いつの間にか寝入っていたらしい。カーテンの隙間から射し込むのは、いつの間にか月明かりから朝の陽光に替わっている。淡く白い光の中で、頬を押し付けたロックオンの胸からとんとんとんと脈打つ鼓動を感じた。それは下腹部からじわりと浸る温かさと、つむじやこめかみに与えられるキスと相俟って、覚醒したはずの頭に緩やかな微睡みを誘う。
 ぼんやりした意識の中で、触れるほど間近にある彼の胸を指で辿った。滑らかに隆起した筋肉の道筋が指先に心地好い。
「……っ」
 ふと、頭上で息を呑む気配がした。自分がそうされて上げる声とはいえ違う気配に顔を上げようとすると、頭に彼の頬が押しつけられて叶わない。やがて髪を伝って熱い涙が頭皮に触れた。
「ロックオン?」
 しゃがれた囁くような声しか出なかった。見えない位置にある頭に手探りで腕を伸ばし、濡れた頬や髪を撫でる。肩を抱いていたロックオンの手に力がこもり、元々ないに等しかった距離が更に縮まった。身じろいだせいで足の間から伝う気配に、膝を固く閉じる。そしてくっつけた膝ごと彼の足に寄り添った。
「……殺したんだ」
 ロックオンは起伏に富んだ声音でそう言った。最初それは家族を喪った自責の念からくる発言かと思ったが、続く言葉がそれを否定し、僕の知らない事実を告げる。
「アザディスタンにいたんだ。奴が。俺は殺した。照準を合わせて、狙い撃った。奴は奴が起こした爆発よりずっとあっけなく弾けて燃えた」
「そうか」
 陳腐な言葉しか出なかったが、それを恥じようとも悔しいとも思わなかった。今、彼には意味のある言葉はいらないのだと理性によらずわかる。代わりに、シーツを滑って自分の頭上にあった頭を引き下ろすようにして、胸に抱いた。柔らかい癖のある髪に指が滑るだけ、彼を慰撫することができればいいのにと祈りながら。
「奴がいるから、忘れられないって、前に進めないって、探すつもりもなかったのに、見つけちまったら、俺は止まらなくてさ。でもこの世から消しても、そこにあったのは暗い風穴みたいな気分だけでっ……」
 彼の言葉には力がない。意味もない。しかし過去と感情が鋭く渦巻いて触れたら指が裂けそうな気さえした。けれども撫でる動作を止めようとは思わない。淋しいと泣いた私を、彼がずっとそうしてくれたように。
「俺は、仇を討ちたかったわけじゃない、恨みを晴らしたかったわけじゃなくて、」
「……ああ」
 ロックオンは自分の感情に名前をつけるのが上手かった。言葉にできず惑ってばかりの僕と違い、巧みに方便を見つけて完結させてしまう。ビリーもそうだ。あの男もそうかもしれない。もしかしたらそれを大人と呼ぶのなら、自分はちっぽけな子どもに過ぎない。何も持たない子どもだった。それでも、彼が好きだった。
「俺は、淋しかったんだ」
「うん」
 幼い同意を、幼子のように胸の中で咽び泣く彼に落とした。彼の嗚咽が胸に響いて痛かったが、押し包むように彼を抱いて耐えた。しゃくりあげる背を撫でる自分の手の不器用さが忌々しかったが、それでも撫でることは止めない。初めて明かされた彼の慟哭を受けとめるために、この肉体があるのだとこの瞬間確かに思った。


 そして窓から差し込む陽射を受けて、ロックオンの明るい色の髪は暖かく柔らかく乾いていく頃、やがてその嗚咽は止んだ。引きつるような呼吸が緩やかになり、涙で貼りついていた彼の顔が離れる。腕で乱暴に目元を拭う彼は、鼻にかかった嗄れ気味の声で言った。
「あー、くそ、かっこわりぃ」
 言いながら、のそりとロックオンが身体を起こした。涙で貼りついた皮膚がぺりぺりと剥がれていくのが少し淋しいが、ずず、と鼻をすする音が、彼の腕の陰でする。泣いた自分を恥じて、いや、照れているのだとわかった。そしてそう思いながらも自分の前で稚拙で生々しく荒削りな感情を見せたという事実が妙に嬉しく、自然と口が滑る。身体を起こし、剥がれてまとわりつくシーツを蹴やりながら、彼の顔を覗き込むようにして言った。
「あなたをかっこいいと感じたことなどないが、あなたがそうまで言うなら私も言っても良い」
「え、なに、何だよ」
 ロックオンの顔が上がり、赤くなった目元と鼻先が見えた。なるほど、いつもとは違う顔に思わずくすりと笑いながら、言う。口にすることなど絶対できない、口にしたら最後、もうその場にはこの家にはいられないと、思っていたことだったのに、今はこんな、軽く。
「いらないと言われたら、どうしようかと思っていた、」
 軽く言えたはず。はずなのに、語尾が酷く震えて歪む。驚いたロックオンの表情がぼやけて歪み、眼尻を指先で拭われて自分が泣いていることを知った。
「ティエリアが好きだ」
 もう一度、今度は唇で目尻を吸われる。睫毛を揺らすほど近くで囁かれた言葉に、また涙が止まらなくなりそうだと思った。
「ティエリアは?」
 眉間に、頬に、睫毛の先にキスをされてこそばゆい。次いで唇が、唇のすぐ間近で問うた。答えを待ち構えているように。 
「すきだ」
「もっと言えよ」
「もう言った」
「やだ、もう一度、な」
 やりとりの間に何度か唇が触れる。互いに相手の唇を押しのけるようにして喋る内、裸の背中に彼の腕が力強く回され、身動きができなくなっていた。
「何度目だ、」
 言うことに抵抗があったわけではないと思う。なのに言わなかった。けれど彼も私も笑っていた。気づけば背中にベッドの弾力を感じ、足の間に彼の膝が割り込んでいる。唇を急かしていた彼のそれは胸に伏していた。
「言えって。もう一回」
 微睡みにも似た曖昧な感覚が、敏感な場所を包んでいくのを心地よく感じながら、もう一度、その言葉を囁く。彼の答えは行為をもって代えられた。






 折も良くその日は晴天だった。青い空に薄紅色の花びらが舞い、祝福の拍手と口笛と歓声が二人を包む。荘厳な教会の鐘も、この日ばかりは軽快に祝福を歌っていた。
 花嫁は文句なしに美しかった。何度か引き合わされた時には、花婿に合わない素朴な女性だと、同僚全員の意見が満場一致を見たものだが、清楚な純白のドレスと可愛らしいバラが丸く束ねられたブーケ、そして疑いようのない幸福が彼女をより魅力的にしている。花婿の、結婚式にも絶対に崩そうとしないドレッドヘアもむさくるしい顔も、相殺する効果があった。
 やっと二人が教会から出てきたばかりだと言うのに、もうポンポンとシャンパンが開けられる軽快な音がする。人の良い新郎が来られる同僚を全員呼んだものだから、新婦の友人一同がドン引きするくらいの勢いで盛り上がっていた。さっきまでその中心で、めでたいめでたいと叫んでいた諸悪の根源は、今は花嫁に夢中でキスを贈っていた。見ている人間が不安になるほどの熱心さだ。それを1.5メートルほど距離を空けて傍観している人もいる。新婦の両親のように号泣している新郎の友人もいた。
 そんな騒動を好まない俺の隣人は、場に遠慮してか、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せるだけで我慢している。ただでさえ人目を引く美人なんだから、余計目立っちまうぞ。そう耳に触れそうな距離で囁くと、拍手を止めて下ろした手が掴まれた。それは列席者の視線に触れないよう、身体のかげで繋がれて、対照的な仏頂面に思わず笑う。
 ティエリアがかつて、こういう形式を、契約を望んでいたことも知っていた。その起因する感情も、契約の意味も分からないティエリアは、分からないからこそ頑なにそれを求め、一方で俺は知っているからこそ喪失を恐れ、過去へ執着することで拒否してみせた。そんな言い訳を止めろと言った相手に、俺は叫ぶ。
「なあ、俺たちも結婚しようか!」
 カタギリさん曰く、ハロウィンとニューイヤーと結婚式が同時に来た程の喧噪。叫んだところで周囲の人間は新郎新婦に夢中でそんなこと気にしない。
「いい! 今さらそんなことしなくても、あなたは私のものだ!」
 繋いだ手が強く強く絡む。もう拍手はできない、悪いなダリル。そう一人ごちていると、俺達の声が聞こえた訳ではあるまいが、しぶしぶおざなりな拍手を送っていたジョシュアがこちらに歩いてくる。最初は花婿に不似合いな花嫁の可憐さに目を奪われていたくせに、今は俺と隣の美人を値踏みするように見比べていた。
「おい、ストラトス、誰だよ、その美人」
 予想から寸分外れないセリフ選びだ。花婿以上の熱心さで花嫁にキスを贈っていた隊長や、喧騒からこちらを伺っていたカタギリさんが口を開く前に、俺はティエリアの肩を抱き寄せて、形の良い頭に添うように首を傾げて、言った。
 かつてティエリアが望んだものとは違う、かつて俺が喪ったものとも違う。それでもティエリアは俺のそれで、ティエリアは俺のそれだ。
「いいだろ? 俺の家族!」
 隊長は勢いのままにジョシュアに抱きついた。カタギリさんは音の出ない動作で俺たちに拍手をして見せている。腕に抱いたティエリアは驚いて俺を見上げた後、笑った。
 白い鳩が何羽も放たれ、青い空に飛んでいく。その羽と花びらの舞う中で、ピンクのブーケが投げられる。高く高く投げられたその下で、俺とティエリアは馬鹿みたいに笑っていた。幸せそうに、笑っていた。





.....The End