて、それがまた身体全体を揺らして熱を擦り合わせた。
 視界がぐるぐるゆらゆら揺れている。世界全部が揺れて、そこから熱が中心に集約していくようだった。やがてそれら全てが真っ白に弾ける。
 折れそうなほど仰け反った背中をロックオンの手が支えてくれた。千切れそうなほどの声を上げた咽喉はロックオンの唇が宥めてくれた。
「は、はぁ、はあ、」
 何度もロックオンに習ったように、肩ごと深く息をして呼吸を整える。少し落ち着いたところで、スラックスにべったりと付着した白濁に気づいたが、いいだろう。それは頻繁な情事の所為で薄く粘性が乏しかったので染みてしまっているが、どうせロックオンがどうにかする。
「ロック、オン……ひゃあっ」
 胸の辺りにある彼の頭に頬を寄せると、不意にそれごと身体が前のめり―――ロックオンは後ろ向きに倒れた。まだ熱を保った彼自身を収めたままで、思わぬ衝撃に間の抜けた声が出る。
「今の声、いいな。すっごく可愛い」
 今度はこちらが彼の胸に頭を寄せる形になった。頭上でくすくす笑う気配に、助手席のリクライニングを全て倒したこの状況が彼の故意によるものだと知る。
「あなたは時々、酷く悪趣味だ」
「そう…?」
 耳に直接囁かれて、脳がどうにかなる前に身体を起こそうと窓ガラスに手のひらをつけた。汗で湿ったそれはぴたりと吸着し、窓ガラスは冬の外気に冷えて、体温との温度差にたちまち曇る。胸と胸とを引き剥がそうとその手のひらに力を込めるが、そこにロックオンの手が重なった。自分のそれよりも大きな手形が窓ガラスの曇りを犯し、手のひらを引き剥がす。前に倒れこむ身体は巧みに反転され、すり替わるように起き上がったロックオンによって仰向けに寝かしつけられた。
 同時にずるりと膨張したものが引き抜かれ、内壁を擦られる酩酊感と喪失感の矛盾が酷く辛い。
 足が持ち上げられ、先程まで繋がっていた場所が晒される。熱に慣れたそこが空気に触れて、温度差に震えた。膝の間に絡まっていたスラックスが引き抜かれ、尻の下に敷かれる。そのときますます高く上げられた足の爪先に、天井が擦れて倒錯感に眩暈がした。
 その足もロックオンの肩に落ち着き、やがて来るものを予感して口元に手の甲を当てる。暗さに慣れた目でロックオンを見上げると、彼がにやりと笑った。いやらしいことを考えているときの顔だと思った。
「ティエリア、かぁわいいの」
「っ、うるさい……あっ」
 続く文句は手の甲で閉じ込めるしかなかった。晒されて震えていたそこに蓋をするように、また熱が当てられる。高く大きく広げられた足と、平らに寝かされた背は、与えられるものを待望していた。それに備えてロックオンには聞こえないよう、できるだけ静かに息を吸い込む。
 しかし肺が一杯になっても、熱が押し上げてくることはなかった。訝って薄く瞼を開けると、ロックオンが笑っている。少し困ったような顔をしていたので、騙されたと怒ることはできなかった。
「ロックオン…?」
「悪い、ティエリア。車にはゴム置いてないし、シート汚したくないし」
 足の間から身を乗り出したロックオンが、胸の辺りで囁く。それは状況的に故意ではないだろうが、胸の先端と唇が触れた。
「……中、出していい……?」
「っ、……ん、い、いま、さらっ……」
 当てられるだけの熱と、屹立して敏感な胸に吹きつけられる囁きに、吐き出したばかりの中心が頭をもたげる。
 結局、私は貪欲なのだろう。ロックオンはそれを知っているに違いない。だから幾らでも与えようとする。ならば、ロックオンに与えることすら求めようとする私のさもしさもわかってくれればいいのにと、残念なのか悔しいのかわからない奇妙に小さな気持ちが残った。
「そりゃそうだよな。ごめんな。……ありがとな」
「へ?……ぅっ、あっ」
 冗談めかした囁きが脳に届く前に、身体の中心にそれが届いてしまう。太股に何度もロックオンの身体がぶつかって、身体と車が激しく揺れた。親指と人差し指の間が大きく空いた爪先が、何度も何度も天井を掻く。
「ふっ、ん、んーっ、んんっ」
「ティエリア、ティエリアっ、は、あっ……!!」
 ぱちんと中で弾けたものが、脳髄にまで浸っていく。脱力していく身体がどちらのものかわからない。きっとつながっているからだ。ぐずぐずに濡れた場所からそれが引き抜かれてなお、つながっているような気さえする。
 唇に押し当てていた手を外す。ずっと潰していたせいで、唇は平らになって少し痺れていた。そこにロックオンの吐息と、次いで唇が触れる。
「ん、んー……」
 唇で挟まれて、平らになった唇がまた形を取り戻した。それを甘く噛まれて、舌先だけを触れあわせる心地良さに眠気が誘発される。
「疲れたろ、いいよ。落ち着いたら俺が運転して帰る。で、お前を抱っこして、身体洗って、ベッドまで連れてく」
「ん」
 汗で貼りついた前髪をかき分けられ、額に唇が触れる。習慣になりつつある流れだった。こればかりは、与えられるものを享受するしかないのだろう。救い難いことに、それを何よりも望んでいるのは自分自身だった。






「ティエリア、あのな。坂道発進ってのはな」
「停止しなければ発進する必要はない。だから俺は坂では止まらない」
「道路はお前ひとりのもんじゃないの! 皆で走るの! わがまま言うんじゃありませんっ!」
 坂の一番下に止まったランチア・ラリー037の助手席で、今夜も下手な教官が叫ぶ。その前にあるダッシュボードに避妊具が常備されるようになったのは、少し前のことだった。